日本基督教団 玉川平安教会

■2019年08月18日

■説教題 「純粋で真実なもの」
■聖書 コリント一 6章12〜20節


○『「わたしには、すべてのことが許されている。」

  しかし、すべてのことが益になるわけではない。

 「わたしには、すべてのことが許されている。」

  しかし、わたしは何事にも支配されはしない』

 この言葉は、使徒パウロの倫理観を、一行に凝縮したものだと言うことが出来ます。使徒パウロの倫理観の根本、ここから派生する様々な倫理的な教え、教会生活の奨めの土台です。

 『わたしには、すべてのことが許されている』十字架の贖いによって、新しい生命に生きる者となったキリスト者には、全き自由が与えられました。最早、キリスト者の生活は、律法によって縛られるものではありません。

 『しかし、すべてのことが益になるわけではない』確かに、その通りです。無益なことをする必要はありません。そして、無益どころか、有害なこともあります。これも、する必要はないし、しない方が良いに決まっています。

 分かり易くするために、タバコに例を取りましょう。二十歳になれば、タバコを吸うことが容認されます。しかし、これはタバコが推奨されるという意味ではありません。無益と考えれば吸わない方が良いし、有害と考えれば、吸ってはならないということになります。二十歳になって青少年を規制する法律・条例から自由になった、それで、今度は習慣性のあるタバコの中毒になって、これに支配される必要はありません。


○ あまりに卑近な例だったかも知れませんが、使徒パウロの主張は、そのような意味です。律法という基準に照らして、許されるか許されないかという発想を廃棄したのです。そうではなくて、パウロの目標とすることを達成するために、このことは有益か無益か、有害か、こういう発想なのです。

 律法・法律に照らして、その行為が許されるか許されないかというものの考え方は、大変、消極的な考え方です。これに対して、目標とすることを達成するために、有益か無益か有害かとういう発想は、積極的です。使徒パウロの倫理観は、その根本に於いて、積極的倫理観なのです。イエスさまの教えも同様です。マルコ福音書3章などは、その典型的なものです。


○ イエスさまは3章4節、『安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのとどちらがよいか』と言われます。律法学者・パリサイ人に対する挑戦的な問いかけです。

 『安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのとどちらがよいか』これは、奇妙な論法で、本来なら、『安息日に善を行うのと行わないのと、命を救うのと黙って見過ごしにするのとどちらがよいか』でなければなりません。それが『安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのとどちらがよいか』という誇張した表現になっています。

 イエスさまの考えでは、「安息日に善を行う機会がありながら、それを行わないのは、悪を行うのに等しい。安息日に命を救う場面に遭遇しながら、手をこまねいて見ているのは、殺すのに等しい」からであります。


○ 目標を達成するために努力する、目的地に到達するためには、何をなすべきか、使徒パウロの倫理観は、これに尽きます。ですから、目標達成のためには、何をしない、退けるという時でも、積極的姿勢なのであって、消極的姿勢の結果ではありません。

 Tコリント9章には、使徒パウロ自身が、オリンピックのマラソンに準えて、人生のレース・信仰のレースについて語っています。


○ 私たちの信仰生活にも、目標があります。目的地があります。これに到達するために、当面の課題を果たそうと努力し、また、余計なもの、邪魔なものを退けて、節制するのです。

 また、身近な所に例を取って、考えてみたいと思います。学生らしいという表現があります。『らしい』と言う語は、差別問題の観点から、どうも目の敵にされる傾向があります。高校生・中学生が、長髪にして何が悪いか。ピアスをして何が悪いか。そんなことを規制する校則の存在の方が余程おかしい。その通りかも知れません。長髪やピアスを規制する法的根拠が存在するかと言えば、そんなものはないでしょうし、有ったら妙なものです。

 しかし、パウロ的倫理観・聖書的倫理観に準拠して考えて見ましょう。長髪やピアスは、有益か無益か、はたまた有害か。有害かどうかはともかく、有益ではないでしょう。勉強やら他に、やらなければならないことが無数にある学生にとって、服装や髪型ましてアクセサリーのことにかまけている時間はありません。ひたすらに学業に専心する。これが、本来学生らしいと言う表現の意味です。

 何か、モデルのような存在があって、どれだけそれに似ているかと言う意味で、らしいという言葉を使っていますが、それは間違いだと考えます。


○ 同様に、信仰者の場合も、クリスチャンらしいと言うのは、遠藤周作が言うような意味合いではありません。即ち、痩せて眼鏡を掛けていて、テニスと英会話が得意で、 … そんなことではなくて、信仰者らしい価値観に生きているかどうかが、問われるのです。

 クリスチャンだから何をする、クリスチャンだから何をしないという表面的なことではなくて、クリスチャンらしい目標の下に生きているかどうかが、問われるのです。そして、その目標とは、他のことではない。救われて、永遠の生命を得る、神の国に入れられる、このことだけなのです。


○ 正しい目標に向けられて初めて意味がある、正しい目標に向けられていなければ、それ自体には何の意味も無い。こういう考え方が、13節にも反映されています。

 『食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。

   体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです』

 何だか、分かり難い表現ですが、要するに、食べ物もそれによって得られる肉体の健康も、絶対のものではない。それ自体が窮極の目標ではなく、窮極の目標のために、手段として用いられるものだということでしょう。

 食べること、そして健康、これは現代人の、主要な関心事ですが、これが人生の窮極の目標と言うのでは、あまりにも寂しい気がします。何年か前、テレビのコマーシャルで、小学生に「大きくなったら何をしたい。」と聞くと、「長生き」と答えるものがありました。「長生き」が人生の目標では、あまりにも寂しい気がします。

 『健康は、一生持てば良い』と言った人がいます。『健康で死ぬ必要はない』という言葉もあります。更に、『生きることは体に悪い』と言うのも、どこかで読みました。


○ これに対して、14節、

 『神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます』

 よみがえりの体は、キリストの体に結び付くものです。例えば、ヨハネ福音書15章の『葡萄の木の譬え』を引用すればよろしいでしょうか、よみがえりの体、キリストの体、これは教会のことを指して語られています。

 15節、

 『あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか』

 これは、明らかに教会のことです。

 『キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない』

 これは、既に私たちが見てきたように、当時のコリント教会の現実です。

 つまり、ここに使徒パウロの倫理観の根拠が存在します。窮極の目標を持った共同体である教会があります。教会の一員であるということは、単にそこに籍を置いているというようなことではなくて、目的・目標、逆に言えば使命を持って働いているということです。教会の一員であるということは、教会のために働いているということです。


○ ここで、使徒パウロの倫理観は、新しい展開を生みます。16節、

 『娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。

   「二人は一体となる」と言われています』

 ここは、確かに、『わたしには、すべてのことが許されている』という最初の前提と矛盾しているように見えます。しかし、『キリストの肢体』につながる者となったからには、他の者とつながることは出来ません。それは、パウロに言わせれば、妻がありながら、他の女性と関係するようなものです。姦淫であり、偶像崇拝なのです。

 

○ 16〜18節は、あくまでも比喩です。ここでは、娼婦と交わると言う極端な譬えを用いて、教会とその純血を説いています。勿論、当時のコリントでは、教会員でありながら、娼婦と交わるという現実が有ったのでしょう。しかし、あくまでも、力点は、娼婦と交わることが許されるか、許されないかという性の倫理に存在するのではなくて、あなたは、教会に属する者か、この世に属する者かという二者択一の問題であり、教会員としてふさわしい生き方を問う、信仰の倫理の問題なのです。

 『「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが

  益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」

  しかし、わたしは何事にも支配されはしない』

 娼婦と交わることが許されるか、許されないかと問う時に、それは、律法の問題になります。そして、絶対の回答などありません。

 現代の倫理の混乱は、特に性倫理の混乱は、倫理の問題を法律の問題としてしか、認識出来ない事に起因します。


○ 17節、

 『しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです』

 法律の問題ではありません。帰属の問題なのです。

 18節、

 『みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。

   しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです』

 ここは、表面的に見れば、マルコ7章のイエスさまの言葉と矛盾します。

 つまり、20〜23節、

 『更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。

  21:中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。

  みだらな行い、盗み、殺意、

  22:姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、

   23:これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」』

 しかし、矛盾は表面的なもので、本質は一致しています。つまり、罪とは、法律に違反することではなくて、悪いものに惹かれて行くことであり、悪いものに魂を奪われることなのです。


○ 19節、

 『知らないのですか。あなたがたの体は、

  神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、

   あなたがたはもはや自分自身のものではないのです』

 この箇所こそ、帰属ということを考えなければ、全ては許される、自由だという前提と全く矛盾します。

 この辺りのことを、分かり易く説明することは大変困難です。使徒パウロが比喩的に語っているものを、更に別の比喩で語ることは適切ではありません。パウロが語っているように、結婚のこと、性的な関係のことで類推するしかないでしょう。

 最近は、人を愛するということは、全く独立した人格と人格との出会いであって、男女は全く同権であり、かつ、一方がもう一方を所有することではないというふうに言われます。『独立した人格と人格との出会い』が強調されるあまり、夫婦は他人であるかのように考えられてしまいます。互いに独立しているから、同権・平等だという考え方です。このような思想だと、勿論、名前も別の方が良いでしょう。しかし、聖書は、夫婦は一心同体であり、一心同体だから、同権・平等だという考え方です。

 一方がもう一方を所有することを否定するのではなくて、互いが互いを所有するというのが、聖書の思想です。


○ 19節、

 『知らないのですか。あなたがたの体は、

  神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、

  あなたがたはもはや自分自身のものではないのです』

 しかも、20節、

 『あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。

  だから、自分の体で神の栄光を現しなさい』

 キリスト者の自由とは、死と死の恐怖の奴隷である状態から、イエスさまの十字架によって、贖い取られたことであって、いわば、イエスさまがお金を払って買い取ったようなものです。しかも、奴隷とはしないで、妻に迎えてくれたのです。そのような夫に向かって、私は自由になったのだから、他の男を愛する自由もある筈だと言っている、それがコリント教会の現実です。

 正に、ホセアの妻、ゴメルと同じです。ゴメルとは、無価値な者という意味です。私たちは、ゴメルになってはならなりません。イエスさまにふさわしい者とならなければならなりません。これは、律法ではありません。そうではなくて、自分が何者であるかという帰属の問題であり、かつ、神への愛の問題です。

 キリスト者らしい、教会員らしいということを、大事にしたいと考えます。