○ 2章15節。 『その日、多くの国々は主に帰依して わたしの民となり わたしはあなたのただ中に住まう。 こうして、あなたは万軍の主がわたしを あなたに遣わされたことを知るようになる』 『わたしはあなたのただ中に住まう』、この預言は、キリスト教の信仰では、クリスマス、イエス・キリストの誕生によって、実現されました。 これと似た言葉が、マタイ福音書1章23節のクリスマス記事の中に現れます。 『「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」 この名は、「神は我々と共におられる」という意味である』 ○『わたしはあなたのただ中に住まう』、「神は我々と共におられる」意味合いは、そっくり同じと言って良いでしょう。 このマタイ福音書1章23節が、そもそも旧約聖書の預言です。 イザヤ書7章14節。 『それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。 見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ』 この他にも、似通った預言は多数存在します。 クリスマスの出来事は、旧約聖書、つまりはユダヤ人の何百年もの間の、願い・祈り、信仰の結果として起こった出来事なのです。 ○ とすれば、クリスマスとは何か、クリスマスの意味を知るには、旧約聖書の預言書を読み、誰がどんな状況で、キリスト・メシアを待ち望んだのかを知らなくてはなりません。 その箇所を拾い上げるとしたら膨大なものになります。代表的な箇所だけを上げて読むとしても、一回の礼拝、一回の説教では不可能な業です。 逆に、福音書のクリスマス物語から、誰がクリスマスの出来事に遭遇したのかを見た方が、能率が良いし、解り易いと考えます。時間的順番で見ます。昨年の讃美燭火礼拝でも、ごく簡単にですが、このことに触れています。 ○ バプテスマのヨハネの両親となった祭司ザカリヤとエリサベツが、時間的に最初です。この夫婦は、老年に至るまで子供に恵まれませんでした。もう子どもが生まれる可能性はなくなり、寂しい辛い思いをしておりました。また、当時のユダヤ教の考え方では、子供がないのは神の恵みを受けていないということにもなり、祭司であるザカリヤにとっては大変世間体の悪いことでした。 この夫婦に天使のお告げがあり、彼らはバプテスマのヨハネの両親となりました。 バプテスマのヨハネは、イエスさまの先駆けとして描かれていますから、彼の誕生の物語も、クリスマスの先駆けです。クリスマスの1年半前の出来事です。 ○ その次はマリヤです。マリヤは、自分自身で言っているように、ごく平凡な村娘に過ぎませんでした。それが、結婚前に妊娠する、まして、それが聖霊によるというのですから、大変なことです。聖霊によるというと大変綺麗に聞こえますが、世間の目から見たら、誰とも知れない男の子を宿した、不貞を働いたことになります。ヨセフにも話していません。孤独の中で、天使のお告げを聞かなくてはなりませんでした。 ○ ヨセフ。彼が天使の御告げを受けたのは、婚約者に裏切られたと思い、悶々としていた時でした。普通ならば、かわいさ余って憎さ百倍となります。マリヤなどは、律法の規定通りに、石で打って殺してしまえとなるのが、普通の反応だと思います。しかし、そうはなりません。むしろ、マリヤのことを配慮して、こっそり離縁しようと考えていました。余計に、ヨセフの辛さ、孤独感がわかるような気が致します。眠れない夜を過ごし、やっと眠りが訪れた途端、彼は天使の声を聞きます。 ○ 次には、東方から来た占星術の博士たちになります。彼らの旅立ちは、多分、クリスマスの3ヶ月前です。マタイ2章11節。 占星術の博士たちとは、時代を遡れば、王侯貴族です。エジプトやメソポタミヤでは、星の運行を観測して、天候、特に雨期の到来を予測します。占星術と呼ぶよりは、もっと科学的だったことが、今日の研究で分かっています。雨期や洪水を予測することは、当時の農業では決定的に大事なことでした。 ために、この知識を持つ者は、権威を持ち、王にさえなりました。古代の中国や日本でも同じことです。しかし、暦が出来、天文の知識が普及したことで、彼らの存在理由は薄れて行き、権力を失いました。 東方から来た占星術の博士たちとは、この末裔、なれの果てと考えられます。零落・没落した貴族の末裔です。 ○ 次に、羊飼い。獣や盗賊から羊を守るために、寒さに震え、睡魔と戦いながら働き、しかも、見返りの少ない、当時は卑しいとされる職業でした。 しかし、ユダヤ人が理想視するダビデ王は、この羊飼いから身を起こしました。ユダヤのご先祖さまは、かつては皆、羊を飼いながら砂漠を旅する者でした。 羊飼いと博士たちには、共通していることがあります。それは、貧しさです。 しかし、貧しい筈の博士たちは、何故か、『宝の箱 … 黄金、乳香、没薬』を、携え来ており、捧げ物としました。これについては、ある推理が存在します。 つまり、大雑把に話しますと、古の都バビロンで、紀元前4000年の遺跡が発掘されました。そこには、土星と木星とが400年に一回、地球から見た時に重なって、一つの星に見えると記されていました。今日で言う星の会合現象です。 更に、これが繰り返され、4000年後、土星と木星とが一つとなって新しい星となった時に、世界を救う王がバレスチナに現れると預言されていたのです。 この星の見え方が、マタイ福音書の記述にぴったり重なるということも言われています。 この説を支持する人の考えでは、零落した博士たちは、その貧しい生活の中でも、何千年も宝物を手放さず、伝説の時を待ち、そして旅だったということになります。 科学的信憑性はともかく、マタイ福音書の記述が、この伝説に基づいて記されていることは確かではないでしょうか。 ○ 羊飼いと博士たちに、共通していることは、貧しさです。しかし、それは、単なる貧しさではありません。聖なる貧しさです。 そして、この単なる貧しさは、ヨセフにも、マリヤにも、ザカリヤ夫妻にも共通しています。 バプテスマのヨハネなどは、このように描かれています。マタイ福音書3章4節。 『ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた』 まるで仙人です。聖なる貧しさです。 ○ このような貧しさ、聖なる貧しさの中に住む者に、『わたしはあなたのただ中に住まう』、「神は我々と共におられる」と預言されたのです。 ゼカリヤ書は、登場人物だけではなく、出来事そのものにも大きな関連性があります。 9章9〜10節で極まり、これは、キリストの預言でもあります。 『 9:娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。 見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、 ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。 10:わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。 戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/ 大河から地の果てにまで及ぶ』 この預言が福音書に与えた影響が大きいのは、読んだ通りです。 ▼さて、説教の全分量の半分を過ぎております。 ここで、今日の箇所を直接読みたいと思います。 14節。 『娘シオンよ、声をあげて喜べ。わたしは来て/あなたのただ中に住まう、 と主は言われる』 『娘シオン』とは、イスラエルそのもののことです。エルサレムの町が建設されたのは、実際にはシオンの丘の向かい側ですが、後に、エルサレムの町をシオンと呼ぶようになり、更には、イスラエルそのものをシオンと呼ぶようになりました。シオンの丘は、日本人なら富士山ということでしょうか。イスラエルの象徴であり、イスラエルそのものです。 ▼『わたしは来て/あなたのただ中に住まう』 直接的に読めば、神は、これまでイスラエルの中にはおられなかったということになります。 しかし、イスラエルがシオンの丘に立ち帰り、神に立ち帰るということと、神さまが来られて、イスラエルの中に住まわれるということとは、全く同じことなのです。 『わたしは来て/あなたのただ中に住まう』 エルサレム神殿が再建されるならば、そこに帰るとおっしゃっているのではありません。 イスラエルの信仰の再建なのです。 ▼ゼカリヤ書2章15節。 『その日、多くの国々は主に帰依して わたしの民となり わたしはあなたのただ中に住まう。 こうして、あなたは万軍の主がわたしを あなたに遣わされたことを知るようになる』 荒廃しきった国の再建が始まったばかりです。これが、後々反ユダヤ主義者が言うような、世界制覇の願望などである筈がありません。あくまでも、信仰のことです。 平和は、人々が本当の神、平和の神に立ち返り、本当の神、平和の神が私たちの中にいて下さることに依ってしか実現しません。 ▼16節。 『主は聖なる地の領地として/ユダを譲り受け/エルサレムを再び選ばれる。』 これが再建です。そして、私たちにも、全く当て嵌まります。 教会の再建です。単に建物の再建ではありません。信仰の再建です。神に私たちの中に住んでいただかなければなりまのせん。そのために、私たちは、教会を礼拝を再建するのです。 ▼17節。 『すべて肉なる者よ、主の御前に黙せ。主はその聖なる住まいから立ち上がられる』 『主の御前に黙せ』 もう、議論している場合ではありません。自分の立場だとか主義主張だとか、そういうことではありません。今、神が語りかけておられるのです。 そして、神がやって来られるのです。私たちは、ただ黙して、その時を待つのです。 クリスマスの登場人物は、夜、静寂の中で神の言葉を聞いた人々です。 24日、例年のように、クリスマス燭火礼拝が守られます。 この礼拝は、基本的に沈黙の礼拝です。黙して、クリスマスの星を見上げ、主の到来を待つ礼拝です。クリスマスの蝋燭は、そういう意味です。 ▼ゼカリヤ書の最大の強調点が、マタイによる福音書にも述べられています。インマヌエルがそうです。インマヌエルは、ヨセフの不安を、希望、喜びに変えるものでした。不安も希望も未来に向けられたものです。そして、不安と希望の違いは、そこに神の関与があるかどうかで決まります。だから、正しい信仰を失った者には、不安があっても希望はありません。 ものみの塔の人々は、クリスマスをお祝いすること、喜ぶということをしません。彼らには、終末の裁きはただ恐怖の対象ですし、クリスマスとは裁きの主が来ったことですから、当然かも知れません。 このことは、統一原理でも同じです。クリスマスを素直に喜べない教会は、やはり、正しい信仰から掛け離れた教会だと言わなくてはなりません。 ▼ゼカリヤ書のもう一つの強調は、ここにあります。もう一度読みます。 『すべて肉なる者よ、主の御前に黙せ。主はその聖なる住まいから立ち上がられる』 静まるということは、イザヤ書でも詩篇でもしばしば強調されます。 『黙す』静まるとは、単に、静粛にするというようなことではありません。むしろ、一時停止です。時間的には、長いものである必要はありません。瞬間のことです。しかし、瞬間黙して、神の言葉に聞く、私たち人間の時間に、神の時間が入り込む、そういうことです。 マタイによる福音書でも、このことが記されています。ヨセフの夢がそうだと申し上げて宜しいでしょう。ヨセフは、婚約者マリヤに裏切られたと思い、苦悩の中に沈んでいました。しかし、彼は、正しい人であったので、自分の怒りに任せて、マリヤを糾弾し、世間の晒し者にし、さらには、石打の刑にするめなどということは出来ませんでした。自分の正義感、怒りよりも、マリヤに対する思いが強かったのか、穏便に事を処理しようとします。しかし、そう決断していても、尚、苦しみは癒えなかったのでしょう。眠れない夜を過ごし、心も体も限界までくたびれ果て、やっと睡魔が彼を捕らえた瞬間、それこそ、現実と夢と狭間の辺りで、彼は、天使の告知を受けるのです。 ▼これこそが、神が人間のもとにやって来られた瞬間、人間が静まって、神の言葉を聞く瞬間です。もし、ヨセフがマリヤに裏切られたことによって、傷付いた己の心と、名誉のことばかりを考え、怒りに身を任せていたなら、彼が静まって、天使の声を聞くこの瞬間はなかったと思います。クリスマスとは、人間全てが、静まって神の言葉を受け入れるその瞬間のことです。 ▼そも、普段の礼拝こそが、静まって神の言葉を聞く時でなければならないと考えます。 この頃は、逆のことばかりが強調されます。つまり、教会にやって来る一人一人が、それぞれに現実というものを背負っています。それらの人々を受け入れ、慰め、現実に対応するというようなことが強調されます。そういうことばかりが強調されます。だから、「教会には、対話が欠けている、人間の現実、具体的な日常生活から遊離している」という批判がなされます。 勿論、教会が様々なことで苦しむ人々を受け入れることが出来たらと思います。精神的にも、もっと具体的な生活のことでも。そのためには、工夫があっても良いでしょう。現に愛餐会や祈祷会では、具体的な事柄のために祈り、教会員の人間滝に意味での交わりにも意を用いています。さらに、勉強会を開いて、対処することも可能です。 しかし、礼拝では、何よりも、先ず、静まって、神の言葉を聞く瞬間を持つべきです。 ▼『すべて肉なる者よ、主の御前に黙せ』です。 その時にこそ、真に、苦しむ人々に慰めが与えられる、解放されるのです。 ヨセフがどうやって、自分の苦悩から解放されたのかと考えて見なくてはなりません。 博士たちについても、羊飼いについても、今お話ししたことは、全く当て嵌まります。 更に、ゼカリヤ書が福音書に与えた影響について、もっともっとお話ししなければなりません。しかし、24日の燭火礼拝に譲りましょう。また、毎年のクリスマス礼拝に譲りましょう。 |