日本基督教団 玉川平安教会

■2019年10月06日

■説教題 「偶像礼拝の罠」
■聖書  コリント一 10章14〜22節


○ 16節から読みます。ここには、耳慣れない表現がありますので、先に説明いたします。

 『賛美の杯』とは、食事に先立って行われた儀式のようなものです。ユダヤ教にそのような習慣があったそうですが、食事の最初に葡萄酒の杯を上げて、讃美の祈りを唱えます。これが、初代教会の愛餐会の始まりの祈り、そして、聖餐式の祈りへと発展していきます。

 ですから、『賛美の杯』とは、ここでは、聖餐式の祈りと読んで差し支えないでしょう。

 『わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか』。聖餐式を想定すれば、良く分かります。更に、『与る』とは、ギリシャ語でコイノーニアです。これは、一番簡単に訳せば、交わりとなります。教会員の交わりというような表現がありますが、その元になっている言葉が、コイノーニアです。


○『賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか』。『キリスのコイノーニア』に入れられる、キリストと特別の関係を持つ、キリストに属するということが、強調されています。

 『わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか』これも同様です。11章の23節から、直接聖餐式の起源となる箇所になりますが、この箇所も、全く、聖餐式と重なっています。そして、この箇所から、聖餐式が、「『キリストのコイノーニア』に入れられる、キリストと特別の関係を持つ、キリストに属する、キリストと一つになる儀式」であったことが、分かります。


○ 17節、『パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です』

 至極当然の帰結として、このように述べられています。

 洗礼を受け、聖餐式に与る者が、教会全体のことを考えないで、自分の欲望にばかり目を向け、それが適わないから、つぶやき・不平不満を言い、不従順となり、やがて不服従そして離反と転落して行く、そんなことがあってはならないと、パウロは警告しています。

 

○ ところで、ここで厳密にしておかなくてはなりません。一つに結ばれる、コイノーニアとは、人間が神と同じになることでも、教会員同士が混じり合い、融合することでもありません。敢えて言えば、ヨハネ福音書の譬えにある葡萄の木です。教会員がキリスト者が、イエス・キリストという葡萄の木に結び付き、実となってぶら下がるのです。葡萄の実同士が、一つとなって融合してしまうのではありません。

 むしろ、帰属です。此処で強調されているのは、教会員が仲良くお交わりを持つというようなこととは無関係です。そうではなくて、帰属、何処に誰に属するのかという問題です。

 教会員同士が互いに打ち解けて仲が良いとか、そんな話ではありません。一人ひとりが教会に属している、キリストの枝として連なっているという帰属意識を確固として持つことによって生まれる交わりなのです。

 極端に言えば、礼拝に出て隣に座っている人の名前を知らなくても、ましてその人の家庭の状況だとか、趣味だとかを知らなくても良いし、支持している政党も関係ありませんし、時の総理を評価しているか否定しているかも関係ありません。

 唯一、この神さまの家で、共に神さまから与えられる生命の糧をいただくことが出来るならば、それで神の家族であり、キリストのコイノニアの中にあります。


○ 勿論、教会員同士お交わりを持つのはいけないとか、必要がないと言うのではありません。順番の問題です。イエスをキリストと信じ、イエス・キリストの御言葉を魂の糧として生きる者が一つの食卓に集まってきて教会と言う神の家族が形成されます。その逆ではありません。人間的に互いに親しい者が寄り集まって教会が出来、そこで聖餐式が執行されるということはあり得ないのです。

 むしろ、人間的な集まりであることに終始しているからこそ、いろいろと不協和音がうまれます。人間的な集まりの宿命です。目的意識を確固として持たない者の群れは、必ずつぶやき・不平不満を言う集まりに駄するのです。

 だからこそ、つぶやき・不平不満を言う者は、己が誰に属する者であるのか理解しないということであり、何処に居るのか分からない者となり、離反者となるのです。必然的にそうならざるを得ないのです。葡萄の木にぶら下がりながら、林檎の木の方が良さそうだと考える者は、離反者であり、偶像崇拝者なのです。

           

○ 18節、『肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。供え物を食べる人は、

  それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか』

 かなり難解な表現です。若干の注釈が要ります。ユダヤ教は犠牲奉献の祭儀によって成り立つ宗教です。割礼とか律法とかのことはありますが、ユダヤ教の犠牲奉献の祭儀に与るのがユダヤ人だと言っても間違いではありません。同様に、ローマ人とは、ローマの犠牲奉献の祭儀に与る者です。だから『肉によるイスラエルの人々の』場合、ローマの祭壇に捧げられた供え物を食べることは、ユダヤ人であるアイデンテティーを捨てて、ローマに走ることになります。大雑把に、しかし、分かり易く言えば、ローマの祭壇に捧げられた供え物を食べることは、ローマに染まることなのです。染ってしまうのです。


○ 19節は、もっと難解かも知れません。要約すれば、「偶像は空しいものだから、本当は偶像に捧げることも空しいことで、他の神さまに寝返ろうとしても、そんな神さまは居ない。しかし、偶像に捧げると言う行為、離反行為が、神さまに対する裏切りであることに変わりはない」こんなことになるでしょうか。

 誤解を恐れず、もっと分かり易く述べたのが、20節、です。

 『いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、

  神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。

  わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません』

 ここでも、帰属の事が問題になっています。神さまを捨てて、他の神さまに走ることは、即ち、悪魔に走ることなのです。


○ 帰属の問題は、21節で、もっとはっきりと述べられています。

『主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、

 主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません』

 二者択一的な決断が迫られています。


○ ここで思い起こしていただきたいのは、Tコリント書の記された事情です。既に読みましたように、執筆の最大の動機は、教会の分裂問題でした。党派の問題でした。つまり、キリストに結び付くことが一つとなることであり、一つとならないこと、分裂党派の現実は、キリストに結び着いていないからであり、ひいては、キリストではない者に結びついているからです。

 Tコリント1章12節。

 『あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」

   「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです』

 パウロの名前を出そうと、ペテロの名前を出そうと、例え「わたしはキリストに」と、ご大層なことを言っていても、分裂党派のある現実は、キリストではない者に結びついているからであり、キリストに結び着いていないからであり、ひいては、悪霊の杯を飲むことなのです。或は、『主の杯と悪霊の杯の両方を飲むこと、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くこと』です。


○ Tコリント1章13節も引用しましょう。

 『キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために

   十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか』

 既に触れましたように、Tコリント11章に、聖餐式の起源となった記事があります。今日の箇所に述べられていることは、内容的には11章17節以下と直結しています。

 誕生したばかりの教会の分裂と言う何とも悲しい現実と、聖餐式の制定とは無関係ではないと考えます。聖餐式は儀式に違いありませんが、教会の現実を踏まえた、是非とも、必要な儀式だったのです。つまり、聖餐式を中心とした聖餐共同体・礼拝共同体の形成が、是非とも、必要だたのです。

 聖餐式は、教会共同体への入会の儀式であり、また、その共同体の一員であること、一員であり続けるという契約の更新の儀式でした。「私はキリストに属する者であり、キリストに結び着く者であり、キリストという木に結び着いて信仰の実をならせる者となる」と言う誓約の儀式なのです。また、「他の神を退け、偶像を捨て、唯、主イエス・キリストの父なる神にのみ仕える」と言う信仰の告白であり、更には、「キリストを王として戴く神の国」への忠誠の表明だったのです。


○ 教会は、同じ信仰告白をし、同じキリストの木に連なる者の交わり、コイノーニアです。だから、まあ悪い言葉で言えば排他的となるかも知れません。教会が自分たちの交わりを持って、交わりの中にある者と、外に居る者とを峻別するのは、むしろ、当然至極のことなのです。

 もし私たちのコイノーニアが、人間同士の結びつきならば、何も、この点を厳密にする必要はないでしょう。あなたもいらっしゃい、あなたも仲良くしましょうと言うことが可能ででしょう。

 しかし、このコイノーニアは、キリストに連なるコイノーニアです。つまり、一人ひとりがキリストという木にぶらさがって、信仰の実となることによってしか、このコイノーニアに属することは出来ません。そういう理屈なのです。あなたもこの木に一緒になりませんかと言って、林檎の木を持って来て、葡萄の蔓に絡ませても、無理です。キリストの木に、この人が直接につながって、実となる他には、このコイノーニアに交わる術はありません。排他性がどうのと言うまでもありません。無理なのです。

 まあ、それが具体的な展開としては、洗礼を受けた者だけが、聖餐式に与ると言うことにつながってまいります。この交わりに入るためには、聖餐に与るためには、キリストと言う葡萄の実とならなければならない、即ち、洗礼を受けなければならないのです。至極当然のことなのです。洗礼を受けていない人を「あなたもいらっしゃい、一緒に聖餐に与りましょう。私たちは差別も区別もしません。」と言っても、そしてもし、ここで一緒にパンを食べ葡萄酒を飲んでも、この人はキリストの実になった訳ではありません。つまりは、コイノーニアに入れられた訳ではありません。

 その肝腎要の所を見ないでいて、「あなたも一緒に聖餐に与りましょう。あなたも私たちの仲間です」とどんなに人間の言葉で言っても、仕方がありません。それこそが、むしろ、差別なのです。「私たちは洗礼を受けキリストの実として連なっている。そうして、この交わりに数えられている。あなたは本当はそうではないけれども、一緒に飲み食いしましょう」と言うのは、むしろ差別です。


○ 省略した10章1節以下、拾い読みしてまいります。2節。

 『皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ』。

 イスラエルは、初めから洗礼共同体です。信仰共同体です。『モーセに属するものとなる洗礼を』受けた者が、イスラエルの成員、構成員として出エジプトの旅に上ります。ここにモーセに着く決心はしていない、洗礼を受けていない者が、一緒に出エジプトの出来事に拘わったとしたら、これは、妙なことです。不可能です。何故なら、彼らはエジプトから、つまり、パロの奴隷である状態から脱出して来たのですから、無理なのです。


○ 3〜4節、『皆、同じ霊的な食物を食べ、4:皆が同じ霊的な飲み物を飲みました』

 今は教会、つまり、同じ礼拝で同じ御言葉をいただく群です。教会は御言葉に聞く者の共同体なのです。

 教会はまた、同じ聖霊=同じ幻に世って結び合わされる者の群です。そういう意味では、聖霊のコイノーニアです。そして、この聖霊は、今日の10章でも分かりますし、11章の聖餐式の起源の箇所でも分かりますように、教会という信仰共同体に下されたものです。つまり、キリストの木、キリストという木にだけ、この聖霊が生命として血として流れています。この聖霊を頂くためには、この木にぶら下がっていなければなりません。他のてんでんバラバラの場所で、聖霊を受けた者が集まって来て共同体を造るのではありません。


○ 最後に、22節、10章22節です。21節から、読みます。

 『主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、

  主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。

 22:それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。

  わたしたちは、主より強い者でしょうか』

 ねたみ、パウロ自身が妬みという言葉を何回も用いています。その場合には、人間の持つ最も醜い感情として描いています。けれども、ここで、神さまのお気持ちと言うのでしょうか。神さまの感情を表現するのに、妬みと言う言葉が用いられています。どういうことでしょうか。

 実は、妬みと訳されているのは、熱情という字です。熱情、しかし、まあ、熱情と訳すのではなくて、妬みと訳すのが正しいと思います。どういうことかと申しますと、旧約聖書の神は妬みの神であるとはっきり言われています。神さまは一人ひとりの人間に、私たち一人ひとりに、妬みを覚える程に熱情=愛情を持っておられるということです。

 逆の神さまをお考え下さい。妬みのない神、うんと優しい神さま、寛容な神さま、人間がフラフラとどこに出掛けようとも、常に暖かい目で見ておられる、「今日は仏教に行ったか、良いだろう。今日は神道か、まあ良いだろう。やがてここに帰って来るだろうから、良いだろう」広いお気持ちで、人間の離反行為を、見ている神、見守っている神でしょうか。まあ、そんな風に寛容な神、優しい神ならよろしいんでありましょうけれども。こういう神さまは、 … まあ、いるとしてですけれども … 実は、無関心な神さまではないでしょうか。どうでも良いです、人間が何処に行こうと、大した関心はないんです。


○ 私たちの信ずる神さま、旧約の神さまは、妬む程に人間を愛する神です。だから、人間が不平・不満を言い、つぶやきを言い、不従順となり、不服従となり、離反して行く事を許しておかれません。

 これは、一面、私たちに取って恐ろしいことです。けれども、これこそが、私たちの救いの印、救いの根拠です。神さまが妬む程人間を愛しておられるから、人間に関心を持っていて下さるから、主の十字架の出来事が起こりました。つまり、旧約聖書を見ましても、それが引用されている今日の箇所を見ましても、ゾッートするような表現が見えます。『この日殺された者が何万人あった』というような表現さえ出て来るのですけれども、この恐ろしい表現こそ、不寛容な神さまこそが、私たちの救いの根拠なのです。そういう神さまでなければ、私たちを救って下さりません。どこまでも私たちを追いかけて下さらないのです。


○ 聖餐式についても、同様のことが言えます。聖餐式は、コイノーニアです。私たちキリスト者一人ひとりが、神さまに対する信仰を改めて告白する契約です。契約の儀式です。私たちが、好き好んでそれをするのではありません。神さまが要求するのです。妬みの神は、私たちに信仰告白を要求します。人間の神に対する信仰の表白を要求するのです。告白しないと怒ります、この神さまは。そういう神さまだから、私たちが救いに与ることが出来るのです。

 この箇所を特別、無差別陪餐に結びつけて解釈する必要はないのかも知れませんが、無差別陪餐を主張する人は、この辺りのことが分かっていません。

 また教会では何よりも人間的な親しさが必要だ、そうでなければ教会とは言えないように考えている人も、この辺りのことが分かっていません。

 人間的な親しさを追求する団体ならばたくさんあります。スポーツでもゲームでも踊りでも、たくさんあります。しかし、どんなに楽しい交わりを形成していてもそれでは救われないから、主の十字架があり教会が生まれたのです。それを間違えてはなりません。