日本基督教団 玉川平安教会

■2025年5月4日 説教映像

■説教題 「あらゆる国の人々に」

■聖   書 ルカによる福音書 24章36〜53節 


◆ …  イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、

 「あなたがたに平和があるように」と言われた。…

 弟子たちの前にイエスさまが突然、その姿を現されました。

 イエスさまは、どうやって部屋に入ることが出来たのか、唯の一行も記されていません。

 イエスさまが部屋にどうやって入ったかは、全然重要視されていません。イエスさまが入って来たのは、不安に
捕えられて閉じ籠もっていた弟子たちの心の中だったからです。

 今日の出来事は弟子たちの心の中に起こった出来事に過ぎず、現実に起こった出来事ではないと言いたい
のではありません。そうではなくて、弟子たちの鍵のかかった心の中に起こった出来事こそが、重大な出来事で
あって、イエスさまが、どうやって密室に出入り出来たかなどは、そんなに重要なことではありません。


◆ そのイエスさまは弟子たちに、『平和があるように。』と仰いました。

 彼らの心は、平和ではありませんでした。不安、むしろ脅えがありました。

 何が彼らの心をかき乱していたのか、何が不安にさせていたのか、それが問題です。

 イエスさまがローマの兵隊に捕まえられ、十字架刑に処せられてしまったことが、第1原因です。

 しかし、それだけではありません。36節。

 … こういうことを話していると … とあります。

 つまり、先週の箇所で読んだエマオ途上での顕現です。

 33〜35節をご覧下さい。

 … そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、

 十一人とその仲間が集まって、

  34:本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。

  35:二人も、道で起こったことや、

  パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。…

 復活の知らせを聞いたことこそが、彼らを戸惑わせ、不安な思いにさせていたのです。

 ルカ福音書もそうですし、ヨハネ福音書もそうですし、福音書の記事を通じて、復活の福音に触れていなが
ら、本当にはそれを信じられずに、依然として不安にさいなまれている弟子の姿が描かれています。

 むしろ、復活の福音に触れたことこそが、彼らを不安な思いにさせていました。

 部屋に閉じ籠もっていた弟子たちは、既に復活の知らせに接していました。しかし彼らの状況も、彼らの心の
内の不安も、何も変わりません。むしろ、不安は募ったのです。


◆ その弟子たちに、イエスさまは『平和があるように』とおっしゃいました。

 これは、復活したイエスさまが弟子たちに向けて、一番最初に仰った言葉です。どんなに大事なことか。重大
なこととして受け止めなければならないか、復活したイエスさまの最初の言葉であるという、その事実だけで十分
な理由になると思います。

 弟子たちは、既に申しましたように、閉じ籠もっていました。

 鍵をかけて部屋の中に閉じ籠もり、心に鍵をかけていました。

 そしてイエスさまが復活されたという知らせは、閉じ籠もっていた弟子たちを、更に混乱させ不安にさせたので
す。だからこそ、イエスさまは、「平和があるように」とおっしゃいました。心の扉を開くようにと、鍵を開けるようにと
仰ったのです。


◆ 37節。

 … 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。…

 イエスさまは『平和があるように』とおっしゃいました。しかし、この言葉に、弟子たちは『恐れおののき、亡霊を
見ているのだと思った。』のです。

 『平和があるように』という最初の福音は、弟子たちを、教会を混乱させました。しかし、十字架の躓き、復活
の驚きと混乱、このことを経なければ、このことを通らなければ、本当の教会は生まれなかったのです。


◆ 38節。

 … そこで、イエスは言われた。

 「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。…

 「疑心暗鬼を生ず」という言葉があります。疑い、不安があると、木の枝さえ鬼の角に見えてしまいます。不安
が、闇の中に鬼を生み出します。心の中に鬼が生まれるのです。

 ここに記されていることは、疑心暗鬼とは真反対のことです。疑い、不安があると、イエスさまの言葉さえ聞こえ
なくなってしまいます。

 山の中で迷子になる時がそうです。疑い、不安があると、かえって道しるべを見逃してしまいます。

 捜し物をする時もそうです。気持ちが焦ると、見付かる筈のものが見付かりません。捜索範囲を広げて、却っ
て収拾がつかなくなります。一端諦めて、翌日探したら、一番有りそうな所にちゃんとあったということは、誰もが
しばしば経験することです。

 疑い、不安があると、見える筈のものが見えなくなってしまいます。


◆ 不安とは、「どうしたら良いのか分からない、何処に行ったら良いのか分からない」それどころか、自分が今ど
こにいるのか分からなくなってしまう気持ちです。人生の迷子になってしまうことです。

 イエスさまは、不安でいる弟子たち、人々に、「どうしたら良いのか」「何処に行ったら良いのか」「今どこにいる
のか」を教えておられます。

 

◆ もう一度37節を読みます。

 … 恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。…

 弟子たちは、自分たちがその目で見たもの、聞いたことが信じられなくなっていました。そして、亡霊などという、
実際には見たこともないものを持ち出して、何とか合理化しようとします。無理矢理に説明しようとします。

 イエスさまの復活という事実が信じられないので、むしろ亡霊を信じるのです。

 見えているものが信じられなくなり、自分が持っているものの値打ちが信じられなくなってしまいます。これが、
人生の不安です。

 見えないことよりも、見えることこそが、不安を呼びます。


◆ 39節。

 … わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。

  亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」

  40:こう言って、イエスは手と足をお見せになった。…

 もう一度、自分自身の目で見て、確かめなさいと言っておられます。

 日本の幽霊には足が無いけれども、西洋の幽霊には足があると言いますが、ここでは『  亡霊には肉も骨も
ない。』と言われています。アンデルセンの童話では、幽霊にも足や手があり、顔もありますが、背中がありませ
ん。或いは、影法師がありません。

 『肉も骨もない』ということは、影法師のように実体ではないと言う意味です。

 逆に、復活のイエスさまは、肉も骨もある、実体的な存在だと言うことです。単に、霊的な存在ではありませ
ん。

 弟子たちは、亡霊の存在を信じ、霊的な存在を信じても、復活のイエスさまの、肉も骨もある、実体的な存
在を信じられなくなっています。奇妙な話ですが、弟子たちの現実です。このことは、漕ぎ悩む舟にイエスさまが
近づいた場面でも同じでした。見えるものが見えない、見えないものが見える、そういう場面が聖書には少なく
ありません。


◆ 41節。

 … 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、

   イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。…

 これは、言葉のあやというものかも知れません。確かに、あまり嬉しいと、信じられずに、ほっぺをつねることさえ
あります。それにしても、『喜びのあまりまだ信じられず』何とも、信じられない人たちです。

 それが弟子たちです。そして福音書の中の弟子たちとは、実は、私たちの姿を現しています。見ていても信じ
られない人たちとは、私たちのことです。

 

◆ 弟子たちは素直な信じやすい人たちではありません。むしろ、かなり疑り深い人たちです。その弟子たちも信
じざるを得ない出来事が起こりました。

 41〜43節。

 … イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。

  そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、

  43:イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。…

 いろんな機会に申しますが、福音書には、実に食事の場面が多く、まるでホーム・ドラマのようです。そして、
食事の場面は、決して日常茶飯というような、些末な事柄ではなくて、重要な意味を持っています。例外はあ
りません。

 この場面こそ、イエスさまが実体をもっておられる、単に霊的な存在ではないことを強調しています。


◆ 教会には何故か、魚を焼いて食べる儀式はありません。不思議なくらいです。イエスさまの弟子たちの中に
は、元々漁師だった者が4人もいます。

 私が漁村にある教会の牧師だったら、何かしら、魚を食べる儀式を取り入れたいくらいです。聖餐式では、具
合が悪いかも知れません。愛餐会でしょうか。残念ながら、お刺身ではなく、焼き魚ですが。

 イエスさまは、彼らの日常の中に、彼らの現実の中に入って行かれたのです。

 イエスさまが魚を所望されたことは、イエスさまが、弟子たちの日常の中に、彼らの現実の中に入って行かれた
ことを象徴しています。

 イエスさまが焼いた魚を食べられたことで、漁師たちの頑なな心、錠前を下ろした心が、開かれたのです。


◆ 44節にも、少しだけ触れたいと思います。

 十字架と復活は、偶発的に起こった出来事ではなく、律法、預言書、更に詩編で預言されたことである。つ
まり、神さまの御心が実現した出来事であると述べられています。

 更に、48節。

 …『また、罪の赦しを得させる悔い改めが、

  その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。エルサレムから始めて、

  48:あなたがたはこれらのことの証人となる。…

  弟子たちが、十字架と復活の出来事の証人となり、伝道者となると言われています。

 神さまに用いられて、神さまが与えて下さったご用を果たす時に、私たちは、心に全き平安を持つことが出来ま
す。神さまに用いられて、神さまが与えて下さったご用を果たすことが出来るように聖霊が与えられるのです。

 

◆ 何をして良いのか分からないのが不安です。不安を解消するのには、何かするしかありません。散歩も効果
があります。買い物も良いでしょう。ゲームも馬鹿に出来ません。

しかし、これらは、その時だけの効果で終わります。効き目は、長続きしません。

 もし、それが神さまのご用に繋がることならば、効果は一番です。長続きします。何故なら、その時に聖霊が
下されるからです。

 

◆ 最後に、もう一度36節。

 … こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、

   「あなたがたに平和があるように」と言われた。…

 イエスさまを真ん中にして、中心にして、初めて、私たちに、平和があります。

 私たちは、どこで復活のイエスさまに出会うことが出来るのか。そして、信仰の確信を持つことが出来るのか。

 それは、先週の説教で申しましたように、イエスさまが私たちにパンを渡して下さった時です。つまり、礼拝で御
言葉に与り、聖餐式でパンと葡萄酒に与る時です。

 しかし、それは、儀式の中でだけ、復活のイエスさまに出会うことが出来るという意味ではありません。

 パンと葡萄酒に与るのは、儀式であり、しかも同時に、日常のことです。日常の信仰生活です。パンと葡萄
酒に与る日常の信仰を持たなければ、復活のイエスさまに出会うことが出来ません。単純なことです。これが、
常に祈りなさいと言う意味です。

 祈りを特別なこととして、特別な言葉で、特別な場所で、要するに祈りを祭り上げることが素晴らしいと考える
人があります。そうかも知れませんが、むしろ、大事なのは、日常のことです。


◆ 信仰の目が開かれ、心が開かれるのは、イエスさまが私たちにパンを渡して下さった時でり、また、私たちが
差し出したものをイエスさまが受け取って下さった時です。

 だから、私たちは、イエスさまに受け止めて貰えるものを、差し出します。受け取っていただいた時にこそ、弟子
たちのように、信仰の確信が得られるでしょう。