日本基督教団 玉川平安教会

■2019年07月14日

■説教題 「神の畑、神の建物
■聖書 コリント一 3章1〜9節


○ 使徒パウロは、ここでも、『兄弟たち』と呼び掛けることから、話を始めます。その直後に語られるのは、厳しい弾劾の言葉ですから、『兄弟たち』という呼びかけは、この場面にはふさわしくないかも知れません。しかし決して儀礼的に、この呼び掛けを用いているのではありません。

 コリントの教会員を、真に信仰の兄弟と認識しているからこそ、アデルフォイと、呼びかけます。また、真に信仰の兄弟と考えているから、この後に続くような、厳しいことを指摘出来るし、また、どうしても、言わなくてはなりません。

 ややこしいことを言っているようですが、誰にも覚えがあることです。例えば、満員電車の中で、平気で鞄を隣の座席に置く人がいます。二人分の席を独占している人がいます。誰も注意しません。そんなことをする人だから、まっとうな人間ではない、うかつに注意したら逆恨みされるかも知れない、怖い、そう考えて誰も注意しません。

 街角で、タバコを吸う高校生がいます。誰も注意しません。理由は同じです。常識人は、変な人間と関わり合いたくありません。

 しかし、これが我が子ならば、放ってはおけません。他の何事についても、家族だから、愛する存在だから、見過ごしには出来ません。うるさがられても、言うべきことは言わなくてはなりません。


○ さて、厳しいとことを言っているという言葉の内容ですが、先ず、1節。

 『兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、

   肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました』

 『乳飲み子』、口語訳では『幼子』とは、未だ自立していない、他人に依存して生きているという意味です。もう少し詳しく言えば、自分で直接的に食べ物を摂敢し、それを栄養とすることが出来ない、母親が食べてお乳に変えてくれたものを、間接的にいただいているという意味です。

 信仰的な内容を、比喩的に表現しています。自分独りでは、聖霊をいただいて聖書を読み、祈り、神の書葉を聞くことが出来ない、他人に依存して、初めて、聖書を読み、祈り、神の言葉を聞くことが出来る、そういうことを、意味しています。勿論、痛烈な皮肉です。


○ 4節を先にご覧下さい。

 『ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」

   などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか』

 これが、信仰的に自立していない、他人に依存して生きているということです。

 もう一度、1節をご覧下さい。

 『兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、

   肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました』

 霊の人ではなく、肉の人であるという表現は、決して抽象的な表現ではありません。文字通りの意味です。

 そして、以前の説教で申し上げましたように、聖霊ではなく、肉なる人間に拠って動くから、分派がうまれ、互いに争います。聖霊は、人々の心を一つに結び合わせ、神の方へと向かわせます。しかし、肉の思いは、人々の心を分裂させ、神に背中を向けるように促します。


○ 2節。

 『わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。

   まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません』

 乳、そして逆の固い食物が具体的に何を指すのかは、分かりません。固い食物は、未だコリントの教会員には早いと言うのですから、コリント書には、固い食物は登場していないと見た方が良いかも知れません。一方、乳は、既にコリント教会員にも与えられている筈です。それは、初歩的といえば初歩的、しかし、乳がそうであるように、最も栄養に富んだ食べ物・飲み物であり、これがありさえすれば、大人でも生きていくことが出来るものです。十字架と復活の福音そのものと考えれば、間違いないと思います。


○ ちょっと分かり難くなったかも知れません。使徒パウロは、婉曲な表現を用いているのですが、もっとストレートに申しましょう。十字架と復活の福音は、信仰の基本であり根本であり、そして同時に最終的な奥義です。しかし、それを幼児向けの初歩に過ぎないと批判する者がいたようです。今日と同じ状況です。使徒パウロは、そのことを逆手に取って、ややこしいと見える議論を展開しているのです。


○ 3節・4節には、またまた、分派闘争のことが記されています。繰り返し触れられる程に、深刻な問題であり、重要な間題であったとしか、言いようがありません。既に申し上げたように、ここにこそ、聖霊に生きることが出来ず、肉に囚われた生き方をしている、肉の人であるという証拠が現れています。

 ところで、肉の人、霊の人という二元論的な表現が気になります。信仰者の中にも肉の人、霊の人と言う二つの次元・段階があるのでしょうか。使徒パウロはは、そこまで断定しているのではないと考えます。あくまでも、比喩的な表現です。比喩に拘って言うならば、乳飲み子と成人の違いは、程度の違いであり、絶対の違いではありません。乳飲み子も、成人も、同じ人間であって、別の生き物ではありません。

 程度の違い、つまり、肉の人とは、未熟な信仰者のことです。蛇足になるかも知れませんが、念のために、確認しておきたいと思います。使徒パウロは、コリントの教会員に対して、早く一人前になれ、そして、大人の食い物が食べられるようになれと、勧めているのではありません。むしろ、未熟であることを、乳飲み子に過ぎないことを、自覚せよと言っているのです。


○ ガラテヤ書にも、ヘブル書にも、同様の表現が出てまいります。自分たちは十分に成長したと自惚れて、パウロから自立したと考える人々に対して、パウロは、例えば、『あなたがたのために、またもや、産みの苦しみをしなければならない』と言います。

 これらの記事で、一様に強調されているのは、未熟であることを、乳飲み子に過ぎないことを、自覚せよということでしょう。

 蛇足覚悟で、更に申し上げるならば、ガラテヤ書にも、ヘブル書にも、ローマ書にも、勿論コリント書にも、未熟と成熟とが、逆転していることが述べられています。

 一般の人々は、例えば葬儀の際の細々とした慣習などに通じている人を、信心深い人と見ます。星や月を見て占う人を、神秘的だと考えます。そして、教会の中でも、礼拝儀典に詳しい人や、教会暦に詳しい人を、高度な専門的知識の持ち主と評価します。

 しかし、パウロに言わせれば、そのようなことは、信仰の初歩の初歩なのです。否、初歩とは基本ですから、大事なものです。

 そのようなことは、初歩にもならない無駄な知識でしかありません。

 元に戻ります。


○ 5飾。

 『アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、

  あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です』

 ここで、パウロの論調は大きく変化します。今までは、コリント教会員に対して乳飲み子だと言い、霊の人ではなく、肉の人だと言って批判して来ました。しかし、今度は、アポロやパウロは、神の僕に過ぎない。コリント教会員を育てる目的のために働く、奉仕者に過ぎないと言うのです。 

 勿論、アポロやパウロは、コリント教会員のために働く奉仕者に過ぎないと言っているのではありません。しかし、殆どそれに近い表現です。アポロやパウロは、神の僕であって、神のために働くのだけれども、その任務とはコリント教会員の成長なのです。

 もう少し先の方、Iコリント4章14節以下では、キリストに導く、養育係と言う表現が出てまいります。4章14〜15節。

 『こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、

   愛する自分の子供として諭すためなのです。

 15:キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、

  父親が大勢いるわけではない。

  福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです』

 小さい子供は、直接自分に干渉する養育係を、自分の主人のように錯覚するかも知れません。しかし、彼は、父が雇った雇い人なのです。

 牧師は、教会員の上に君臨するものではありません。しかし、教会員の雇い人でもありません。神さまの雇い人なのです。その辺りを間違えてはなりません。教会員も、牧師も間違えてはなりません。


○ 6〜7節。

 『6:わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。

  7:ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です』

 使徒パウロは、何とかコリントの人々に理解して貰おう、自分の真意を伝えたいと考えて、次々と、様々な比瞭的表現を用いています。10節では建築家、4章1節では管理者、そして養育係り、これは、パウロを比喩する言葉です。コリント教会員を比喩するのは、肉の人、乳飲み子、これは、ちょっと悪口にしか聞こえませんが、一方では、3章9節で、神の畑、神の建物、そして、4章では、神の相続人、神の子供、随分苦労して、気持ちを伝えようとしているのが、分かります。

 これらの比楡に共通していることがあります。それは、コリント教会が、神の業のなされる場所であり、パウロは、神の業のための奉仕者でしかないという点です。


○ 9飾。

 『わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、

  あなたがたは神の畑、神の建物なのです』

 ここに尽きます。

 またまた、脱線になるかも知れませんが、ここで、確認しておきたいと思います。コリント教会員は、アポロや他の巡回説教者に心惹かれて、信仰の父親とも言うべき、パウロから離反しました。そこで、パウロは言います。アポロと言う人間を崇拝してはならない。アポロではなく、パウロを崇拝しなさいと言うのでもありません。アポロもパウロも、神のご用のために働く者に過ぎません。一方で、パウロは、決して、コリント教会員の雇い人でもありません。  では何者なのか。既に申しましたように、パウロは大変に苦労して、様々な比楡をもって、自分を、そして、自分の働きを表現しています。

 建築家、管理者、そして養育係り、何より、9節の『神のために力を合わせて働く者』、原語の意味は、『神の同労者』です。一語では言い表せないから、このような多様な比楡を用いたのであり、この比職の意味を全部を合わせたような所に、パウロは、自分の使命を見出しているのです。


○ 神のために力を合わせて働く者、『神の同労者』、『神の共働者』と訳している注解書もあります。『神の僕』、や『使徒』と比べて、聞きようによっては、随分、おこがましいとも言える表現です。

 『神の僕』は、今日では、何か特殊な能カを持った特別の存在を表す言葉のように響きますが、本来は、単純に神の奴隷です。同様に、『使徒』は、使わされた者、使者に過ぎませんし、天使でさえ、天から派遺された使者、メッセンジャーでしかありません。

 比較して、神のために力を合わせて働く者、『神の同労者』、『神の共働者とは、何とも、大層な表現です。神と五分であるかのように聞こえます。勿論、パウロの真意は、そのような思い上がったことにはありません。むしろ、パウロの宣教、宣教への奉仕が、パウロ自身の事業ではなく、神の事業であると言うことを、言いたいのです。


○ 私たちの場含も、同様です。先ず、第1に、玉川平安教会の宣教は、神の計画の下にある神の業だということ、神の業でなければならないと言うことを、何時も、弁えていなくてはなりません。

 牧師の業でもないし、役員の業でもありません。牧師や役員には任せておけない、教会員の業だと言うのでもありません。神さまの業なのです。そのことを信じないでは、教会の働きは、全てが空しく、この信仰なしには、教会の存在はありません。

 次に、教会員は、神の畑です。畑には、草花が生り、実が生ります。聖書で実と言う言葉が出てくれば、それは信仰の実、つまり、伝遺による新しい信者であり、そして、愛のことです。単純に、新しい信者を生らせ、愛を実らせるのが、良い畑です。

 更に、教会員は、神の建物です。あなだがは、と言われているのですから、一人一人が個々の小さい建物だと言うのではありません。皆が集まって、一つの建物です。

 建物より、体の方が、警えとしては分かり易いので、パウロ自身の譬えを引用して、今日の説教を終えます。Iコリント12章12節以下を、朗読します。

 『12:からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、

   からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。

  13:なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、

   一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、

   そして皆一つの御霊を飲んだからである。

 14:実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。

 15:もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、

   それで、からだに属さないわけではない。

 16:また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、

   それで、からだに属さないわけではない』