○ 1節については、詳細に解説することは憚られるし、また、その必要もないでしょう。詳細に解説しても、下品になるだけです。言葉にすることも、躊躇せずにはいられないようなおぞましい出来事が、コリント教会に現実として存在したと言えば、充分です。 注目すべきは、先ず2〜3節です。 2節、 『それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、 こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか』 かなりゴチャゴチャした日本語ですので、一つづつ確認してまいります。2節の最後から、逆順番で読みます。1節に記されているような淫らな行いをした人々は、「除かれなければならい」、と断定的に言われています。6節以下と一緒に読むならば、いっそうはっきりとします。 6節、 『あなたがたが誇っているのは、よくない。 わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか』 腐った者が混じっていると、全体が腐ってしまうと警告されています。 ○ 教会に異端を入り込ませてはならない。異なる福音は勿論、異端の元になる異質な教えを持ち込んではならない。教会に、異質な教えを説く異分子を入り込ませてはならない。このことが断定的に言われています。 新しい練り粉にとって、古いパン種は、異質なものです。 古いパン種とは、ユダヤ教の残滓のことを比喩しているのでしょう。古いパンは勿論、新しいパン種の場合も同様に、異質なものです。そういう比喩は実際には、使われていませんが、天使礼拝や星晨信仰などというものは、新しいパン種と呼ぶことが出来ますでしょう。 新しかろうが、古かろうが、教会に異質なものを持ち込んではならないのです。 ○ 私たちは、礼拝毎に『信仰告白』、特に、使徒信条を唱和しています。何故礼拝で使徒信条やその他の基本信条が唱和されるのか、信仰告白とは、教会員が一緒に同じ信仰を告白することだからです。同質の信仰を告白する、ホモウシオス、ホモロゲインというギリシャ語です。 つまり、「教会に異端を入り込ませてはならない。異なる福音は勿論、異端の元になる異質な教えを持ち込んではならない。教会に、異質な教えを説く異分子を入り込ませてはならない」とパウロが言うのは、異なる信仰告白を持ち込んではならないということと同じことです。 未だに教団から払拭出来ないでいる「様々な立場を切り捨てない」というような考え方自体は、強く異端の臭いがするのです。 こんな風に申しますと、極めて特殊な出来事について論じているパウロの見解を、普遍化させて、信仰告白の問題に転嫁していると受け止められるかも知れません。そうではありません。パウロ自身が、意図的に、極端な事例を持ち出し、具体的な倫理の問題を論ずることで、信仰の本質を・そして教会の本質を論じようとしているのです。 ○ 元に戻ります。除かれるべき者が除かれないでいるのは、「高ぶっている」からだとパウロは言います。ちょっと意味が取りにくい表現です。しかし、前後関係等から、判断して、このような意味だと解釈します。 つまり、信仰を与えられ洗礼を受け、教会員となったことを、何か特殊な権能が与えられたかのように錯覚する人々が存在しました。何をしても何をしなくても許される、自分は、地上の倫理の外に立っているというような、歪んだ特権意識です。今日でも、統一原理や、物見の塔、オウム真理教などの新興宗教に共通して見られる現象です。 除かれるべき存在は、除かれなければなりません。そうして、教会の純粋性、信仰の純粋性が保たれなければなりません。 長い間、日本基督教団はあらゆる立場を切り捨てないという方針でやって来ました。その結果が、今の体たらくなのです。 ○ 切り捨てることは、魔女狩りではありません。パウロは『悲しんで … 除外する』という奇妙な表現を用いています。しかし、ここにパウロの真意が存在するのです。憎悪からではなく、義憤に駆られてでもなく、教会を守るために、『悲しんで … 除外する』のです。 ○ 具体的には、何をするのでしょうか。3節以下に記されています。 5節から先に読みますと、何だか、恐ろしいことが記してあります。オウム真理教のポアという言葉を連想します。勿論、ポアとは根本的に違います。難しい所ですから、順を追ってお話しましょう。 5節。 『このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。 それは主の日に彼の霊が救われるためです』 『サタンに引き渡』すとは、教会の交わりから除外するということです。もっと具体的には、聖餐に与れなくするということです。そのことで、サタンから守られる力が失せ、ひいては、肉体の死を来たらすのです。ですから、積極的に殺してしまうポアとは違いますが、実に厳しい裁きではあります。 しかも、4節にありますように、イエスさまの力、聖霊の働きに拠ってこのことが起こると言うのですから、多分にオカルト的で、怖い表現です。 『つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、 あなたがたとわたしの霊が集まり』 現代人の感覚にそぐわない要素があることは、私も否定しません。しかし、肝心なことは、ここまでしても、異端は退けなければならないという点です。また、教会に異なる福音を持ち込む者は、排除されなければならないという点です。 ○ しかし、現実にパウロが行うのは、3節です。 3節、 『わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、 そんなことをした者を既に裁いてしまっています』 これだけです。結局は、パウロがこの人のために祈ることを止める。これだけのことのようです。 しかし、これが最も恐ろしいことなのです。 ○ パウロの祈りから外されるのです。教会の祈りに覚えられないのです。 これが一番の刑罰なのです。 そんなことは痛くも痒くもないとうそぶく人が居るでしょう。そんな人は、その言葉をもって、既に裁かれ、罰を受けているのです。 逆に言えば、教会から見放されるという何よりも重い欠罰を受けた者に、それ以上とは言いません、他の刑罰が必要なのでしょうか。かつての異端審問や刑罰は、神の刑罰を信じない者にしか出来ない業ではないでしょうか。 ローマの信徒への手紙12章 『19:愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、 わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。 20:「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、 燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」』 多くの人が間違えて解釈していますが、聖書が『復讐するは我にあり』とは、復讐はつまり裁きは神の業、だから自分で復讐しないでは止まない人は、神の業を信じない人だという意味です。 ○ 6節で、『あなたがたが誇っているのは、よくない』と、また、繰り返されています。2節のそれは、既に申しましたように、コリント教会の中にも少なからず存在する歪んだ特権意識を批判するものでありましたが、ここでは、高を括るといった内容と考えられます。高を括るのも、背景には、歪んだ特権意識が存在します。5章1節のようなことは、あくまでも例外的なことで、何程のことではない。我が教会は、この程度のことでは少しも揺るがないという、傲慢です。 ○ 9節以下に記されていることは、私たちの教会の現状と全く重なります。神々の国、圧倒的な異教の社会で生活する私たちには、異なる信仰を持つ人との交際は避けられるものではありません。それどころか、しばしば、異教の信仰・習俗・更に異教の信仰に根ざした道徳倫理を、強制されます。私たちには実に、深刻な問題です。 この問題については、8月25日の礼拝後に、ミニ教会修養会を開催し、その主題とする予定です。 『9:わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、 10:その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、 人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、 ということではありません。 もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう』 パウロの教えは、案外に融通が利くというか、現実的です。私たちも、少しホッとします。 しかし、教会内部のことに関しては、全然、話が別です。ここでは、全く妥協の余地はありません。 ○ 11節に、つきあってはならない人の一覧表が示されます。 『わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、 偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、 つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです』 これを一つ一つ厳密に読んだら、なかなかおもしろいと思いますが、そんな時間はありません。むしろ、9節に挙げられた、この世の人々の悪徳と全く同じであるということに、目を止めていただきたいと思います。 この世で悪いことは、教会でも許されません。当たり前です。教会だから、許されるという発想が間違っています。 『そのような人とは一緒に食事もするな』とあります。これは、単に交際しないということではなくて、全く教会の交わりから追放するという意味です。 ○ 教会は裁くことがない、出来ないと言う現実があります。日本の教会では、間違ったことを、間違っているという言うことが出来ないのが現実です。教会が或いは牧師が、役員会が、教会員を裁くというような話は、あまり聞いたことがありません。ごく希に、牧師が教会員を叱ったと聞きますが、大体、大牧師と言われる人、大教会を舞台にした話です。普通の教会・普通の牧師では、なかなかそうはいきません。 逆に、教会員が、牧師や役員会を批判する、牧師を追い出すと言う話なら、ざらにあります。どこにでも、転がっています。 ○ 何故、間違ったことを間違っていると言えないのか、要するに、牧師や役員の立場が確立されておらず弱いからですが、それだけが理由ではありません。いや、何故、牧師や役員は弱いのか、特に牧師は弱いのかと言う話をした方が良いかも知れません。それは、教会をこれ以上小さくしてはならないと考えるからです。事の是非を糾すことよりも、教会を守ることを優先してしまうのです。 教会がどうなろうとかまわない人は、それは、誰憚ることなく、声高に、自分を主張することが出来るのです。 ○ コリント書の講解に入ってから、何度も繰り返して申し上げていますように、使徒パウロは、コリント教会員の前に、自分の弱さを曝け出しています。みっともない程です。それは、パウロのコリント教会に対する愛故です。 しかし、それだけではありません。一方では、今日の箇所にあるように、寸毫も妥協を許さない立場で、厳しく臨むのです。それもまた、パウロのコリント教会に対する愛故です。他のことでは、パウロも妥協もしますし、口も覆います。しかし、異なる教えに対しては、断固として、否を言い、異なる教えを教会に持ち込む者に対しては、死んでしまった方が彼のためだと断定するのがパウロなのです。 ○ 裁く事が出来ないのが、思いやりからならば、まあ仕方がないかも知れません。しかし、この人が教会で、我が物顔に振る舞い、異なる福音を語り続けるならば、5節が問題となります。 『このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。 それは主の日に彼の霊が救われるためです』 主の日つまり裁きの日に、彼の霊が救われるためにこそ、間違っていることは、間違っていると言ってあげなければならなりません。時に、厳しく裁かなければなりません。 優しいだけの牧師、優しいだけの役員は、実は、一番冷たいのかも、知れません。何事に関しても、ルーズで、信念というものがない、そういう根拠に基づいた優しさは、捨てなければなりません。曖昧、優柔不断、そこからは真の優しさ・寛容は出てきません。絶対のものを絶対として守り、少しも妥協しないことによって、初めて、他の事柄については、相対視し、柔軟・寛容になれるのです。正しい福音に固執する教会が、柔軟・寛容な教会、信仰的に豊かな教会になれるのです。 逆に言えば、てこでも動かない絶対のものを持っている教会は、信仰者は、他のことでは、寛容になれるし、融通が聞くのです。 |