○ 今日のみ言葉は、新共同訳聖書の小見出しにある通り、異言と預言という主題の下に論じられています。預言とは何かという話は、あまりにも遠大になりますので、残念ながら、今日は回避せざるを得ません。一方、異言とは何か、これも決して小さなものではありませんが、未だ、説明のしようがあります。 直接には、使徒言行録の最初に記された、聖霊降臨の箇所をご覧いただければ良いと思います。これが最初で、そして最大の出来事です。初代教会では、このように聖霊が降り、人々が異言を語り出すという光景が、しばしば、見られたものと思います。 ○ 預言は聖書世界の周辺のいろんな所にました。ギリシャにも託宣をする神殿巫女が存在しました。楽器を使い、恍惚状態で語られることが多かったようです。 イスラエルでは、神から聞いた使信を民に伝えることに重点が置かれ、異言とは一線を画し、これが預言となりました。イザヤ、エレミアを始めとして、神の言葉を取り次ぎ、その意味を解説を加えて告げ知らせる「預言者」が現れます。 そうして見ますと、大雑把な言い方ですが、異言とは、旧約聖書の預言書より昔の、古い時代の預言に通じるものがあると言えるかと思います。 今日の箇所で使徒パウロが述べていることも、これに符合します。パウロの教えを、異言の時代、異言の役割は終わったと述べているように聞いたら、間違いでしょうか。 ○ 6節から後、特に9節で、パウロは異言をそのまま評価出来ない理由を、簡潔に説明しています。 『同じように、あなたがたも異言で語って、明確な言葉を口にしなければ、 何を話しているか、どうして分かってもらえましょう。空に向かって語ることになるからです』 結局、他人には何も伝わらず、無駄に終わってしまう、独りよがりになってしまうと指摘されています。 しかし、それだけではありません。使徒パウロが異言を退けなければならない最大の理由は、3〜4節にあります。 『しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。 異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます』 ここで、先々週申し上げたことを思い出していただきたいと思います。 その時の原稿のままに引用します。 12章、21〜22節。 『目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、 また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。そうではなく、 むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり』 ここでは、全体つまり教会への奉仕について問題にされています。貢献度について問題になっています。誰が最も教会に貢献しているのか。それは、全体つまり教会を必要としている者です。この者のために他の者が働いているのですから。教会を必要としている者のために他の者が働いて、その結果、働く者が、教会に必要な者となります。 約めて言えば、教会を必要とする者が先ず存在し、この存在によって、働く者が教会に必要な者となるのです。 これは、大いなる逆説です。 ○ もう一箇所引用します。 もう少し神学的に、整理して申し上げるならば、これは、自己実現と教会の形成の違いです。 例えば、座禅を組むという修行があります。座禅は、自分の修養のために行うものです。座禅を組むことによって、誰かを救うとか、お寺が建つとか、そういうことはありません。自分の目標を持ち、自分で努力してそこに到達する、つまり、自己実現です。 これに対して、教会の礼拝、讃美、祈り、皆、自分の修養のために行われるものではなく、教会の形成のために行われるです。 信仰は、自分の修養のためで、自己実現だと考える人が確かに居ますが、この人は、教会が分かっていないし、つまりは、信仰が分かっていないのです。 教会即ち、キリストの体です。キリストの体としての教会の形成のために、頭があり、目があり、耳があり、手足があります。頭のために目が在るのでも、目のために頭が在るのでもありません。 ○ 14章4節を、もう一度、ご覧下さい。 『異言を語る者は自分だけの徳を高めるが、預言をする者は教会の徳を高める』 これをもって、異言は独りよがりで教会の役には立たないと言い切ってしまうのは、間違いかも知れませんが、そういう、危険を孕んでいることは確かです。 12〜13章は、教会の中の愛について語っています。愛を育てるためには、互いに気持ちを伝え、真に理解し合うことが欠かせません。つまり、言葉が必要なのです。逆もまた真なりで、言葉が正しく伝えられるためには、会話が成り立つためには、愛が必要なのです。 異言には、その余地がありません。異言を語るのに、愛は必要ないし、愛にも異言は必要ないのです。 ○ そもそも、使徒言行録の聖霊降臨に於いても、『使徒達は、いろんな国の言葉で話した』と記されています。 これを意味不明のことを語ったと取るのは間違いです。全く逆です。つまり、その意味・意図は、はっきりと通じたのです。むしろ、多くの人に、正しく福音の意味を伝えるために、聖霊降臨の出来事は起こったのです。 ○ 異言は、私たちの教会ではあまり大きな関心事になりません。異言とは何か、よく分からないが、とにかく、我が教会とはあまり関係ないみたいだ。これで済んでしまいます。ですから、今日のこの箇所自体が、あまり大きな関心事になりません。確かに、私たちの教会で格別に、異言の問題を取り扱う必要はないかも知れません。 しかし、使徒パウロが、預言と異言とを対比させながら、述べている事柄そのものは、極めて重要なものです。 言葉には愛が必要だということ、愛のない言葉は本当には伝わらないということ、福音とは神の愛を、言葉を持って伝えることだという事実です。 そして、4節。もう一度読みます。 『異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます』 私たちの教会でも、言葉・会話が必要です。言葉・会話がなければ、力を合わせて働くことが出来ません。歴史を、努力を蓄積することが出来ません。 しかし愛のない言葉・会話なら、ない方が未だましかも知れません。愛のない言葉・会話は、歴史を、努力を蓄積するどころか破壊してしまいます。愛がないならば語るよりも沈黙する方がましでしょう。 ○ ここに、二つばかり新しい問題が起こります。一つは、牧師の説教のことです。説教も聞いている者に、その真意が伝わらないと駄目だということになります。そうでなければ異言と変わりません。その通りでしょう。牧師が語るべきは、人々に通じる言葉であって、独りよがりな異言であってはなりません。 しかし、大体、牧師の説教は、難しいと言われるのが相場です。難しいと言われない牧師の説教、面白いと言われる説教には、かなり問題があるというのが、牧師の間での常識です。 牧師が、お客さんのために、お客さんが喜ぶ説教を始めたら、これはもうお仕舞いです。 説教がなかなかそのメッセージ通りには伝わらない、これは、牧師と聴衆と両方の責任と言えましょう。 ○ ちょっと、客観性を持たせるために、辞書から引用します。 「預言者は神の代言者であり(出7:1、エレ1:9を比較参照)、たとえ苦難を伴うとも、彼は内なる力に迫られて神の言葉を語らざるを得ないのである(エレ20:7−)。単なる技巧上の預言者として預言する者がいたことは、偽りを預言する預言者に対する非難がなされていることから見て明らかであるが(エレ23:9−)、偽預言者たちはイスラエルの預言者の真の特質を代表するものではない。偉大な預言者たちは、社会的不義に対してイスラエル宗教の精神を発揮し得ない者(ミカ6:8)、また倫理的行いから遊離してしまった宗教の形骸化に対して(イザ1:11−)、真の宗教の霊的原理に立ち帰るべく、人々に呼びかけた(ホセ6:6)。預言者は、内面生活において神の意志を軽んじる者は、その外的生活において神の聖霊に導かれることができないとし、しばしば、神を抜きにした政策の招来する結果を指摘して警戒を与えた」 人々にとって容易には受け入れがたいことを、預言者は語ります。旧約聖書を通じて、預言者の言葉が、人々に歓呼を持って受け入れられるなどということは滅多にありません。むしろ、大抵はその逆です。 ○ もう一つの問題は、使徒パウロは、では何故、きれいさっぱり異言を退けないのかということです。何故、異言についてのパウロの言及は、煮え切らないような、ややこしい言い方になるのかということです。 遠慮もあったかも知れません。しかし、やはり、全く否定し切れない要素が、異言の中にはあります。極端に言えば、宗教的エクスタシーであっても、それは全く退けることの出来ない要素なのではないでしょうか。。 異言とか、宗教的エクスタシーなどというものには嫌悪感を感ずるという方も、その逆を考えれば、お分かりいただけますでしょうか。つまり、霊性の欠如です。 ペンテコステも、アッシジのフランシスやドミニコの托鉢修道会設立も、宗教改革運動も、メソジスト・ホーリネスも、あまりに世俗的、欺瞞的、合理的、教養的になってしまったキリスト教への反発という契機を確かに持っています。それは否定出来ません。 ○ ごく具体的な例でお話致します。 教会の門を潜る時に黙礼する人がいます。礼拝堂の前でそうする人もいます。講壇に上がる時にスリッパを脱ぐ人がいます。こういうことを形式的だと批判する人もありますでしょう。しかし、これは自分が神さまの前で額ずく、敬虔な思いを表す行為だと、私は考えます。笑うことは出来ないと考えます。 挨拶は形式でしかないかも知れません。しかし、挨拶出来なくなった子供は、その心の内側が大変心配です。無意識のうちにお辞儀するということを忘れたら、危険だと考えます。 同様に、思わず知らず額ずくということを忘れたキリスト者は危ないのです。 ○ 信仰は理屈ではない部分が大事です。理屈だけでは信仰は成り立ちません。一人の人が、洗礼を受けるに至るのも、決して理屈ではありません。むしろ、情の部分が大きいのが普通です。 だからこそ、預言と異言、この緊張関係が存在するのです。教会が同様に、言葉と情、預言と愛、この一見矛盾する二つのものを共に大事にして行かなくてはならないように考えます。どちらか一つに傾きすぎる時、まして、どちらか一つを捨ててしまう時、それは、教会にとって危機的なことであると考えます。 本当に矛盾するもの、両者成り立たないものは、教会の徳を立てるということと、自己完成・自己義認です。両者の違いは、愛を忘れているかどうか、ここにあります。ここにだけあります。 ○ ちょっと飛躍するようですが、マタイ福音書23章2〜5節を引用します。 『2:「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。 3:だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。 しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。 4:彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、 自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。 5:そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、 衣服の房を長くしたりする』 偽善者と異言とを重ねるのは乱暴かも知れませんが、共通点があると考えます。両者には言葉と表現力があります。しかし、愛がありません。 教会の業も同様です。優れた業とは、個々人の能力のことではありません。教会を作り上げる業かどうだけが問われます。力のある業が、結果として教会を破壊するなら、それは悪魔の業に過ぎません。 ○ 当然ながら、コリント13章を引用します。 『1:たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、 わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 2:たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、 たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい』 |