日本基督教団 玉川平安教会

■2019年12月29日

■説教題 「狼は子羊と共に宿り」
■聖書  イザヤ書 11章1〜10節


▼生き物の楽園の類のテレビ番組を良く見ます。地上の最後の楽園というような言い方もなされます。この楽園を守るために、滅亡しかけた動物が保護され、繁殖の手助けを受け、更に、自然に帰されるというような場面は、しばしば美談として放映されます。それを行うことが人間の努めであるかのようにさえ言われます。

 その通りかも知れません。一面の真理を持っていると思います。


▼しかし、これには反論もあります。例えば、絶滅危惧種の中には、狼がいます。これを保護することには、羊などを育てている農民が反対します。

 絶滅危惧種の中には、虎もいます。鰐もいます。これらの生息地域では、未だに、子どもが襲われ食べられてしまうという事件が起こっています。これらの地域で実際に生活する人々の中には、むしろ、虎や鰐が絶滅し、危険が亡くなることを望んでいる人がいます。そういう人が多いでしょう。


▼絶滅危惧種の問題は、あくまでも例外的な事例かも知れません。しかし、もっと普通に、例えば鯨やイルカが悠々と泳いでいるような海、多くの種類の動物が生息し楽園と見なされる自然豊かな土地、ここでは、毎日毎日、自然の中で、それこそ、ごく自然に捕食行為が行われています。

 大きな強い生き物が、小さい物を食べる、それをまた、より大きな動物が捕まえて殺し、食べてしまうということが、日常的に行われています。鯨やイルカのような大型の海洋生物が、一日に食べる小魚などの生き物の数は、半端な数ではありません。正に、日ごと繰り返される大量虐殺です。

 これが本当に天国なのか、楽園なのか、むしろ、弱肉強食の地獄ではないのか。そういう見方もまた一面の真理なのです。


▼手塚治虫の「ジャングル大帝」では、この問題に真っ正面から向かい合い、葛藤しています。つまり、「ジャングル大帝」レオの王国では、ライオンも虎も、他の動物を食べることは許されません。

 しかし、それでは実際には生きてはいけません。そこで、結局は、イナゴを食べることが許可されるという場面があります。イナゴなら良いのか。イナゴも生き物ではないのか。魚はどうか。結局、話は、全く元に戻ってしまいます。

 

▼6〜8節以下に描かれる平和は、このような相対的なものではありません。誰かが幸福になる代わりには、誰かがその犠牲になるというようなものではありません。ここに描かれる平和は、絶対的な平和です。

 そもそも平和とは何か、平和とは戦争がないことなのでしょうか。その通りでしょう。それは平和の大前提です。しかし、戦争のないこと、イコール平和ではありません。

 

▼アメリカ合衆国では、ベトナム戦争以降、徴兵制度がなくなりました。

 少し詳しく申しますと、1973年ベトナム戦争の和平協定成立時に廃止され、1975年には選抜徴兵登録も廃止されました。しかし、1980年選抜徴兵法が復活し、18〜25歳のアメリカ国民の男性と、永住外国人の男性は、徴兵登録が義務化されています。未登録者は5年以下の禁固または25万ドル以下の罰金を科される可能性があり、連邦政府機関への就職が認められず、連邦政府からの奨学金を受けることができないそうです。

 また、違法移民が志願して兵士となり、前線で働くと、移民が許可されるということが、半ば公然の事実となっています。


▼ところで、過去30年以上、まあ、建前は志願兵によって、アメリカは、世界各地で戦争行為を維持して来ました。それは、市民権を得るために、または、奨学金や職を得るために、移民や低所得者による、文字通りに命を賭した行為だったのです。

 今、日本で同じことをしたらどうでしょうか。多くの若者が、職を求めて、奨学金を求めて、志願するのではないでしょうか。

 戦後日本の平和は、生き物の楽園の類のものでしかありません。

 平和と富を享受する人の数だけ、むしろ、それ以上に、犠牲者が生まれています。


▼アフガニスタンでの米兵の戦死者は、1200人以上、イラクでは4000人以上です。そして、帰還兵の自殺者は、この数に迫ると言われています。

 政治やまして軍事のことを論じるのが目的ではありませんから、このくらいにしておきます。

 要は、日本は、過去60〜70年、決して平和では無かったのです。もし、これを平和と言うならば、戦後日本の平和は、生き物の楽園の類のものでしかありません。弱肉強食の世界でうまく振る舞い、生きのび、成功したというだけのことです。


▼このクリスマス讃美燭火礼拝で、ルカ福音書2章を読みました。また、2017年のクリスマス讃美燭火礼拝で、ルカ福音書2章を読みました。その一部を端折ってお話しします。

 それは羊飼いについてです。世界で最初のクリスマスの目撃者となったのは、羊飼いたちでありました。何故羊飼いなのか。勿論、ユダヤ人のご先祖様は羊を飼う者でありましたから、羊飼いが一種の聖職と捕らえられているからだと思います。

 キリストの原型の一つとみなされているダビデ王も、羊飼いの出身です。


▼しかし、もう一つ大きな理由があると、私は考えます。その理由とは、羊飼いは、軍隊の予備軍だということです。

 羊飼いは、馬やロバといった乗り物に乗ることが出来ます。普段から、杖や鞭のような武器となるものを使い慣れています。多分、剣も良くしたことでありましょう。

 戦争が近づけば、農民も、町民も、職人も、無理矢理戦争に引っ張られるかも知れませんが、これらの人々が武器を使いこなすのは簡単ではないでしょう。羊飼いならば、何時でも、優秀な兵士に変身することが出来ます。

 彼らは、羊の群れを相手にしていますから、集団行動にも慣れています。


▼ルカ福音書2章は、新しい王の誕生を描く場面です。それならば、新しい軍隊が組織される様が描かれていても、少しもおかしくはありません。

 世界で最初のクリスマスの目撃者となった羊飼いたち、彼らは、いち早く組織された親衛隊となっても不思議はないのです。


▼実際、この場面に、軍隊が登場します。天の軍勢です。

 ユダヤ人は何百年も、何千年も、救い主が現れる日を、待ち望んでいました。その救い主とは、直接的には、ダビデ王のように、軍事に優れた英雄でありました。

 新しい王の元に集められた新しい軍隊が、天の軍勢の助けを得て、憎い敵国を滅ぼす、そんな、救い主が現れる日を、待ち望んでいたのです。


▼しかし、いま、ついに現れた救い主は、一人の無力と見える赤ん坊です。およそ軍隊を指導するような存在ではありません。

 そして、天の軍勢、彼らは、ユダヤ軍に味方して戦うのではなくて、平和の歌を歌う、聖歌隊だったのです。


▼平和とは単に戦争がないことではありません。平和とは平和で満たされていることです。それが、ルカ福音書では、羊飼いが兵士として徴兵されないということだけではなく、平和の讃美がなされるという形で表現しています。

 平和、つまり、愛といたわりで満たされていることです。愛とは、憎しみがないということではありません。憎しみがないというだけなら、それは、愛ではなくて、無関心です。


▼同様に、平和とは、戦争や憎しみがないというだけでは実現しません。

 神の正義で満たされていなければ、平和ではありません。

 正義と愛に満たされていなければ、そこに隙間が存在するならば、必ず憎しみが入り込んで来ます。

 3〜5節に、その正義について、述べられています。

 この正義こそが、6節以下の、真の平和の大前提なのです。


▼お恥ずかしい話かも知れませんが、私はかつてテレビドラマ、必殺仕置人が大好きでした。もう30年以上前のことですが、楽しみに、欠かさず見ていました。

 弱い者、貧しい者を虐げる悪党が、仕置人によって、仕留められるのを見ると、爽快感がありました。プロレスを観戦しているようなもで、最後悪役が投げ飛ばされ、蹴り飛ばされ、そして、ワンツースリーのカウントを取られると、実にすっきりします。あれと同じです。

 正直に言うと、仕置人が悪党を殺す仕方が、残酷な程、すっきり、爽快感がありました。


▼ところが、回を重ねますと、些か食傷感が出てきます。まあ、飽きます。

 食傷感、飽きは、最後の悪党退治の場面ではありません。これは毎回同じであっても、なかなか飽きません。飽きるのは、お腹にもたれるのは、この場合は胸にもたれるのは、弱い者、貧しい者が虐げられる場面です。

 見ているのもつらく、嫌になります。

 忙しいこともあって、いつの間にか、ドラマの前半は見なくなりました。悪党退治の場面だけ見ます。


▼よし、ここで一刀両断だと思いながら見ていますと、子どもが聞くことがあります。「あの人はどんな悪いことをしたの」。

 「知らん、そこは見ていない」。

 「しかし、悪党に違いないのだから、やられてしまえ」。

 こうなったのです。


▼私たちは、実際にも、こんな馬鹿なことをしたり、考えたりしてはいないでしょうか。

 実に表面的に人を裁き、切り捨て、その人の内面などは見ないのです。そも、関心を持たないのです。

 結果だけで、つまり、成功したかどうかだけで、その人を評価すます。彼が犯した罪状だけを見て、彼を裁くのです。


▼平和を現実にするために必要な王の能力として、2〜4節の事柄が上げられています。

 正義、公平、柔和という言葉が上げられています。これは、何れも裁判の用語です。イザヤ書には、この言葉、裁判用語が頻出します。

 人が王に期待するもの、それは、正しい裁判、正しい評価です。正しい裁きを受ける権利、それこそが平和・安心して生きられる人生の絶対必要条件なのです。


▼日常のことでも同様です。心の内を本当に理解して貰えないのに、平和はありません。事細かに説明したり、まして弁解しなくても、私のことは、家族が理解し信頼していてくれる。他人からは誤解されるような場合でも、友人たちは、信じてくれる。そういう信頼関係に守られて生きている。それが、平和と言うことです。

 平和と義は結びつくのです。究極は、同じことといっても良いかも知れません。このことは、神さまと人間の関係にこそ当てはまります。


▼改めて、3節を読みます。

 『彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁き

   を行わず/耳にするところによって弁護することはない。』

 普通ならば、「目に見えるところによって裁きを行」いでありましょう。「耳にするところによって弁護する」でありましょう。

 この人はそうではありません。

 表面的なことで裁くことはなさらないのです。その人の、心の奥底にあるものをご覧になます。

 これこそが、正しい裁きであり、これが行われることで、真の平和が実現すます。


▼次に4節を読んで終わりにします。先ず前半、

 『弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する』。

 クリスマスとは、この預言が実現する時です。『正当な裁きを』受けることが出来なかった『弱い人』、正しく人に評価されなかった寂しい人、『この地の貧しい人』は、心からクリスマスを待ち望むのです。


▼しかし、それだけではありません。『正当な裁き』が実現するということは、

『その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる』。こういうことでもあります。

 認められなかったことを、きちんと見て貰って、正当に評価される、そのことと、人に隠していた醜い事柄が暴露されることとは、同じことです。

 この人の、真実の言葉は、『弱い人』、『この地の貧しい人』を救い、そして、神に、真理に『逆らう者を死に至らせる』のです。


▼このことは、イザヤにおいて一貫していることを明らかにするために、イザヤ書9章を少しだけ引用します。

 『1節:闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、

   光が輝いた。

  4節:地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に

   投げ込まれ、焼き尽くされた。

  5節:ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子

   がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、

  「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。

  6節:ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。』


▼お祈りします。

 主イエスキリストの父なる神さま、2019年のクリスマス礼拝、そして今日年最後の礼拝を持つことが出来ましたことを感謝します。 

 教会に連なる者が、皆で心から喜ぶことが出来るお祝いの時を持ちたいと願って参りましたが、今日この日、入院中の者があります。手術を受け、心細い思いでいる者もあります。体調がふるわず、この時を覚えながらも、出席の適わない者もあります。

 だからこそ、私たちは祈ります。どんな所にいても、どんな状況に置かれていても、その場所から、その状況から、クリスマスの星を見上げることが出来ますように。

 あなたの正義が行われ、あなたの平和が、行われますように。