○『キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに』 先週読みましたように、キリスト教の福音の内容は、15章3節に凝縮されています。 『わたしたちの罪のために死んだこと、 4:葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと』 これが最も短い信仰告白・信条と言えましょう。 その中で『死んだこと』『葬られたこと』は、客観的事実です。大きな意味が込められていますが、単なる事実を述べたとも言えましょう。 客観的事実とは言えないし、多くの人に事実とは認めて貰えない記述は、『三日目に復活したこと』です。多くの人々が事実と認めないのは、当然と言えば当然です。至極当然です。世の常識に反するからです。他には事例がないからです。 ○ ところで、『死んだこと』は全く紛れもない事実ですが、『わたしたちの罪のために死んだ』となると、話は違います。キリスト者でなければ、イエスが十字架に架けられ殺されたことは認めても、しかし『わたしたちの罪のために死んだ』とは絶対に認めません。『わたしたちの罪のために死んだ』と考えたら、そのように言葉にしたら、これはもう間違いなく信仰の言葉です。信仰の告白です。『わたしたちの罪のために死んだ』と考えるのは、信仰者のみです。 ○『葬られたこと』も殆どの人は否定しません。『死んだこと』『葬られたこと』を否定する異端が、初代教会当時からありましたし、現代でも否定する人がいます。しかし、これはちょっと論外な異端に過ぎません。オカルトやSFに任せておけばよろしいでしょう。 『葬られたこと』を誰も否定しません。しかし、『わたしたちの罪のために死んだこと、 4:葬られたこと』となりますと話は違います。 私たちのために『葬られたこと』つまりは黄泉に下られたこと、これは、使徒信条の一部になります。信仰の言葉、信仰の告白です。 つまり、『わたしたちの罪のために死んだこと、4:葬られたこと』は、客観的事実と、信仰的な理解とが重ねられた表現です。 ○『聖書に書いてあるとおり三日目に復活した』についても、全く同じ理屈が当てはまります。 『三日目に復活した』と信じることは、『死んだこと』『葬られたこと』と同じようには、客観的事実とは言えませんから、信じる人は少なくなります。 しかし、『三日目に復活した』と信じることが、即ち信仰と言えるかは、疑問です。世の中には、復活を信じる諸宗教や、人間が、少数ながら存在します。チベット仏教には、死して後蘇る行があり、何人かの高僧が、この行を達成したと言われます。本当かどうかは分かりません。ラマ教は、復活ではなく転生かも知れませんが、似たような話です。 『聖書に書いてあるとおり三日目に復活した』は、このような図式の延長では考えられません。オカルトのように考えてはなりません。 ○ 大変に長い前置きでした。12節から順に読みます。 『あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか』 これは、前後から考えて、イエス・キリストの復活を否定する、信じられないという意味ではありません。そうではなくて、普通のと言いますか、人間一人ひとりの復活は否定する、信じられないという意味です。 当時のコリント教会の中に、キリストの復活を否定する者がいました。復活こそキリスト教の福音の内容そのものだったのに、これほど早い時期に、既にこれを否定する異端が生まれていたこともまた事実なのです。 ○ 不思議なことですが、理解出来ないではありません。他にも例があります。 一番の魅力は一番の欠点、これはままあります。 『処女マリア』についても当て嵌まります。聖書を読み始めた人の多くが、『処女マリア』という考え方に強い違和感、場合によっては反感を覚えます。『復活』と同様に、常識と矛盾します。信じられないのが当たり前かも知れません。 その一方でカトリック教会や他のキリスト教会の中には、マリア崇拝が根強く残っています。乱暴な言い方をすれば、ペトロさんよりもパウロさんよりも、人気があります。信仰の対象にさえなっています。 ○ キリスト教の高い倫理性も、同じ図式に当て嵌まります。大変に魅力があります。明治期に日本に入って来たキリスト教が、人々の心を捉えたのにも、この高い倫理性に惹かれたからというのが、大きな理由だと考えます。特に男女の関係に於いて、深い教養を持つ仏教僧も、実に出鱈目な倫理に生きていましたから、キリスト教の説く一夫一婦制は、新鮮だったようです。特にご婦人には、解放感が与えられたようです。 しかし、同じことが、一部の人には、反感を持って拒まれます。堅苦しい、不自由、日本人の気質に合わない。いろんな反感が生まれました。 ○ 俳優の美貌だって同様です。ある人気俳優も、特徴的な顔立ちや声が、ある人には大いに魅力で、ある人には毛嫌いの理由になります。 ○ もう少し12節に拘ります。 『キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、 あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのは どういうわけですか』 復活が歴史的事実かどうかという議論の前に、これが宣教の内容であることを否定したら、そもそもキリスト教が成立しません。異教を信ずる者や無神論者の論理なら分かりますが、『宣べ伝えられている』ことを否定するのは自己矛盾だと、パウロは主張します。 『復活した、と宣べ伝えられているのに』 これが福音なのに、復活が受け入れられないならば、即ち福音を受け入れられないのだから、キリスト教ではありませんし、受け入れられならば、キリスト教から離れるしかありません。 ○ 13節。 『死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです』 ちょっと解りにくい表現ですが、普通の人間の『復活』があるから、『キリストも復活し』たと言っているのではありません。 人間の復活という信仰を、科学的な根拠や常識に基づいて否定する考え方のことです。 このように主張する人は、必ずしも、キリストの復活は否定しない人もいます。 今議論されているのは、一応、コリント教会の中の議論ですから、キリストの復活は認めるが、人間の復活は信じないという立場なのでしょう。 全くの無神論者を相手に議論しているのではありません。 しかし、人間の復活が否定されるなら、『キリストも復活しなかったはずです』と、パウロは、一般の信者の復活を主張します。 ○ 復活を信じる信じないという問答の前に、必要な確認があります。 復活を信じる人は、科学的な根拠や常識を網羅して、他人を説得できるとは考えていません。あくまでも信仰の世界であり、信じる根拠は、聖書にしかありません。聖書を信じるから、そこに中心的な使信・メッセージとして記されている復活を受け入れるのであり、聖書を通して出遭ったイエスさまを信じるから、復活を受け入れるのです。 復活を信じない人は、科学的な根拠や常識を網羅して、復活を反駁するかも知れませんが、 最初から科学的な根拠や常識に基づいているのではありませんから、反駁は無意味です。 まして、復活を信じないキリスト者というのは、自己矛盾でしかないと思います。 ○ 少し古い話ですが、同じ福音的信仰に立つ、比較的若い牧師が会合を重ねていました。 その会議に、所謂造反牧師、社会派の牧師と言っても良いでしょう。その代表的牧師を、お招きしてお話を伺いました。福音的、教会論的に立場は正反対だけれども、だからこそ、よくよく話を聞いた方が良いという考えからでした。人の考えを良く聞きもしないで対立するのは間違っていると単純に考えました。 伊豆の旅館で一泊し、二日間を費やしてタップリとお話を伺いました。そもそもは、信仰を持ったきっかけ、伝道者・牧師になった経緯、そんなことから伺いました。 立場の違う若い牧師が、場を設け礼をもってお迎えしたからか、大変に上機嫌で、いろいろとお話し下さいました。 ○ なかなか興味深い話でした。何しろ、この人が、社会正義に燃え、善良で、教会員や他の人に謙虚に仕えるという姿勢を持っている人だということが伝わりました。教養もあります。神学的素養もあります。なかなかの人格者です。 ところが、一点だけ、私たちとは違います。これは、妥協できない違いでした。 大分打ち解けたところで、この先生は言うのです。 「ところで、今時復活を信じている牧師はいないと思うけれども」 前後は忘れました。話の筋とは関係ないと思います。とにかく、この人は、復活を信じていないし、それが牧師であっても、普通のこと、当たり前だと思っているのです。 ○ 私たちは、「いえ、私たちは復活を信じています。そういう牧師の集まりです」と答えました。私たちの方から、復活を信じないのに、何故伝道者なのですか、何故牧師なのですかと反論すると、この人は、自分は教会が好きだ、教会に集まる人を大切に思い大切に扱っている。楽しい良い教会を作るのに、特に信仰は必要ないというようなことを仰いました。 私たちは、これはもう、話し合い、妥協点を見出すことは不可能だと判断し、その後も何人かに話を聞く予定だったのを止めました。 教会には、信仰を持たない人も、否、信仰を求めていない人を集まる、そういう人を優しく鄭重にお迎えし、居心地良い思いをして貰うのに、迎える側に信仰は要らないようです。 そんな教会が増えているかも知れません。 ○ しかし、少なくともパウロは、このような教会を容認しないでしょう。14節。 『そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、 あなたがたの信仰も無駄です』 『宣教は無駄である』のは、既に宣教の内容を失っているからです。宣教すべき内容が、既になくなっています。 『あなたがたの信仰も無駄』なのは、復活信仰を欠いた福音には、何の収穫物もないからです。にも拘わらず、楽しい有意義な教会を作るというのは、幻想としか思えません。 ※.ここで、無教会の指導者・黒崎幸吉の解説を紹介します。無教会ですから、私たちの教団とは、いろいろな違いがあります。何しろ教会論が違います。しかし、福音理解、復活理解はどうでしょうか。 「復活」が宣教及び信仰の中心であると云う事は今日非常に無視され、寧ろ復活は信仰や宣教の妨害であるが如くに考えられて居る。人間の不完全な知識や常識的科学が神の力を無視して居るからである。キリストの復活は彼の神性の証拠である(ロマ1:4)、彼神の子に在し給うが故に其の十字架の死は我らの罪のための死である事がわかる、従て十字架による我らの罪の赦しも彼の復活に其の基礎を置いて居る。故にキリストの復活なくば十字架の贖も罪の赦もなく我らの宣教の凡ての建物は?覆してしまうであろう。又キリスト自ら死とサタンとに征服せられ給うたならば、彼を信ずるものも亦同じ運命に帰してしまうであろう。然らば其の信仰は全く空漠たるものではないか。 ○ 15節。 『更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、 本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、 神に反して証しをしたことになるからです』 復活の事実が否定されるのに、これを宣教するならば、福音宣教全体が空しいだけではなく、偽証となり、神に逆らう者とさえなる、パウロは言います。 復活信仰さえなければ、キリスト教・教会は社会に定着でき、論理的・倫理的にも有益な存在になるという教団紛争を産んだ異端思想が、この時代に既に生まれていました。新しい異端など存在しません。異端の全てが、初代教会の時代に既存したという人もいます。 ○ 16節。 『死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです』 人間・信者の復活は信じられないが、キリストは特別だから、復活も有り得るという異端もまた、この時代から存在しました。 ○ 17節。 『そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、 あなたがたは今もなお罪の中にあることになります』 『あなたがたの信仰はむなしく』、14節と同様に、福音の内容そのものを失うことになります。当然、罪の赦しも贖いも救いありません。 贖罪信仰と復活信仰は不可分離です。復活信仰と無関係な贖罪信仰は、厳密には贖罪信仰ではなく、自己犠牲の勧めにすぎません。 それならば広く諸宗教に見られる。仏教の教えにこそ、それは顕著ではないでしょうか。宗教でなくとも、革命思想にも見られるのではないでしょうか。 ○ 18節。 『そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです』 この章全体が、既に召された信者はどうなるのかという質問に応えたものです。その前提には、終末は時間的に近いという信仰がありました。せっかく信仰を持ったのに、この終末に間に合わず死んだ者はどうなのるのか、救いはあるのかということが、現実的で切実な関心事でした。 復活信仰が否定されるならば、『信じて眠りについた人々』の救いはなく、『滅んでしまったわけです』と、パウロは言います。 このことは、現代の復活否定論者にも全く当て嵌まります。もっと短絡的に言えば、復活信仰なくして信仰はない、キリスト教・教会の業の全ては空しいとパウロは断定しているのです。 ○ 19節。 『この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です』 復活信仰を否定して、御利益宗教になることは、キリスト教の教えそのものからして無理であり、単なる道徳倫理になることも不可能だとパウロは断ずるのです。 |