日本基督教団 玉川平安教会

■2024年4月28日 説教映像

■説教題 「神の国に生きる」 

■聖書   ガラテヤの信徒への手紙 5章13〜26節 



†  先ず15〜20節を、まとめて、簡単に読みます。

 『互いに愛し合い、互いに仕え合う自由』、13〜15節に記されていることに、小見出しを付けたら、このようになりますでしょう。

 『互いに愛し合い、互いに仕え合う自由』、この表現に、矛盾を感じる人があるかと思います。確かに矛盾でしょう。しかし、矛盾を感じる人には、パウロが言う自由の意味を改めて説明しなくてはなりません。

 自由とは、何でも好き放題に生きると言う意味ではありません。一方で、自由にも自ずと制約があって、これを超えてはならないという意味でもありません。それではパウロが言う真の自由とは何か、それが、今日の主題です。


† 16節を読みます。

  … わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。

   そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。…

 多くの人々は、『肉の欲望を満足させる』ことが自由だと考えています。しかし、それはパウロの考え方とは、全く違います。『霊の導きに従って歩』むことが、真の自由です。

自分の中から生まれ出て来る衝動によって行動することが自由ではなく、自由とは、人間の心の外から、一人ひとりの心に働きかけて来るものから生まれます。

 後半部はとても分かりにくいのですが、17節以降で説明されています。


† 17節。

  … 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。

   肉と霊とが対立し合っているので、

   あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。…

 ここは、所謂霊肉二元論と聞こえます。人は、肉の欲に縛られています。紛れもない事実です。誰も否定出来ません。その一方で、人の心の中には、それを何と呼ぼうとも、確かに、霊のようなもの、人の欲望を超えて働きかける力が働いています。これも、紛れもない事実であり、誰も否定出来ません。人間の心の中には、愛、思いやりのような、良いものが、確かに存在します。しかし、一方では、欲や憎しみが存在し、ややもすれば、愛、思いやりは、欲や憎しみに負けてしまいます。

 

† 19〜21節には、人間の心の中に住む肉の欲望の一覧表が上げられています。

  … 姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、

  不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴 …

 随分と念入りに上げたものです。一つひとつを見ますと、全く肯けます。その殆どが、人間関係から出て来たものです。


† 22〜24節には、逆に、『霊の結ぶ実』の一覧表が上げられています。

  … 喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制 … これも、人間関係です。全く肯けます。しかし、最後の『節制』には、抵抗を覚える人がありますでしょう。

 つまり、『節制』は、自由からはほど遠いと感じるからです。

 これが上げられていることは重要です。他のものは、全て、自然な感情です。自発的なものです。しかし、『節制』だけは、自分の感情を抑制するのですから、自分の感情に逆らったことです。自由ではなく不自由だと言われそうです。


† さて、見逃してならないのは、この箇所です。23節の後半、

  … これらを禁じる掟はありません。… そして、18節。

  … しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。…

 この二つを併せたことが、真の自由です。

 つまり、自分の心の中に救う欲望・衝動に操られて生きることは、欲望・衝動の奴隷として生きることです。

 一方、律法は、これら欲望のままに生きることを禁止しています。これは、自由ではなくて、律法の奴隷として生きることです。そして、律法は、これらの欲望を規制するために存在するのですから、律法の奴隷として生きることは、所詮は、欲望・衝動の奴隷として生きることだと、パウロは言います。一寸ややこしいかも知れませんが、事実でしょう。


† 24節後半。

  … 肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。…

 洗礼を受け、キリスト者になったということは、一度は、十字架に架けられて死んだとことを意味します。その時に、『欲情や欲望も』『十字架につけてしまった』というのです。一度は死んだとすれば、正にその通りです。『欲情や欲望も』死んだのです。


† 24節前半。

 『キリスト・イエスのものとなった人たちは』

 何度も繰り返してお話ししています。真の自由を得るということは、自分が自分の主人公になって、欲望のままに生きるということではありません。

 欲望のままに生きるということは、欲望の奴隷になって生きることに過ぎません。

 奴隷が、奴隷から解放されたら、何になるのか、ルンペンになるだけです。

 会社の奴隷という言い方をします。その会社から自由になるためには、どうしたら良いでしょうか。

 仕事を辞めて、ルンペンになることは自由である筈がありません。他の会社に入るか、自分で事業を始めるかしなくてはなりません。もっとも、自分で事業を始めたところで、仕事の奴隷に変わりはないかも知れません。


† 真に自由になるということは、真に働き甲斐のある仕事を見出すということであり、真に愛するもののために、働くということだとパウロは言います。

 使徒パウロは、自分はキリストの僕であるという言い方をします。そういう自覚を持っています。僕とは、奴隷です。キリストの奴隷であることが、使徒パウロにとって真の自由なのです。信頼出来る、正しい主人を持ち、そのために働くことこそが、自由です。言い方を変えれば、正しい目的を持ち働くことが、パウロの説く自由です。


† 13節に戻ります。

  … 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。…

 『自由を得るために召し出された』、微妙な表現です。『召し出された』ということが、そもそも、自由とは矛盾するような気がします。

 「自由を得るための戦いに徴兵された」そんな響きです。

 実は、全くそういうことです。「自由を得るための戦いに」「徴兵された」では矛盾するかも知れませんが、「自由を得るための戦いに」呼び集められ、そして馳せ参じた、それが自由の戦士です。真の自由人です。

 

† 13節後半、

  … ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、

   愛によって互いに仕えなさい。 …

 これも、矛盾と言えば矛盾です。しかし、「互いに愛し合い、互いに仕え合う自由」、これこそが、パウロが説く真の自由です。

 そこに、肉、つまり欲望が入り込むと、誰かを奴隷にしたり、誰かの奴隷になったりしてしまいます。


† 12節。今日与えられた箇所の直前です。

  … あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。…

 酷く乱暴な表現が用いられています。

 これは、割礼主義者に対する批判です。割礼主義者、別の言い方をすれば、儀式、形式、血筋、肉、そういうものの奴隷になっている人々です。

 割礼とは、男性器の端っこをちょっと傷つける儀式です。それが、そんなに大事なこと、拘泥すべきことならば、いっそ、全部ちょん切ってしまったらどうだと、使徒パウロは言っています。乱暴な言葉ですが、13節以下を理解する大きな手助けになります。

 自由とは、儀式、形式、義務、血筋、肉、そういうものの奴隷になっていることからの解放です。

 それでは、儀式、形式、血筋、肉、そういうものを全部蹴っ飛ばしてしまうのか、違います。儀式、形式、義務、血筋、肉、そういうことを下敷きにして考え、行動するのではなく、聖霊に導かれて、自由な意志に基づいて、使命を全うするのが、真の自由です。


† ここで言うことではないかも知れませんが、聖霊に導かれることと、自由な意志に基づいて生きることとは、矛盾しません。表面矛盾にしか聞こえないかも知れませんが、パウロにとっては、聖霊に導かれることと、自由な意志に基づいて考え、行動するとは、むしろ、一つことです。

 聖霊に導かれないと、人間は、他人の思惑や、または自分の欲の奴隷にされてしまいます。聖霊に導かれるとは、自分自身の欲から自由になることだと、パウロは言います。


† 14節。

  … 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって

   全うされるからです。…

 自分を愛し、自分だけを愛していることを、本当には愛とは言いません。それはうぬぼれであり、欲望むき出しに過ぎません。欲望の奴隷になっているのに過ぎません。しかし、『隣人を自分のように愛』する時に、人は、この欲望に過ぎない愛から解放されます。真の愛を得るのです。

 その逆のまた真理です。何度もお話ししています。

 『小さな魚』で知られるエリック・ホガードに、『奴隷少女ヘルガ』という本があります。残念ながら、今は持っていません。この本の扉に、献呈の辞が記されています。

 「愛する息子マルクへ。君が大人になった時に、隣人を愛するように自分自身を愛するように」。勿論、聖書のもじりです。

 そして、聖書と矛盾することではありません。むしろ、一緒です。


† 正しく隣人を愛する者が自分自身を正しく愛することが出来るのであり、正しく自分自身を正しく愛するものが、正しく隣人を愛することが出来ます。

 隣人を愛せず、欲望の対象にする者は、自分自身の欲望の奴隷になっているのであり、このような人は、自分自身をも、正しくは愛することが出来ません。同じ意味のことが、ガラテヤ6章に記されています。2節。

  … 互いに重荷を担いなさい。

  そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。…

 次に6節。

  … めいめいが、自分の重荷を担うべきです。…

 表面は矛盾ですが、『自分の重荷を担う』者が、初めて『互いに重荷を担』うことが出来ます。『互いに重荷を担』うことで、一人ひとりが自分の重荷を担うことが出来ます。


† 15節。

  … だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、

   互いに滅ぼされないように注意しなさい。 …

 これも、矛盾と言えば矛盾です。

 使徒パウロは、5章12節のように、激しい口調で、割礼主義者を批判しています。その文脈で、このように、『共食いしてはならない』と戒めています。

 そもそも、先程の悪徳の一覧表に、『敵意、争い、怒り、不和、仲間争い』を上げています。そして、美徳には、『平和、寛容、柔和、節制』を上げています。

 パウロも、同じイエスさまを信仰するが、ユダヤ教的色彩の強い人々と、共食いしていると批判されるかも知れません。何とも難しいことです。

 しかし、信仰者・キリスト者を自称する者の間の、共食いのような現実を踏まえているからこそ、悪徳の一覧表に、『敵意、争い、怒り、不和、仲間争い』を上げ、美徳には、『平和、寛容、柔和、節制』を上げているのかも知れません。上げなくてはならないのかも知れません。上げなくてはならない現実が、当時の教会にあったのでしょう。


† 25〜26節。何れにしましても、これがこの文脈の結論部です。

  … わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、

  霊の導きに従ってまた前進しましょう。

 26:うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。…

 『うぬぼれ』と『挑み合ったり、ねたみ合ったりする』こととは、一つの根から出ているようです。謙遜であれば、互いに『挑み合ったり、ねたみ合ったりする』ことはありません。『霊の導き』だけが、人を『挑み合ったり、ねたみ合ったりする』罪から解放し、自由にしてくれます。『霊の導き』を、忘我恍惚の状態になることと考えている人がいます。正しくは、我が欲を忘れ、他の人と心を通わせることこそが、『霊の導き』です。