○ 松江北堀教会の会員から、こんな話を聞いたことがあります。 その人の知り合いがアメリカの教会で礼拝に出席した時のこと、説教が始まって牧師が講壇に立ちました。聖書を開き、ゆっくりと会衆を見回し、一言、「神は愛なり」と叫び、そして講壇から下りてしまったというのです。「神は愛なり」それが説教の全てであったというのです。 何だかマークトゥエイン辺りにありそうな話で、信憑性は、はなはだ怪しいと思います。 聖書のどの箇所で、「神は愛なり」と説教をしたのかは聞きませんでした。ヨハネ福音書の3章16節でしょうか。ヨハネの第1の手紙の、同じ、3章16節でしょうか。 ヨハネ福音書の3章16節。 『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである』 ヨハネの第1の手紙3章16節。 『イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。 そのことによって、わたしたちは愛を知りました。 だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです』 ヨハネの第1の手紙4章16節の方がよりストレートでしょうか。 『わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。 愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます』 ○ 今日のコリント人への第1の手紙13章こそ、「神は愛なり」と言う説教をするのに、最もふさわしい箇所かも知れません。 その一方で、「神は愛なり」と言う説教は、聖書のどの箇所についても当てはまります。毎週、どの箇所であっても、「神は愛なり」です。どこを切っても金太郎飴と、昔は言いました。聖書は、どこを切っても、十字架とそして愛です。 どの箇所でも同じような説教になってしまうとしたら、マンネリと批判されるかも知れません。しかし、マンネリだろうが何だろうが、聖書は「神は愛なり」です。十字架の愛に触れない説教は、少なくともそれを下敷きにしない説教は、あり得ません。 ○ 聖書の中には、繰り返し礼拝で読まれる箇所があります。クリスマスの箇所は極めつけでしょう。マタイとルの1〜2章は、どなたも何度となく聞いておられると思います。 しかし、クリスマスの箇所に負けないくらい頻度高く読まれるのは、詩篇23編と、今日のコリント人への第1の手紙13章です。 何故かと申しますと、先ず結婚式、殆どの場合この箇所を読みます。そして意外に思われるかも知れませんが、この箇所は、葬儀でも取り上げられます。 結婚式・葬儀式に於ける説教は、約めて言えば、「神は愛なり」これにつきるかも知れません。 ○ 玉川教会のある教会員が、この箇所を葬儀の説教箇所として遺言して、亡くなりました。自分が一人の信仰者として最も愛し、そしてそれ故に、どうしても家族に残したい聖書の箇所が、コリント人への第1の手紙13章だったのです。 この方については、遺言通りに、この聖書に基づいて、葬儀を執り行い、説教をしました。 仏式では、葬儀の後、皆でご飯をいただきます。亡くなった人との最後の食事という意味でしょう。法事でも、飲食を摂ります。牧師の中には、これを嫌う人があります。しかし、私は、仏教の信仰が背景にあったとしても、麗しい習慣だと思います。 亡くなった人、愛する人が大好きだった食べ物・飲み物を、故人を偲びながら、一緒にいただく、私は大いに結構なことだと思います。秋田県人だからでしょうか。 遺影に向かって、杯を見せびらかし、「悔しかったら、出て来てみろ」などと乱暴なことを言う人があります。それも、私は端的な愛情の表れだと思います。反感なんて持ちません。むしろ、好感を持ちます。 ただし、キリスト者が皆で摂る食事は、必ずしも飲食のことではありません。御言葉の糧、聖書の言葉です。 儀礼的に法事を守り、飲食を摂るならだけば、止めた方が良いと思います。 ごく親しい、本当になくなった人に対する強い思いがある者だけで、食卓を囲んだ方が良いでしょう。 ○ 家族とは、毎日一緒に食卓を囲む者同士、一昔前までは、家族を簡単に定義することが出来ました。今は、とても無理です。家族だからといって、食卓を毎日一緒にする訳ではありません。では何が家族なのか、とても定義が難しくなっています。 そもそも、家族という制度、概念も崩壊し始めています。 しかし、教会では、この定義が未だに生きています。なぜならば、教会という神の家族は、一緒に食卓を囲むからです。毎日ではありません。毎日曜日、主の日に、御言葉の糧を一緒にいただきます。それが、神の家族です。この定義は、2000年間変わりません。今後も変わることはないでしょうし、変わってはなりません。 共に御言葉をいただくことこそが、神の家族であり、そして愛の実践です。 ○ 前置きが長くなりましたが、順に読んでまいります。 1〜3節。コリント教会を分裂させた巡回説教者たち、彼等の中には預言する力を持つ者がありました。 『人々の異言、天使たちの異言』『あらゆる神秘とあらゆる知識』と表現されるような、哲学・思想を持つものがいました。しかし、それらの哲学・思想は、使徒パウロに言わせれば、『騒がしいどら、やかましいシンバル』に過ぎません。 そこに愛が無いからです。愛が無ければ、『人々の異言、天使たちの異言』『あらゆる神秘とあらゆる知識』も『あらゆる神秘とあらゆる知識』も、『騒がしいどら、やかましいシンバル』に過ぎないと、使徒パウロが断定するのです。 愛がない『言葉』、 愛がない『知識』が、コリント教会に分裂をもたらしたからです。 『騒がしいどら、やかましいシンバル』と批判されているのは、愛が無い『言葉』、 愛が無い『知識』だけではありません。『山を移すほどの完全な信仰』でさえも、『もし愛がなければ』『無に等しい』と使徒パウロは言い切っています。 全財産を施す慈善も自分の体を焼くような自己犠牲も同様です。 ○ 4〜7節。ここには、愛と言うものの具体的な有り様が述べられています。これ全て、対人間関係について言っています。極めて具体的な、対人間関係に於ける心の持ちようが述べられています。 ここでもごく単純化して読むならば、教会を形成するものは愛であり、愛は観念的なものではなくて、具体的なもの、対人間関係で表に現れて来るものであると述べているのです。 因みに、十戒を思い出して下さい。 (1) 神以外のものを神としない、(2) 神の名をみだりに呼ばない、(3) 安息日を覚えて聖とすること、この三つが神と人間との関係に触れられ、戒められています。後半の7つは、(4) 父母を敬え、(5) 殺すな、(6) 姦淫するな、(7) 盗むな、(8) 偽証するな、(9) 他人の妻を恋慕するな、(10) 他人の物を貪るな、何れも人間と人間との関係についての戒めです。 詰まるところは、十戒とは全て愛についての戒めなのです。 この十戒は、マルコ福音書12章で、二つにまとめられています。 『「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、 わたしたちの神である主は、唯一の主である。 30:心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、 あなたの神である主を愛しなさい。』 31:第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』 この二つにまさる掟はほかにない。」』 一コリント13章の愛の教えもまた、要約すれば、『あなたの神である主を愛しなさい』と『隣人を自分のように愛しなさい』この二つにつきます。どちらか一つではありません。 ○ 8〜13節。ここは、少しつづ読みます。 8節。『愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう』 コリント書で言われる預言・異言は、旧約聖書の預言書と同列に論ずることは出来ません。その実体も、パウロ書簡や精々使徒行伝に記されている事から窺い知るより術はありません。ごく大雑把に言えば、信仰的な恍惚状態のようなものだったようです。 当時の教会員は、これを信仰的な美徳に数えました。パウロはこれを全く否定しているとは言えません。しかし、少なくとも冷淡です。理由は、もしそれが信仰的に高められた境地だったとしても、あまりに個人的な体験、個人的な能力であって、普遍性を持たないからです。 個人的な体験、個人的な能力であって、普遍性を持たない預言・異言は、パウロにとってあまり価値の無いものなのです。問題は、それが教会を形成することにつながるかどうかです。 預言・異言と反対の極にあるものが愛です。これこそが、教会を形成する業・力なのです。 預言を語る能力があったとしても、威厳を語る知識があったとしても、それが他の人に伝わらない者ならば、独りよがりです。問題は普遍性を持たないことです。普遍性を持たない信仰や愛は、とても危険です。それは信仰や愛と呼ぶには、ふさわしくありません。 ○ 9〜10節。 『わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 10:完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう』 この言葉も、直接的には預言・異言、そして遡って、『言葉』『知識』について語っています。いつもの論法がここでも繰り返されているのです。 預言・異言、そして『言葉』『知識』、人々が絶対的な価値を置くものを使徒パウロは、相対化します。それらは決して絶対的なものではなく、究極のものは他にある、究極のものは愛である、こう言うのです。 ○ 11節から12節も全く同じです。 『幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、 幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。 12:わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。 だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。 わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、 はっきり知られているようにはっきり知ることになる。』 ここでは人々が絶対と考えるものを相対化すると同時に、極めて逆説的と申しますか、むしろ皮肉を述べています。 つまり、預言・異言、そして『言葉』『知識』、人々が絶対的な価値を置くものを、同時に、高度に信仰的だと考えるものを、幼な子のもの、まあ飾らない言葉で言えば、次元の低いものだとしているのです。 ○ 究極の目的地であると人々が考えるものを、目的・手段・通り道に過ぎないとし、目的・手段・通り道に過ぎないと人々が考えるものを、究極の目的地であるとし、パウロに於いては、この二つがしばしば逆転しているように見えます。愛は、パウロに於いては、究極の目的地であり、目的・手段ではありません。イエスさまも同じでしょう。 ○ 最後に13節。 『それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。 その中で最も大いなるものは、愛である。』 信仰と希望と愛と、この三つを、信仰の3大要素のように考えるならば間違いです。三つのものは、互いに不可分離的です。 論拠としてはこの箇所を挙げれば充分と思います。ローマ5章3〜5節。 『なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬たちを生み出し、錬たちは希望を 生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることは ない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたし たちの心に注がれているからである。』 真の信仰は、私たちに真の希望を与え、そして、信仰と希望に生きる者が、他の人に不寛容である筈が無いのです。神は必ず正しい裁きをなさり、苦しみに報いて下さるのですから、他人の罪を暴き立てないでは止まない、自分の正しさを証明しなくてはならない。自分の手で裁きを行わないと気が済まないと言うのでは、忍耐も・練たちも・希望も、そして信仰も無いのです。『聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている』ならば、人は、信仰と希望と愛に生きることが出来るのです。 そして教会生活に於いて、それらは問われるし、実践されるのです。 ○ 玉川教会の教会員であったMTさんは、愛の人であり、愛をもって、教会に仕えた人でした。これが一番尊いことです。その愛の人であるMTさんは、当然ながら家族を愛し、家族に、聖書の言葉を遺しました。それが、一コリント13章1〜13節です。 私たちもまた、愛する家族にどんな言葉を遺すのか、遺すことが出来るのか、真剣に考えていただきたいと思うのです。 ○ 今日は日本基督教団が定めた平和聖日です。 世界平和を実現するのは、十字架の愛、のみ。Tコリント13章を愛する教会員が増えることこそが、十字架の愛の言葉を遺すことこそが、平和への道だと信じます。 |