日本基督教団 玉川平安教会

■2019年10月20日

■説教題 「キリストのからだ」
■聖書  コリント一 11章23〜29節


○ 旧約聖書には、神と人間との間で交わされる契約が、繰り返し出てきます。ノアの契約、アブラハムの契約、モーセのシナイ契約、ダビデ契約、そして預言者エレミヤのそれ、それぞれに契約の特徴があり、十把一絡げには出来ませんが、これらの契約全部に共通していることがあります。

 これらの契約は、常に、民族の形成と関係があります。預言者エレミヤの表現に拠るならば、新しいイスラエルが作られるという文脈で語られています。

 また、この点を指摘しておかなければなりません。士師による契約の更新の儀式です。細かい点では、学者によって意見が分かれるかも知れませんが、士師つまり裁き司が、年に一回、神とイスラエルとの間で契約を更新する儀式を司ったと言われています。

 イスラエルの歴史から士師の存在が消えた後も、王の即位に関連して、契約更新の儀式が行われました。そもそも、過越の祭りに於いて、年に一回、契約が更新されるという精神・信仰が残りました。

 別の言い方をすれば、これはイスラエルが、神の救いの出来事を、過去の出来事、終わったこととはしないで、年に一回想い起すことで、神の救いの業を、今現在も続いて行われている出来事、常に新しい出来事として、確認したということです。


○ 聖餐式についても同じことが言われなくてはなりません。使徒パウロは、礼拝、特に、聖餐式との関連でだけ、『キリストの体』という言葉を用いています。『キリストの体』という表現は、第一義的に、今生きて働いておられるイエスさまに、『教会』が、直截に結び付けられて存在していることを意味します。

 つまり、十字架と復活の出来事は、二千年彼方にある遠い過去の出来事ではなく、聖餐に於いて、現在の出来事となっているのです。

 十字架と復活の出来事は、一回だけです。しかしながら、それを恵みの賜物として受けとめる行為は、継続的なのです。

 このことは、十字架の贖いが、十字架以前の出来事に対して有効なだけではなく、十字架後の全てに対して有効だということと対応します。

 

○ ここに明確に述べられていますように、聖餐式は契約の食事であり、共同体の食事です。この席で、その度毎に、神と教会との契約が新たに告げ知らされ、保証されます。

 既に申しましたように、ユダヤに於いては、師士の時代から、そのような信仰的慣習が存在しました。師士の導きによって、神とユダヤとの契約が年毎に更新されました。

 つまり、聖餐は単に象徴ではなく、象徴的な行為によって、現在新たに起こる出来事でもあります。

 その意味では、聖餐は、追憶ではなく、むしろ、追体験です。過去の信仰・教会論の伝達に留まるものではなくて、この行為に於いて、信仰が・教会が、新たに形成される出来事なのです。礼拝毎に、人は集められ、新たに共同体が形成されるのです。

 古い共同体=規制の共同体が、古い契約を更新するというのに止まりません。新たに守られる聖餐に於いて、新たに共同体が形成され、契約が新たなものとなるのです。


○ だからこそ、イエスさまの晩餐そして聖餐は、一人ひとりの孤立した食事ではなくて、愛に基づいて行われる共同体の食事なのです。

 この箇所で使徒パウロは、テーブル上のマナーのことを言っているようにも聞こえます。勿論、マナーが問題になるのは、礼儀作法のことではなくて、共同体の食事であることを、より強調するためです。

 洗礼を受けていない者が、パンと葡萄酒を貰えないのは差別だと言う見方は、あまりにも、表面的な見方です。聖餐式とは何かという本質から外れた議論です。契約共同体の食事であるから、あるからには、契約の当事者以外はこれに与れないのは、至極当然なのです。


○ 少し角度を変えて説明致したいと思います。

 イスラエルがイスラエルであると言うことは、日本人が日本人であるということ程、自明なことではありません。これはイスラエルの独特の成り立ちに重なるのですが、元々、イスラエルは同じ血が流れ、同じ風俗・習慣を持つ者の群れではありませんでした。言葉も信仰も異なる諸民族・諸部族が、ペリシテ人の圧迫と言う契機によって、一つとなる、一つになって、ペリシテに対抗しなければ生き残ることが出来ないと言う時代の必然から、シナイの山で自らを掲示された神を信じる信仰、敢えて言えば、信仰的イデオロギーによって、結集した、極めて独特の歴史を持つ民族なのです。これに近い歴史を持つのは、明治維新期の日本です。

 ですから、先程から申し上げています契約更新の儀式は、イスラエルにとって、単なるお祭りではありません。契約更新の儀式が繰り返されないならば、イスラエルは精神的に崩壊してしまうのです。

 

○ 教会もこの点全く同じです。玉川平安教会に集められている者は、それぞれに出自が違います。多様な生い立ちがあり、多様な価値観を持っています。職業が違うし、それぞれに教会よりも大事にしなければならない家族を持っているし、支持する政党も違えば、好んで読む新聞も違います。

 だから、聖餐式による契約の更新がなければ、聖餐式によって一つとなることがなければ、教会は教会ではなくなってしまいます。聖餐式による契約の更新がなければ、教会員は互いに全くの他人なのです。


○ イスラエルはその歴史を通じて、常に、他民族・他の国家による侵略の危機を背負っていました。その中でイスラエルとしての契約の更新を続けて来ました。これは生命を賭けた戦いでした。征服者は、自らの神を拝むことをイスラエルに強いて来ます。イスラエルであることを辞めて、新しい国の国民として新しい王に仕える留ことを強いて来ました。その中で、イスラエルであることを決断して、選び取らなければならなかったのです。正に生命を賭した戦いでした。


○ 使徒パウロの時代の、コリント教会の置かれている状況も全く同様です。キリスト者がキリスト者であるためには、戦いがなければならなかったのです。ローマ市民であることよりも、キリスト者であることを選び取り、皇帝崇拝を退けたのです。

 決して飛躍した比喩ではないと信ずるから申します。

 鎌倉時代以降、唐傘連判なるものが存在しました。時の権力に反抗して一揆を企てる者が、唐傘状に名前を記して、連判を押しました。連署する者に、上も下もありません。誰が責任者で、誰はその追随者だということもない、等しく覚悟を持って、事に当たるのだという決意の程が、ここに示されています。

 もし、村外れのお堂に籠もって、この連判に署名していたとします。そこに、たまたま通りすがりの者がいたから、彼も仲間に加わって貰って、署名して貰おうなどという発想は絶対にあり得ません。

 子供の名前が混じることもあり得ません。お堂の前で遊んでいた子どもが中に入れられて、署名する、血判を押すなどということは、絶対にあり得ません。

 聖餐式に与ることも同様です。私たちは日本人です。しかし、私たちは、日本人であることよりも、神の民・新しいイスラエルであることを、選び取り、契約に名を連ねるのです。隠れキリシタンの時代ならば、これは文字通りのことです。

 現在は、信仰の自由が国家によって保証されていて、迫害の危険は先ずありませんが、事柄の本質は何も変わらないのです。


○ もし、聖餐式に与ることが、何か素晴らしい特権に与ることならば、分け隔てをすべきではないでしょう。何か資格に欠けるとか、条件が整わないなどと言わない方が良いでしょう。イエスさまは、全ての人のために十字架に架けられたのですから、私たち人間の側で基準を設けて、とかく言うべきではありません。そして、一面その通りです。聖餐式に与ることは、素晴らしい特権に与ることです。神の国に入れられ、永遠の生命が与えられることなのですから。私たちは、全ての人が聖餐式に与ることを願いその日を夢見て、伝道しているのです。

 しかし、既に申しましたもう一つの側面を忘れてはなりません。私たちは生命を賭して、新しいイスラエルであろうとしているのです。特権に与る前に、先ず大きい犠牲を覚悟しなければならないのです。


○ 今度は少し話が飛躍するかも知れません。しかし、つまらない誤解が生まれないように、念のために申します。

 私たちの教会の聖餐式は、実はオープンで行っています。オープンの正しい定義に拠るならばです。オープンとは、その教会・教派を問わず、洗礼を受け、『イエスはキリストである』という信仰告白をした者には、聖餐式に加わって貰うということです。

 これは歴史的に見たならば、かなり大胆なことです。かつて洗礼の仕方、礼拝の守り方、讃美の仕方、何より聖餐式のパンと葡萄酒の理解の違いによって、教会は別れ争い、時に戦争をしました。

 しかし、今私たちは、これらの違いを捨象して、『イエスはキリストである』という信仰告白があれば、他の違いは乗り越えられると信じて、共に聖餐式に与っているのです。

 これは歴史的に見て、非常に大胆な企てであり、斬新な試みなのです。


○ 現に、ローマカトリックなどは、今日でも、プロテスタントの信者がミサに与ることを許してはいません。私はミサに出て、聖体拝領を体験したと言うプロテスタントの信者がいます。そうでしょう。しかし、許されて与ったのではありません。いわばもぐりです。いちいちカトリックの洗礼を受けているかどうか確認しないだけです。せいぜい、黙認しているだけです。


○ 話を本に戻します。

 教会とは聖餐共同体です。礼拝共同体です。

 教会を定義するのにいろんな仕方があろうかと思います。宗教法人法に基づく定義があります。玉川平安教会には玉川平安教会なりの会員の定義があります。

 しかし、そんなことよりも何よりも、共に礼拝に与る、共に聖餐に与るという定義を私たちは重要視します。共に礼拝に与り、共に聖餐に与る者が、厳密な意味での教会員です。

 それは、宗教法人法上の定義よりも日本基督教団の教憲・教規よりも、もっと確かな仕方で教会が存在すると信ずるからです。それは、キリスト教の術語で、『見えざる教会』ということです。

 地上に存在する諸教会は、その人間的な弱さ・罪により、組織上も一つとなることは大変に困難だし、多分一つにならない方が却って上手く運営・活動出来るけれども、神さまの目、神さまの物差しからしたならば、実は一つ教会なのだという大胆な信仰です。私たちは、これを信じているのです。

 そして聖餐式は、一つ玉川平安教会として守る神の食卓なのではなくて、一つ『見えざる教会』として守る神の食卓なのです。


○ 真に『見えざる教会』の信仰に立つならば、所謂オープンの聖餐式、無差別配餐という選択肢もあるかも知れません。それが究極の目標かも知れません。しかし、地上に存在する教会は、『見えざる教会』を信じ、この実現に向かう形成途上の教会です。地上に存在する教会には、具体的な戦いがあります。聖餐式とは何かということを考え、この意味を厳密にしていかなくては、教会が教会ではなくなってしまいます。それでは『見えざる教会』の理想は遠くなってしまいます。もしかしたら、私たちの教会の弱さの故に、私たちの教会の罪の故に、私たちは、聖餐式をその意義を守って行かなくてはなりません。

 そこでは、表面的には、洗礼を受けていない者を排除するのもやむを得ません。未だ聖霊を決断出来ない人が存在する、そして、それらの人も聖餐を求めているとするならば、私たちは、これらの人が洗礼を受けることをこそ、願うのです。

 諄いようですが、排除することに意図があるのではありません。誰もが共に礼拝に与る、誰もが共に聖餐に与る真の教会の形成に、意図が存在するのです。そのために私たちは伝道し、祈るのです。


○ 時間的にも無理がありますので、今日は、聖餐論の本質に触れるようなことは申しません。

 その上でのことですが、根本的疑問があります。フリーを主張する人は、何故、聖餐(式)に拘るのでしょうか。いっそ、聖餐式をしない方がよろしいのではないでしょうか。受洗、信仰告白どころか、信仰そのものをも前提としないならば、聖餐式そのものも必要ないのではないでしょうか。もしかしたら、礼拝そのものも。


○ 未受洗者も、未さえ付かない人も、みんなでということなら、愛餐会、否、昼食会で十分ではないでしょうか。何故聖餐式でなければならないのでしょうか。

 聖餐式を守る積極的理由は、24〜25節です。これだけが根拠です。

 『すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、

24:感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。

   わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。

25:また、食事の後で、杯も同じようにして、

 「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。

  飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました』

 既に申しましたように、契約なのです。十字架の契約なのです。そこに署名され捺印される契約が、聖餐式なのです。