日本基督教団 玉川平安教会

■2019年11月03日

■説教題 「朽ちるもの朽ちないもの」
■聖書  コリント一 15章35〜44節


○ 36〜41節までをご覧下さい。長いので、37〜38節だけ読みます。

 『37:あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、

   ただの種粒です。

 38:神は、御心のままに、それに体を与え、

  一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります』

 ここでは、種と花は似ても似つかないという意味のことが言われています。

 これには、誰も反対しないでしょう。その通りです。生き物とさえ見えない、砂粒のようにしか見えない種からは、成長した花の姿を思い浮かべることは困難です。

 種を見れば花が分かると言う人は、屁理屈を捏ねています。結果を知っているからそんな風に見えるのであって、種と花とはおよそかけ離れています。

 種と花とは同じものだからと言って、種を床の間に飾って鑑賞する人は一人も居ません。それとも、そんな人が一人くらいいるでしょうか。種からは、成長した後の姿も色も、全然分かりません。


○ あの種の中に、後の姿になるのに必要な全てのものが組み込まれているとは、何とも不思議なことです。植物学的な説明をどんなに聞いたところで、その不思議さが消えるものではありません。その不思議さとは、生命そのものの不思議さだからです。

 植物だけではありません。動物だって、基本的な仕組みは全く同じでしょう。卵であれ、或は遺伝子であれ、実に不思議なことです。動物も植物と同じです。

 37節は、動物の場合にも全く当てはまるとは、パウロも、流石に知らなかったでしょう。

 もう一度読みます。

 『あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、

  ただの種粒です』

 パウロは、比喩的に語ったつもりでしょうが、科学的にも、事実そのままを語っていたことになります。これも不思議です。


○ さて、この箇所と内容的に直接結び付くのは、直後の38節よりも、むしろ、42〜44節です。

 生きている時の人間の姿を、種に準え、復活の姿を花に準えています。

 『42:死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、

 43:蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、

  蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。

 44:つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。

   自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです』

 この比喩自体は、大変分かり易く説得力があります。この程度の比喩では納得しないという人もあるかも知れませんが、どうでしょう。

 私たちは、実はどんなに遺伝子のことを説明されても、本当には分かりません。専門的に勉強した人でなければ、到底理解出来ないと思います。また、仕組みを理解したところで、生命そのものの神秘を理解出来る訳ではありません。

 実は、何も理解出来ません。理解出来ない程度においては、復活のことも全く同じではないでしょうか。復活などと言われても全く理解出来ない、納得出来ないと反発されるかも知れません。確かにその通りでしょう。しかし、種が撒かれ芽を出すことだって、それが成長し花開き、実を付けることだって、復活と同じくらいに、全く理解出来ない、納得出来ないことだと思います。種から命が生まれ出ることと、復活とは、同じように同じ程度に、不思議で、人間の理屈を超えた出来事です。


○ 39節以下は、種と花の違い、つまり、植物のことを、動物の場合に当てはめて、別の角度から説明しています。

 『39:どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、

   魚の肉と、それぞれ違います。

 40:また、天上の体と地上の体があります。

  しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています』

 40節の『天上の体と地上のからだ』というような表現は、ゴチャごちゃしていて、急に現実から遊離した神秘的なことを言っているように聞こえますし、二元論的にも聞こえますが、難しく考えなければ、要は、地上の姿からは、復活の姿を想像することさえ困難だ、想像することさえ無意味だと言っているのです。

 それ以上のことを読み取ろうとしても、却って脱線するだけだと考えます。

 著者が意図した以上のことを読みとることは出来ませんし、無意味です。


○ 45節以下も、趣旨は38節以下と同様です。種が朽ちるもの、復活の姿が朽ちないもの、同様に、種が卑しいもの、復活の姿が、輝かしいもの、こう対比されて、更に、弱いものと強いもの、自然の生命の体と霊の体というように対比されていきます。少しずつ話が飛躍して、その結果、『自然の生命の体と霊の体という』部分が突出しないように見えるという、いわば、文学的手法が用いられています。これは、論理的には、悪く言えば誤魔化しですが、パウロが何を言いたいのかは、良く分かります。


○ ただ、この箇所は、かなり難解な部分がありますので、最小限の解説を加えておきます。45節、

 『「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、

   最後のアダムは命を与える霊となったのです。』

 創世記2章7節からの引用です。

 『主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。』

 この引用句を更に解説しなくてはなりません。創世記のこの箇所の直訳は、最後の部分だけで良いと思います。『人は生ける魂になった』これが、直訳です。また、パウロが引用しているギリシャ語は、『人はこうして生きた魂の肉となった』これが直訳です。

 ここから、パウロは、生命を持たない肉が生命を与えられるのが誕生であり、死と復活もまた同様に、生命を失うことではなくて、生命の生命とでも呼ぶしかない霊的な生命を与えられることだと考えているのです。


○ 全ては、創世記の記事との対比です。

 生命を持たないけれども姿は人間である木偶人形のような存在に、神の息つまり魂を吹き込まれるのが誕生、人間の姿形は失うけれども、永遠の生命を与えられるのが復活、こういう対比です。


○ また、45節の、最初の人アダムに対する最後のアダムとは、キリスト・イエスのことであり、47節の、最初の人、これは勿論アダム、そして、第二の人とは、同じくキリスト・イエスです。

 48節。

 『土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、

   天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです』

 これを意訳すれば、こんな風になります。

 『アダムは土から作られたから、アダムの末裔たる人間は、所詮土に属するものであり、土に帰るものに過ぎない、しかし、キリストは天に属するものだから、死して天に帰る。私たちキリスト者は、アダムの末裔であるが、一方でキリストに属するものでもあるのだから、肉体は土に帰るが、霊は天に帰る』

 もっと大胆に約めて言えば、私たちはアダムの末裔だから死ねば土に戻る、一方で、キリストに聖霊、新しい命を与えられた者だから、肉体が死ねば、霊に戻る、こういう理屈です。

 これに、更に、キリストが来臨するその日、私たちの魂は復活し、なおかつ、キリストが地上に帰られたが故に、私たちも地上に帰る、即ち再び肉体を纏う。こういう論理展開になるのだろうと考えますが、ここではそこまで言っていません。


○ これ以上の注釈は、却って難解にするだけだと思いますので、以上に止めます。

 死と復活を種蒔きに喩えたことが、何しろ重要なことです。種は蒔かれなければ何も生じません。

 ヨハネ福音書12章24節。

 『24:はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。

   だが、死ねば、多くの実を結ぶ』

 私たちの一生も、種として蒔かれ、そのことで何物かを生み出す、そこに人生の意味があるのだというのが、使徒パウロの考え方です。

 ヨハネ福音書12章25節。

 『25:自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、

   それを保って永遠の命に至る』


○ パウロは、人生の終わりを見つめないで刹那的に生きる人々を厳しく糾弾し、死の現実を描き出すということをする一方で、死と復活のことを、しばしば、待ち遠しい楽しい出来事であるかのように述べます。ローマ書から、コリント書から、ガラテヤ書から、無数に例を上げることが出来ます。二箇所だけ挙げましょうか。

 ローマ8章22節。

 『被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、

   わたしたちは知っています』

 ガラテヤ4章19節。

 『わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、

   わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます』

 敢えて、ローマと似たような箇所を上げました。


○ 待ち遠しい楽しい出来事という表現は妥当を欠くとしても、少なくとも、徒に恐怖し、避けられるものならば避けたい出来事としては考えていません。ローマ・ガラテヤの産みの苦しみの比喩に顕著なように、そこから何事か新しいものが生まれ出て来るための試練として捉えているのです。

 人生は、一度きりだから、大切に大切に、なるべく使い減りしないように、ケチケチと生きるためにあるのではありません。お金と同様に、真に必要なもののために使うべく存在するのであって、使わないで取って置くだけなら、無いも同様です。何に使うかが大事です。逆に言えば、人生の使い道を見つけることが肝要なのです。

 マタイ福音書25節。

 『24:ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。

 『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、

  散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、

 25:恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。

   御覧ください。これがあなたのお金です』

 このタラントの教えを詳しくお話ししている暇はありませんので、結論だけ申します。種の譬えと同じことです。人生という種も撒かれなければ即ち、無用の人生となってしまうでしょう。


○ 使い道が無いお金は、無用であり、無いも同然なのと同様に、使い道が無い人生は無用であり、無いも同然なのです。それでいて死を恐れ、長生きだけを人生の目的にするようならば、『生まれて来なかった方が』よほど増しだったでしょう。

 否、『生まれて来なかった方がこの人のためだった』と言われたのは、イスカリオテのユダです。イスカリオテのユダ唯一人です。つまり、『生まれて来なかった方が』良かった人などいないし、使い道がない人生も本当はありません。

 決断と飛躍がなければ、真に有意義な人生はありません。

 私たちが生まれて来る時には、何も決断していないと言うのならば、尚更、死んで行くまでには決断して、自分の道を選び取ろうではありませんか。


○ 復活というような重要な事柄を学んでおりますと、つい、これまで丁寧に読んで来た文脈を忘れてしまいそうになります。しかし、常に申しますように、文脈に当たることは、 聖書を読む上で何よりも大事なことです。思い出して下さい。分派、分裂、その原因である独りよがり、これがコリント教会の根本問題でした。逆に言えば分派、分裂を克服するような教会の形成という文脈で、具体的な諸問題が語られて来たのです。

 文脈を踏まえれば、今日の箇所の主題が見えて来ます。パウロは、抽象的観念的な神学を論じているのではありません。パウロは、コリント教会員の要望に応えて、復活を論じると共に、それに重ねるようにして、自己犠牲的な奉仕について教えているのです。教会に仕えるということを教えているのです。宣教の目的の中で、自分の役割を見出すということを教えているのです。


○ 人生の意義を見出すことは、自分勝手な我が儘に生きることとは違います。むしろ、人生の意義を発見出来ない人が、自己目的的に、我が儘な人生を送るのです。同様に、宣教の目的の中で、自分の役割を見出すということは、自分勝手、我が儘に発言し行動することとは違います。


○ 最後に。41節。

 『太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、

   星と星との間の輝きにも違いがあります』

 今日は召天者記念礼拝です。信仰を持って、神の国に召された方々を記念する礼拝です。

 この後、306名の方々の名前を朗読します。これだけの方々の命の種が、玉川平安教会という畑に撒かれました。天国で、芽を出し、花咲き、実を付けるのです。

 神の国は、さぞかし百花繚乱でしょう。