○ 今日の箇所の3節後半から、私たちが信じる福音の内容が、実に簡潔に凝縮した形で記されています。簡潔に凝縮した形で記されているとは、言い換えれば、信仰告白・信条に似通っているということです。そうしますと、此処で私たちは、最も古い、初代教会に於ける信仰告白を、読み取ることが可能になります。パウロ書簡中に、何ヶ所か同様の信仰告白が収録されていますが、最も、古い、最も素朴な信仰告白の一つが、この箇所と言えますでしょう。その点でも、極めて重要な箇所です。 ○ ところで、その内容に目を向けますと、既に申しましたように、実に簡潔・素朴です。5節以下は派生的なこと、説明的な部分ですから、真の内容は、3節後半から4節までの、たった3行です。 『キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、 4:葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、 5:ケファに現れ、その後十二人に現れたことです』 これが内容の全てです。ここから更に、『聖書に書いてあるとおり』という説明を取り除いたら、残るのは、 『わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目によみがえったこと』 たった1行の内容になってしまいます。これは、もう、解釈の余地も何もない、ずばり、福音のエッセンスです。 逆に言えば、これと異なる教えは、福音ではなく、異端思想です。 ○ そして、この時代に既に、異なる教え=異端思想が、教会に入り込んでいました。 『わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目によみがえったこと』 こんな簡潔な福音の内容理解を巡って、既に異端が生まれていたのです。 1節をご覧下さい。 『兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。 これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません』 何度も申しますが、 『わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目によみがえったこと』 こんな簡潔な福音はありません。しかも、使徒パウロが直接に伝えた福音です。しかし、コリントの人々は、これを曲げて解釈するようになりました。 ○ しばしば、聖書は難しい、一般の人には容易に理解出来ないと言われます。それ以上に、説教について、難しいという批判を受けます。イエスさまの単純で分かり易い福音を、牧師がこねくり回して難解なものにし、一般の人から、神の御言葉を奪っているという批判さえ聞きます。もしかしたらその通りかも知れません。 イエスさまの譬え話が単純で分かり易いとは、私には到底賛成出来ない見解ですが、まあ、百歩も万歩も譲って、では、一般大衆は、その単純で分かり易い譬え話を聞いて、イエスさまを信じたでしょうか。信じませんでした。 そもそも、イエスさまも、バプテスマのヨハネも、『悔い改めて、神の国を受け入れなさい』という、より単純な教えを持って、人々の前に登場しました。しかし、人々は、決してこれを受け入れませんでした。そのことは聖書にはっきりと記されています。 ○ 福音を単純ではないものにしてしまったのは、使徒パウロの責任ではありません。むしろ、当時の教会員がそうさせたのです。素直に、福音を受け止めず、いろいろと異論を差し挟み、自分の考えを教会に押しつけようとし、何よりも、自分の不信仰を悔い改めずに、何とか正当化しようとして、理屈を捏ねたり、開き直ったりした結果なのです。 そして、この図式は現代にも、そのまま当てはまると思います。聖書の教えを単純ではないものにしてしまったのは、必ずしも、パウロの責任でも、牧師の責任でもありません。 むしろ、人間の思惑がそうさせるのではないでしょうか。素直に、御言葉を受け止めず、いろいろと異論を差し挟み、自分の考えを教会に押しつけようとし、何より、自分の不信仰を悔い改めずに、何とか正当化しようとして、理屈を捏ねたり、開き直ったりした結果なのです。 ○ 使徒パウロが既にして、 『兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音を、思い起してもらいたい』 と言わなければなりませんでした。このことも、全く、現代の教会に当てはまります。現代の教会が再生するために必要としているのは、決して新しい教え、新しい神学ではありません。まして、新しい政治的な姿勢、イデオロギーではありません。正に、使徒パウロが説いた単純な福音だと思います。 Tヨハネ1章1節、 『初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、 よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について』 同じく、7節、 『しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、 互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます』 そして、Tヨハネ1章8節、 『自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません』 聖書よりも新しい福音などは、存在しないのです。 ○ コリント15章2節。 『どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、 あなたがたはこの福音によって救われます。 さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう』 『信じたことが無駄になってしまう』は、口語訳聖書では、『いたずらに信じないで』となっています。 原文を直訳すれば、『無駄に信じないで』です。ちょっと解釈に困るところです。私は口語訳の解釈が正しいのではないかと思っています。つまり、『異なる教え、新しい教えを、やたらに信じないで』、そういう意味に取ります。この方が、文脈に沿うように考えます。 『無駄になってしまう』と取れば、古い福音と新しい福音とは両立しないのだから、あなた方が古いと考えている福音の方は、全く要らないことになり、結局は、以前の信仰生活は全く無駄になってしまう、このくらいの意味になります。 『しっかり覚えていれば』の部分は、口語訳聖書では、 『わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば』です。 原文は口語訳に近いのですが、ここは、新共同訳聖書の方が分かり易いように思います。『固く守る』でも、『覚えている』でも、強調していることは、真の福音を捨ててしまわないということにあります。 ○ さて、単純なことが大事だと言いながら、だんだん細かいことに触れ、話が難しくなって来たかも知れません。どうしてもそうなってしまいます。従来の福音に反対する人がいるから、論拠を上げて注釈し、反駁しなければならなくなって来ます。 使徒パウロの神学の難しさは、そういう難しさなのです。パウロの哲学趣味の結果なのではありません。 ○ さて、もう少し、2節に拘ります。口語訳で読みます。 『もしあなたがたが、いたずらに信じないで、 わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、 この福音によって救われるのである』 『わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を』とは、また、『パウロが受けた通りの言葉を』という意味にもなります。一コリント11章23節を思い出していただきたいと思います。聖餐式の度に読まれる、主の晩餐の制定の言葉です。 『わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです』 パウロは勿論最後の晩餐の席に居合わせませんから、主から受けたこととは、弟子たちの伝承、教会の伝承に属することです。 一コリント15章3節、 『最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです』 これは、そのような意味です。 パウロの発明品ではありません。 更に、これも既に学んだ一コリント4章6節を引用します。 『兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、 このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、 「書かれているもの以上に出ない」ことを学ぶためであり、 だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、 高ぶることがないようにするためです』 「書かれているもの以上に出ない」新共同訳では『しるされている定めを越えない』となっています。 コリントだけでも、他に無数に引用することが可能です。パウロは、繰り返し、福音が忠実に伝承されなければならないことを、強調しています。付け加えられたり、引かれたり、脚色されたりしてはならないのです。 ○ 3節、4節で、『聖書に書いてあるとおり』と繰り返されていることも、見逃してはなりません。この場合の聖書とは、主に預言書のことです。 ちょっとややこしい話になりますが、なるべく簡単に申しましょう。この時代未だ、新約聖書は勿論、今日の旧約聖書も存在していません。旧約聖書の諸書は既に記されていますが、今日の形に編集されて行くのは、もっと後の時代のことです。これは、ユダヤ教にも、キリスト教にも当てはまります。ユダヤ教による聖書の編集は、この時よりもちょっと後、紀元72年のエルサレム陥落直後から始まります。完成を見るのは、300年程も後のことです。キリスト教による旧約聖書の編集も、ほぼ同時代です。 つまり、『聖書に書いてあるとおり』と繰り返されているのですが、そんなに明瞭な形で、キリスト預言が存在したのではありません。少なくとも、ユダヤ教は、これをキリスト預言とは解釈しません。 ○『聖書に書いてあるとおり』ということ自体が、当時の教会の解釈、信仰に基づくものなのです。 聖書がなければ教会は有り得ないのですが、同時に、教会がなければ聖書は有り得ません。歴史的にも信仰的にもそうなのです。 こういう言い方も出来ます。教会を無視した聖書解釈は正しい聖書解釈ではないし、聖書を無視した教会は、教会ではありません。教会を、福音と置き換えても結構です。聖書がなければ福音は有り得ないのですが、同時に、福音がなければ聖書は有り得ません。歴史的にも信仰的にもそうなのです。 こういう言い方も出来ます。福音を無視した聖書解釈は正しい聖書解釈ではないし、聖書を無視した福音は、福音ではありません。教会・聖書・福音どのように並べ替えても、この論理は成り立ちます。 結論として、『聖書に書いてあるとおり』とは、『教会が伝承して来たとおり』と同じことです。 ○ さて、コリント書に描かれるように、教会の中から、福音を歪め、異なる福音を説く者が現れては、真の福音を脅かして来たのですが、同時に、正しい福音を担い続けてきたのもまた、教会です。これは、宗教改革以前のローマ・カトリック教会についてさえ当てはまるのです。 ○ 最後に、8節をご覧下さい。 『あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、 勝手に王様になっています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。 そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから』 これは、その前に記された復活顕現の証言とは大分意味が違います。時間を厳密にしてみます。十字架、復活、昇天、それからペンテコステです。この時点で、復活の主は既に天に昇っています。ペンテコステの出来ことによって教会が形成され、同時に宣教活動が始まります。昇天から後のことは使徒言行録に記されている通りです。そして、パウロが登場するのは、ステパノの殉教の記事からです。つまり、パウロが復活の主に出会っている筈はありません。そして、その事情は、コリント教会員にも周知のことです。 『そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである』 これは、目撃証言のことではあり得ません。 そうではなくて、パウロも復活の証言者、=福音の伝承者たる宣教者・信仰者に連なる者であることを言っています。そして、これは、今日の私たちについても、全く当てはまります。 私たちは信仰の故に、このように言うことが出来ます。 『そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。』 単純と言えば単純なこと、たった3行の福音、しかし、逆に言えば福音のエッセンスを私たちも守り続け、宣べ伝得続けてまいりたいと思います。 |