日本基督教団 玉川平安教会

■2019年06月30日

■説教題 「隠された奥義
■聖書 コリント一 2章6〜16節 


○ 7節から読みます。

 『わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、

   神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです』

 限られた人々にだけ告げ知らされ、他の者には秘密にされていた知恵・知織が、今語られ、明らかにされると記してあります。このような論法は、現代では、宗教的独善だ・差別的だとして嫌われる考え方です。

 しかし、ヒステリックなまでに嫌われるのは、実はこの論法に悪魔的なまでの魅力が存在するからではないでしょうか。秘密の世界への入り口を、他の誰も知らないけれども、自分だけが知っている、自分だけはその鍵を手に入れたと言うのが、何とも魅力的なのです。そういう類のことが主題となっている物語本の何と多いことか。

 自分は知らないけれども、知っている人が多いというのは、あまり愉快ではありません。他の誰もが知っている、けれども、自分だけは知らないというのは最悪の状況です。

 秘密の知識・知恵などは存在しない。こう考えた方が、大低の人にとっては、心が落ち着くかも知れません。

 例えばオウム真理教やものみの塔が、一般の常識人には嫌われ、恐れられるのも、その一方で熱狂的な信者を持つのも、この辺りに理由が存在すると思います。


○ ついでに申しますと、真理という言葉自体が、今日では、悪魔的な響きを持っています。オウム真理教の真理、信者だけに通用する真理です。他の人には通用しません。ものみの塔の機関誌は真理です。物見の塔の最大の特徴は、14万4千人だけが救われる、その数に数えられるためには、物見の塔の信者になること、この教えにあります。14万4千人だけに通用する真理です。物見の塔の機関誌が今は何と言うのか知りませんが、昔は間違いなく真理でした。ごくごく一部の人にしか通用しない真理です。

 ソビエトの機関誌だったプラウダ、これもロシア語で、真理という意味だと聞きました。

 聖書の大事な言葉である真理が、ここまで汚されてしまっています。悲しいことです。

 逆に見れば、聖書の真理が、ただならぬものだと、感じられていたのでしょう。だからこそ、多くのいかがわしい新興宗教や何かが、真似します。あやかります。

 現代では危険な響きを持つ真理という言葉ですが、教会でこの言葉が忘れられてはなりません。おろそかにされてはなりません。因みにギリシャ語で真理はアレーテイヤと言います。


○ しかし一方で、『隠されていた、神秘としての神の知恵』、信仰的な知識、神の国の知識が、誰にでも同じように知られていると言うのは非現実的です。誰もが同じように、神の国について、知識・知恵を持っているけれども、その上で、神の国を選択する者と、神の国を拒む者とに分かれると考える方が、遙かに不自然です。

 何より、この間題について、聖書はどのように述べているのか。その所を聞かなくてはなりません。

 ヨハネ福音書では、人間が、信ずる者と信じない者と二つに分けられると言う表現が、目立ちます。そして、この違いは、また、神を知っている者と神を知らない者の違いであり、更に、光に歩む者と闇に歩む者との違いに重ねられています。

 一方、マルコ福音書では、オクロス即ち一般大衆、には知らされない秘密が、弟子たちの群にだけ示されるという図式の逸話が、繰り返し登場します。教会には、明らかにされるけれども、世間一般の人には隠されている、そういう表現が、繰り返し出て来ます。

 人は全て救われる、信仰者も信仰を持たない者も、人は皆平等だと主張するのが、キリスト教的ヒューマニズムかも知れませんが、ヒューマニストがどんなに力説しても、残念ながら、聖書は、そのようには述べていないようです。


○ それでは、限られた人々とは、誰のことであり、どのような条件を満たせば、この知恵に与ることが出来るのでしょうか。

 新興宗教や過激派などは、ここに条件を挙げます。一番分かり易いのは、献金しなさいです。この頃はマスコミで取り上げられることもなくなりましたが、統一原理では、年収300万円くらいの信用金庫職員に、サラ金から500万円借り入れさせ、貢がせるというようなことをしていました。私は、その女性の救出に拘わりましたから、実体験として知っています。1600万円貢いだ女性もいました。親の家屋敷を親が知らない内に、売ってしまった人もいました。新興宗教や過激派が上げる救いの条件は、このようなものです。


○ それでは、もう一度問います。聖書では、救いに与る限られた人々とは、誰のことであり、どのような条件を満たせば、この知恵に与ることが出来るのでしょうか。

 神に選ばれた者がそうです。

 こう申しますと、ますます嫌らしいと聞く人もいるかも知れません。キリスト者の独りよがりだと指摘されるかも知れません。しかし、聖書がそのように述べていることは否定出来ません。

 ここで、神に選ばれるという意味を、厳密に考えて貰いたいと思います。厳密に聖書的な意味で、「選び」を言うのでなければ、本当に、独善となってしまうでしょう。


○「選び、予定」の教理は大変に難解です。何回聞いても、充分納得出来ることはないかも知れません。しかし、コリント書の文脈で考えれば、重要なヒントを得て、かなりの程度まで、分かり易いものになろうかと思います。既に読んだ1章の、分派問題、コリント教会に起こったどうにも嫌らしい論争、しかし、具体的で深刻な論争を踏まえていただければ、お分かりいただけましょう。

 つまり、お偉い誰かさんに選ばれたのではない、自分の努力やその緒果としての功績でもない、勿論偶然でも無い、ただ神さまの招きに拠るのだと言うことが、強調されているのであり、それが、「選び・予定」の意味です。信仰は、そして救いの約束は、全く、神の恩寵として、無償でいただいたものです。

 選びとは、自分がエリートであることを自慢して言っているのではありません。自分の力で勝ち取ったものではなく、神さまから恵みとして只で与えられたと言っているのです。

 ですから、選び・予定の教理は、表面的には信仰者の独りよがり、傲慢と映るかも知れませんが、実は、全く逆で、本質的には、むしろ、謙虚さに結び付くものです。結び付かねばなりません。


○ 昔、子どもたちと一緒にテレビアニメの『一休さん』を、毎週楽しみに観ていました。こんな話がありました。偽一休さんが現れます。奉行の新衛門さんと、偽物を暴き懲らしめる話です。これが大変です。偽物の一休さんは、本物をそっくりと真似ています。とんち問答をしても、全て一休さんの真似ですから、なかなか正体を暴くことが出来ません。何しろ30年の前のテレビですから、詳細は覚えていませんが、たった一つの違いに依って、本物と偽物が区別されました。

 それは、偽物は本物と同じ話をしますが、一つおまけが付くのです。お金を出しなさい。

 オウム真理教も、統一原理も、もっと時代を遡って、キリスト教の衣装を纏ったいかがわしい信仰宗教も、本物との決定的違いは、このことにあります。偽物は、結局、お金が目当てです。

 結婚詐欺も同じことです。お金が目当てならば、その前に縷々述べた教えは、全て御託を並べることであり、嘘っぱちです。

 

○ さて、この選び・予定と不可分離的なものとして、聖霊の働きが語られています。聖霊もまた、選び・予定以上に難解な、教理であり、そして、父・御子・御霊の神と言われるくらいですから、選び・予定よりも遙かに重要な教理・概念です。

 ここでも、コリントの文脈を前提にすれば、重要なヒントを与えられて、分かり易くなります。

 ここでも、誰か偉い人の指導や感化または教育によって得られたのでは無く、聖霊に拠らなければ、他のどんな条件が整っていても、真の知恵には、与ることが出来ないと言われているのです。


○ 聖書そのもののことを考えて下さい。聖書は、或る人にとっては、酉洋古典です。西洋古典に過ぎないと言って良いかも知れません。或る人にとっては、倫理道徳の教本です。また、或る人にとっては、オカルト本です。

 私たちが、聖書はそんなものではないと、どんなに力説しても、まあ、水掛け論に終わります。今日では、牧師の中にも、「聖書は論語や仏教のお経や回教のコーランと同様の教典でありそれ以上でもそれ以下でもない」と平気で言う人がいます。

 確かに、これらの人の言う通りでして、杜会派の牧師の言うように、「聖書は論語や仏教のお経や回教のコーランと同様の教典でありそれ以上でもそれ以下でもない」かも知れません。それを否定することは出来ません。

 但し、それは、彼らにとってです。私たちにとっては違います。私たちにとっては、聖書は神の言葉です。

 1章18〜19節をご覧いただきましょう。

 『十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、

   わたしたち救われる者には神の力です。

19:それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、

   賢い者の賢さを意味のないものにする。」』

『私たち救われる者には』、つまりは、聖霊に感ずる者には、単なる西洋古典ではありません。


○ 例年聖霊降臨日に読まれる使徒言行録1〜2章、そこに引用されているヨエル書、ここで聖霊とは、神と人とを、そして、教会員同士の言葉と気持ちを通じ合わせ、互いに結び合わせる力として、描かれています。言ってみれば、聖霊語です。

 創世記には、バベルの塔の物語があります。ここで、人間たちは、その力を合わせて、けしからぬことを企みます。ために、神さまが、バベルの塔の建築に携わる者を打ち、彼らの言葉が互いに通わないようにされます。その結果、人間は力を合わせて、一つ目的のために働くことが出来なくなったという、極めて逆説的な要素が強い、しかし、人間存在の真実を語った物語です。

 北朝鮮のような、食べ物さえ充分ではない国による核実験のニュースなどを聞きますと、バベルの塔の物語は、全く真実であると思わされます。核爆弾という偶像を作らないように、人間はもう一度、神の雷撃で撃たれなければならないとさえ思えます。

○ 使徒言行録に記されているペンテコステ・聖霊降臨の出来事は、バベルの塔の物語とは、全く正反対の出来事です。あった筈です。聖霊に満たされた者は、聖霊によって神の御心を知り、聖霊によって互いに心を通わせ、教会を建てる(立てる)という一つ目標のために、力を合わせて、働かなくてはならないのです。働く事が出来る筈なのです。


○ このことと、コリント教会の問題とは、また、全く重なります。聖霊と反対のものは何か、自我(エゴ)への執着です。自分の欲望が満たされるならば、他のことはどうでもかまわない、それがエゴイズムです。

 そして、人間を偶像として拝むのも、つまり、誰かの名前の下に分派を構えるのも、所詮は、自分の行いを義とするための方便であって、つまりは、自分自身への執着でしかありません。エゴイズムが、孤立を生むのではなく、党派を生むという皮肉な結果が生まれます。聖霊の働きが教会を生むとすれば、悪霊の働きが、分派運動・造反を生むのです。

 コリントの教会が分派を構えて争い、パウロをさえ退けるのは、つまるところ、聖霊を注がれていないからです。むしろ、悪霊を注がれているから、そう指摘されても仕方がありません。


○ もう一つの問題があります。この世の無知を指摘する表現です。これも、多くの人が反発する所です。聖書自身がそう述べているのだから仕方がないと開き直れば、それでも済むのですが、もう少し丁寧に言います。

先ず、8節をご覧下さい。

 『この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。

   もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう』

 絶対に否定出来ない事実です。そして、14節。

 『自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、

   それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです』

 『自然の人』とは、生まれたままの人、その他いろんな表現がありましょうが、肝心なことは、洗礼を受けていない人という意味です。つまりは、悔い改めを体験していない人、神の霊を新しくいただいていない人、です。

 ここでも、何か特権のようなこと、資格・身分のようなことを考えるから、反発が生まれます。実際には、特権などとは全く逆の、罪の自覚、悔い改めなのです。悔い改めへと促す力であり、かつ、悔い改めの結果与えられるものである聖霊のことです。


○ 悔い改めた者と晦い改めを知らない者との違いは、歴然と存在します。悔い改めを知らない者にとって、聖書は単なる書物でしかありません。教会は、単なる人間の集団でしかありません。そもそも聖書は英語でバイブル、ドイツ語でビーベル、単に書物という意味です。しかしそれは単に書物に過ぎないと言うことではありません。書物の中の書物、真の書物、唯一無比の書物という意味です。信仰を持つ者にとって、バイブル、ビーベルは聖書なのです。

 悔い改め、聖霊を受け止めた者にとって、聖書は神の言葉です。悔い改め、聖霊を受け止めた者にとって、教会は、神の家です。そして、悔い改め、聖霊を受け止めた者にとって、教会員は、神の家族なのです。

 教会が、バベルの塔として崩壊の道を辿るのか、それとも、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り、教会を建てて(立てて)いくのか。ペンテコステは、その分かれ道です。

 今日は聖霊降臨節第4主日です。今年の聖霊降臨節は第20週まであります。22週の年もあります。一年の5分の2が聖霊降臨節です。教会は、礼拝は、ただ聖霊の働きによって守られているのです。