○ 5章から、延々と倫理の問題が扱われており、しかも、その大半が結婚と性に関した事柄です。辟易とする方もあろうかと思います。こういう時には、聖書研究のように、客観的に読むのが良いと考えます。一節づつ、順に読んでまいります。 1節。 『そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい』 『そちらから書いてよこしたことについて』と言うのですから、この問題は、コリント教会員にとっては、現実的な問題であり、是非とも、使徒パウロの見解を問う必要があったと思われます。『男は女に触れない方がよい』かどうか、つまり、性的な関係・結婚は、否定されるのかどうか、です。 この問いに対して、使徒パウロは、原則的に、『男は女に触れない方がよい』と答えているのです。私たちには、異様な問答に聞こえます。パウロの答えもそうですが、そもそも、コリント教会員は、何故、こんなことを聞かなければならなかったのでしょうか。 ○ 背景には、当時の終末論が存在します。当時は、終末を、時間的にも大変に切迫したものと考えていたようです。その点では、今日の「物見の塔」なみです。もうじき、この世がお仕舞いになるのに、結婚・出産どころではありません。ただただ、この世の終わりを待つというか、見据えて、残された日々を送るということになります。 当然、このことは、結婚だけについて問題になるのではなくて、仕事のことにも当てはまります。実際に、家庭を捨てたり、職場を放棄する者が、少なくなかったと思われます。 これは歪んではいますが、宗教の魅力の一つ、最大要因かも知れません。簡単に言えば現実逃避です。宗教には確かにそういう面が否定出来ません。 ○ もう一つの事情は、コリント教会員の中に、性・結婚を忌まわしいものと考える人々が存在したということでしょう。グノーシス・ドケチズムの思想には、このような傾きがあります。その一方で、「自分たちは全き自由を与えられている」と考えて、性的なことも含めて、一切の制約、道徳・倫理からも自由であろうとした人々が存在しました。これも、グノーシスの影響下で生まれた思想ですので、話はややこしくなります。 しかし、今日の新興宗教を見ても、この矛盾する両面を合わせ持っているものは少なくありません。極端な禁欲主義と極端な奔放とは、表裏一体なのです。どちらにしろ、とにかくに、性への関心が高い、異常なまでの拘りが存在するのです。 これも歪んではいますが、宗教の魅力の一つ、大きな要因かも知れません。 ○ 使徒パウロの回答は、このような不毛な問いの中で、一定の立場を取るというものではありません。『男は女に触れない方がよい』とは、使徒パウロの禁欲主義的な立場を表明するものではありません。むしろ、これを相対化するものです。つまり、自由を叫びながら、刹那的主義快楽主義に走る者に対しては、否を言います。欲望・快楽の追求に生きることは間違いだとしています。 ○ その一方で、2〜3節と言います。 『しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、 また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。夫は妻に、その務めを果たし、 同様に妻も夫にその務めを果たしなさい』 『みだらな行いを避けるために』と言う表現は、ちょっと、抵抗を感ずる所ではありますが、要するに、使徒パウロは、常識的に結婚・家庭・そして性というものも、肯定しています。但し、これも、絶対視はしません。同じことが、8〜9節でも、繰り返し述べられています。 どちらの場合にも、結婚・家庭・そして性を、忌み嫌うことも、絶対視することも、退けられているのです。3節では特に、信仰を理由に常識的な家庭生活を犠牲にしてはならないと言われております。 まあ、ここで何もかも説明しようとするのには無理が有りますので、先に進みましょう。唯、極端・過激に見える使徒パウロの見解は、極端・過激なコリント教会の実状を反映した結果であって、使徒パウロが極端・過激な人間なのではないということを、ご承知いただきたいと思います。 ○ 4節。 『妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。 同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、 妻がそれを持っているのです』 5節。 『互いに相手を拒んではいけません』 これは、性的な関係に限定して述べているのか、それとも、夫婦関係全般を述べているのかはっきりしません。直接には、性的な関係に限定して述べられているとしても、それを、夫婦関係全般に敷衍して読むことは、間違いではないでしょう。 ここでも、信仰を理由に夫を拒む者が居たという現実が、下敷きにあったと考えられます。先週既に述べたように、夫婦は一心同体であると言う根拠から、使徒パウロは、この問題に答えています。 更に、5節、 『ただ、納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、 また一緒になるというなら話は別です』 ここでも、夫婦の関係・家庭のことこそ絶対であって、信仰生活は、家庭生活居・夫婦生活に支障がない程度にしなさいと言うような考え方をも、退けています。 つまり、信仰が絶対で、夫婦のことは二の次だという考えも、夫婦のことが絶対で、信仰は二の次だという考えも、共に退けられているのです。 ○ この点については、うんと慎重で、『納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒にな』りなさいと取られないよう、念を押しています。 6節。 『もっとも、わたしは、そうしても差し支えないと言うのであって、 そうしなさい、と命じるつもりはありません。』 要するに、使徒パウロは、信仰と夫婦生活・家庭生活が矛盾するとも考えていないし、どちらかが、他方に優先するとも考えていないのです。何より、他方を口実にして、他方を疎かにすることを許していないのです。 ○ 7〜8節では、コリント教会員全員に当てはまる事ではないけれども、パウロ自身はどのように対処するのかと言う点が述べられています。 『わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、 人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。 未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう』 祈り・伝道といった、信仰生活・宣教の業に専心することが賢明だと述べています。しかし、これは、使徒パウロの個人的な見解です。個人的な見解に過ぎないとパウロ自身が明らかに、言っています。ですから、これを論拠に、伝道者は独身でなければならないと言うのは、無理です。 ○ 家庭が有れば、どうしても気持ちが、家庭のことに割かれます。教会の事に専心することは困難になってまいります。33節にある通りです。 『結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、 34:心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、 体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、 結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います』 教会が牧師の生活を支える場合の経済的負担も大きくなります。 ローマ・カトリックの例を見ても、神父が独身であるがために教会のプラスになる点は少なくないと考えます。しかし、一方で、マイナスもあります。当然、妻帯しているプロテスタントの牧師の方のプラス面もあります。 そして、5節・9節の事もあります。『あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです』9節、『しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです』 かって、ローマ・カトリックには、神父のための慰安婦がいたと言われています。これは事実です。現在も存在すると聞きますが、これが本当かどうかは確証がありません。 ○ ローマの歴史を見ても、独身を建前とした神父の生活が、妻帯した宗教改革者の生活よりも清潔だったということはありません。明かに、逆です。日本の仏教でもそうで、妻帯が禁じられていた時代の僧侶の方が、遙かに、メチャクチャです。破戒坊主です。 もう一つ、使徒パウロは、この問題を神父・牧師に限定して語っているのではありません。もし、結婚が悪ならば、または無益なことならば、それは誰にとってもそうなのであって、人間は子孫を残すことが出来なくなります。 極端には、納得ずくで子どもを設けることを止めて、人類が滅びるのが理想だという、トルストイ的独身主義になってしまいます。 まあ、この問題は7章25節以下でも蒸し返されますので、この程度にとどめておいて良いかと思います。 ○ 10〜11節は、キリスト者である妻または夫が、キリスト者ではない夫または妻を捨ててはならないと言うことが述べられています。 『更に、既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、 主です。 11:既に別れてしまったのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい。 また、夫は妻を離縁してはいけない』 ここで、こ注目いただきたいのは、『夫のもとに帰りなさい』と記されている点です。夫を捨てて、教会の群に身を投ずると言う例があったから、このように記されているのです。これは、許されないことです。 現代の結婚離婚とは全然文脈が違います。 最初の方で、当時の教会の終末観は、今日の「物見の塔」に近いと申しましたが、共同生活を営む点では、「統一原理」や「オウム」に似ています。しかし、何れも、表面的な類似に過ぎません。何より、コリント教会の創始者であるパウロが、世俗の生活を捨てて、教会に逃げ込むようなことを容認していないのです。 ○ 12〜13節は、10〜11節とは逆のケースです。この場合も、考え方は同じで、信仰を理由に家庭生活を放棄することは許されません。 『その他の人たちに対しては、主ではなくわたしが言うのですが、 ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、 彼女を離縁してはいけない。 13:また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が 一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない』 ○ 14節は、この延長上で語られていますが、極めて重要です。 『なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、 信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです』 先週の説教で述べた通り、聖書は夫婦を一心同体と考えますから、当然このようになるのです。15〜17節にある通りです。 『しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。 こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません。 平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。 16:妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。 夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。 17:おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで 歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです』 夫婦で教会につながっているのではない人にとっては、大きな慰めとなります。しかし、この言葉を論拠に、夫婦への伝道を怠るは間違いです。まあ、申し上げるまでもないでしょう。 ○ 同じく14節、 『そうでなければ、あなたがたの子供たちは汚れていることになりますが、 実際には聖なる者です』 これも重要です。「統一原理」初め、多くの新興宗教は、性を忌み嫌い、そこから生まれる子供を罪悪視しますが、それは、聖書とは何の関係もない思想です。 ○ さて、ここでも、使徒パウロは、逆に家庭を絶対視するのではありません。15節、妻や夫の信仰を理由に、これを拒む者に対しては、去るに任せなさいと言います。信仰を捨ててまで、このような人に仕える必要はありません。そもそも、一番大切なものを共有出来ないで、一心同体とは言えません。 この辺りの所は、なかなかに、解釈が、そして、対応が難しい所ですが、個々のケースで考え対応すべきであって、原理原則のようなものはないと思います。 『結婚に縛られてはいません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです』結婚=平和な生活ではないというのは、おもしろい表現です。しかし、現実かも知れません。結婚生活も窮極の目標ではありません。結婚生活が平和な生活に結び付くことが大事なのです。同様に、独身生活が、平和な生活に結び付くならばそれでも良いのです。16節は、むしろ、次週の箇所で一緒に読んだ方が良さそうですので省略致します。 |