日本基督教団 玉川平安教会

■2019年10月27日

■説教題 「共に苦しみ共に喜ぶ」
■聖書  コリント一 12章12〜26節


○ コリント書を読み始めて以来、難解な描写、専門的用語、複雑な歴史背景の連続で、些か草臥れたという方もあるかも知れません。説教する私の方でも、なんだか同じようなことを繰り返し話しているなとか、難しくて面白くないのではないかなどと、正直考えてしまいます。

 学問的な意味での難解さならば、丁寧に読むことで補えますし、説教原稿を印刷してお配りしていますから、復習していただくことも出来ます。

 しかし、難解さを覚える本当の理由は、意味が取れないということではないと考えます。そうではなくて、使徒パウロが結論的に述べていることを、私たちが、納得して受け入れることが出来ないという点に、難解さがあるのではないかと思います。何回とむ言うよりも、肯んじ得ないということにあるのではないかと思います。

 いちいち例を挙げませんが、パウロの教え、戒めは、現代の常識と食い違うことがままありますし、人権とか差別とかという観点から読んだならば、強い抵抗を覚える点も少なくありません。10章・11章には、反発を覚えずには読めないようなことが、多く記されています。


○ さて、今日の箇所はどうでしょうか。10章・11章に比較したら、分かり易いと見えます。難しい解説は無用と思えます。何より、抵抗を感じないで読むことが出来そうです。

 しかし、実はこの箇所こそ、コリント書の中でも、最も強く反発を受ける箇所なのです。人権・差別の観点からの反発です。

 要するに、人間に役割の分担が在るという考え方そのものが、反発を受けています。そのような反発は、理解出来ないではありません。人の上に立つリーダーとして生まれた人もいれば、兵隊として働く定めの人もいるというような考え方には、私も、強い抵抗を覚えます。

 しかし、人間は平等であっても、均一ではありません。人間は全て同じだと言って、人間を均一のものとして理解しているようであれば、それは、現実の無視ではないでしょうか。

 今日のこの箇所を読んで、使徒パウロは差別主義者だというならば、それはパウロを誤解しています。


○ 反発なの抵抗なのという前に、何より、パウロの真意を読み取る努力を、先ず致したいと思います。反発・抵抗するのも、逆に共感するのも、それは、その後のことです。

 パウロが特に強調している点を、拾って読みます。

 第1に、13節。

 『つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、

   奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、

   皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです』

 ここで強調されていることは、ユダヤ人とギリシヤ人には違いがあるし、奴隷と自由人の違いもある、しかし、一つ洗礼を受けた、一つ聖霊を受けたという事実の前に、違いは、相対化されるということです。違いは無い、差別が排除されるとか、克服されるとか、そういう言い方ではありません。違いはあります。

 違いはあるが、洗礼を受けてキリストの体に連なる者となったことによって、他の違いは全て相対化される、どうでも良くなるという考え方です。

 絶対のことがあれば、他のことは相対化されます。何が絶対で、何が相対的か、これが、人の価値観を分けるものです。

 キリスト者にとっては、教会、聖書、信仰が絶対です。教会、聖書、信仰、これが絶対ではない人と、どんなに議論しても、無駄です。


○ フィリピ書3章5〜9節を引用します。少し長くなります。

 『わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、

   ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、

  6:熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。

   7:しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、

   キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。

  8:そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、

   今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、  それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、

  9:キリストの内にいる者と認められるためです』

 『それらを塵あくたと見なしています』、口語訳では『糞土のように』です。以前には、絶対のこと、譲ることの出来ないこと、宝物と思っていたものを、今は、『塵あくたと見なしています』、『糞土のように思っています』と、言います。どうでも良いと言いきります。


○ 第2に。差別の問題は、コリント教会に於いても深刻でした。使徒パウロは、これにどう対処したか。この克服は、第1のことと重なります。教会を絶対とし、聖書、信仰を絶対とし、他のことを相対化することで、克服したのです。奴隷の問題でも、性の問題でも、人種の問題でも、同様です。

 なるべく分かり易く、具体的にお話し致します。礼拝に出席し、神を讃美すること、これを実現するのに、金持ちと貧乏人の差はありません。聖書を読むのにも、貧乏で一冊の聖書が買えないということでもなければ、貧富の差は関係ありません。つまり、救いに与るのに、貧富の差は関係ありません。勿論、人種も性別も関係ありません。

 礼拝に出るためには、交通費がいるかも知れません。しかし、祈ることに関しては、お金も体力も語学力も関係ありません。日本語でも、ギリシャ語でも、英語でも、神さまは聞いて下さいます。


○ そんなことでは、根本的に貧富の差は解消されていない、と批判する人が在ろうと思います。それは、そのように言う人が、貧富の差を絶対と考える価値観の中に生きているのに過ぎません。キリスト者にとっては、信仰の前では、貧富の差そのものが相対化されます。

 キリスト者にとっては、礼拝に出て、神さまを讃美することが絶対です。これを実現するためには、教会までの交通費が要ります。時間も必要ですし、体力も要ります。それが与えられていれば十分に豊かで、幸せです。適わないようだと、貧しさを感じるし、或は病を自覚するのです。

 貧乏暇なしで、礼拝に出られないならば、キリスト者として大変に困るけれども、逆に金儲けで忙しくて礼拝に出られないようならば、キリスト者としては、同じように大変困るのです。


○ 第3に、パウロ一流の逆説が、ここにも登場します。21〜22節。

 『目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、

  また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。

 22:それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです』

 ここでは、全体つまり教会への奉仕が問題になっています。貢献度について問題になっています。誰が、最も教会に貢献しているのか。それは、全体つまり教会を必要としている者です。この者のために他の者が働いているのですから。教会を必要としている者のために他の者が働いて、その結果、働く者が、教会に必要な者となります。

 約めて言えば、教会を必要とする者が先ず存在し、この存在によって、働く者が教会に必要となります。

 これは、大いなる逆説です。同じ論理を、福祉の問題などに当てはめれば、奇妙なことになります。障碍を持った者が居て、その結果、彼らのために働く者が現れる、働く者こそ、障碍者に感謝しなければならない、などと言ったら、とても奇妙な論理になります。

 しかし、教会では全く当てはまります。教会は教会を必要としている者のためにあります。


○ 第4に。25〜26節。

 『それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。

  26:一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、

   すべての部分が共に喜ぶのです』

 ここでも教会・全体が強調されます。パウロが述べることは、目的・目標を同じくする共同体でだけ、起こることです。『一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ』簡単に言えば、利害が一致するのは、この目的・目標を同じくするからです。

 丁度格好の例があります。突然に大変なラグビーブームが起こりました。私は、満足にルールも知りませんから、分かったようなことは言えませんが、これは間違いないでしょう。ラグビーは、多のスポーツ、団体競技にも増して、チームプレーが必要です。個人技が集まって、チームの力になるという競技もあります。野球などはその要素が強いと思います。しかし、ラグビーはチームプレー、役割分担無くしては、そもゲームが成立しないでしょう。

 個人の技術・力が目立つ場面もありますが、それもフォーメーション、作戦、段取りがあってのことです。

 このことが、突然に大変なラグビーブームが起こった一つの理由ではないでしょうか。個々人の利益や目的だけを追求して、周囲や仲間のことなど視野にも入らないという時代だから、ラグビーのチームプレーが新鮮に映ったのが、人気の理由の一つではないでしょうか。


○ 第5に。27節以下。第4と重なりますが、ここには役割分担、機能の分担があるということが、述べられています。

 ここで、前提を忘れて読んではなりません。これは、身分のことを言っているのではありません。当然、差別とは関係ない事柄です。教会の中に、身分も差別も存在しません。

 しかし、機能の分担は存在します。共同体が目的・目標を持つから、共同体の目的・目標が、個々人の目的・目標だから、この実現のためには、役割分担、機能の分担が生まれますし、そのことに、誰も不満はありません。


○ 話が戻ります。教会は教会を必要としている者のためにあります。一番端折って申しますと、礼拝を守りたい信徒が先ず居ます。讃美し、祈るだけなら、信徒だけでも可能ですが、聖書の説き明かしを聞きたいと思えば、牧師が要ります。小さい伝道所ならば、信徒と牧師が居れば十分ですが、人が多くなると、もっといろんな役割を持つ人が必要になってまいります。このような機能の分化、複雑化は世の常です。魚や米の流通でも同じことが起こります。

 世の中の価値観では、どうしても、この流通の最後の方の仕事をする人が、偉い者のように見られ、第1次産業の人、つまり、肉体労働者は、軽く見られる傾向がありますが、勿論、間違った判断で、誰もが必要な働きを担っているのであって、正に、職業に貴賤はありません。まして、教会の働きに貴賤はありません。

 この機会に、ちょっと、主題から外れて申します。教会は教会を必要としている者のためにあります。しかし、お客様が神さまで、お客の求めるものを用意するのが、サービス(英語で、礼拝)の良い教会というのではありません。昔、「お客様は神さまです」という言葉を、歌手の三波春夫が売り物にしていました。しかし、教会では違います。

 『春秋左氏伝』には、「神さまはお客様です」という一文があります。逸れも教会には当てはまりません。


○ さて、教会に置かれているのは、主のみ言葉のみで、他の品物は、売っていません。この辺りのことを間違えて、無い物ねだりをする人がいますが、これは、見当違いの行為です。

 礼拝に出て、み言葉を聞き、讃美し、祈るならば、教会に求めて得られる物の全てを与えられているのです。それだけでは満足出来ないという人は、どんなに足掻いても、永久に満足できないでしょう。

 教会は何でも売っているデパートではありません。デパートならば、この品が置いてないと文句をいうことも出来ますし、お客のニーズに応えられないデパートは、失格かも知れません。しかし、教会は、お客のニーズに応えるために存在するのではありません。


○ もう少し整理して申し上げるならば、これは、自己実現と教会の形成の違いです。

 例えば、座禅を組むという修行があります。座禅は、自分の修養のために行うものです。座禅を組むことによって、誰かを救うとか、お寺が建つとか、そういうことはありません。自分の目標を持ち、自分で努力してそこに到達する、つまり、自己実現です。

 これに対して、教会の礼拝、讃美、祈り、皆、自分の修養のために行われるものではなく、教会の形成のために行われるです。

 信仰は、自分の修養のためで、自己実現だと考える人が確かに居ますが、この人は、教会が分かっていないし、つまりは、信仰が分かっていません。


○ 教会即ち、キリストの体です。キリストの体としての教会の形成のために、頭があり、目があり、耳があり、手足があります。頭のために目が在るのでも、目のために頭が在るのでもありません。


○ 31節も読みます。

『あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。

 そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます』

 『大きな賜物』とは何でしょうか。『最高の道』とは何でしょうか。13章の全体です。愛です。

 13章だけを切り離して読むから、これが理想主義的に、観念的に愛を論じているように映ります。しかし、私たちがこれまで読んでまいりましたように、コリント教会の現状は、理想とは程遠いものでした。極めて具体的な、コリント教会の現状の中で、この言葉は語られています。特に4〜6節などは、全部コリント教会の現実と真逆だと見て良いでしょう。

 パウロが言いたいのは、こういうことです。教会の形成という具体的目標に、微力であっても、参画して働こうという者は、その努力の中から、教会への愛を、そして、礼拝共同体の仲間への愛を学び獲得します。自己実現しか頭に無い者は、これを絶対に得られません。

 教会のために何が出来るだろうと発想することの出来る者が、教会から、最も大きな賜物を得ることが出来ます。『まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう』一番大ことなものだけを求め時に、本当に豊かなものが与えられるのです。