日本基督教団 玉川平安教会

■2019年12月15日

■説教題 「義の太陽が昇る」
■聖書  マラキ書 3章19〜24節


▼先週の週報をご覧になって、予告されていたマラキ書がどこにあるのか探すのが大変だったのではないでしょうか。旧約聖書の巻末だということを知っていれば探せるのですが、そうでないと、開くことはなかなか難しいでしょう。

 私も、牧師として40年以上説教壇に立っていますが、礼拝説教でマラキ書を読むのは、多分2度目です。あまり記憶にありません。

 そこで、ちょっとお勉強染みますが、マラキ書とは何か、どういうことが記されているのかということを、概観する程度のことは、どうしても必要であると考えます。

 なるべく端折って簡単に致します。


▼そもマラキ書という名前です。3章の1節に、『見よ、わたしは使者を送る』とあります。この、『わたしの使者』という言葉がマラキです。この預言書がマラキ書と呼ばれるようになった所以だそうです。

 つまり、マラキとは、イザヤやエレミヤのような個人の人名ではないということです。

 その割には、マラキ書が記された年代は、ほぼ特定することが出来ます。マラキ書の中の記述と、同時代の他の預言書との比較から分かります。

 学説によりますと、紀元前460年〜450年です。


▼この時代の最大の特徴は、エルサレム神殿再建事業です。

 エズラ書やネヘミヤ書に記されているように、困難な、多大な犠牲を伴うエルサレム神殿再建事業を、ユダヤ人たちはなんとか成し遂げました。

 しかし、その後が大変なのです。

 全ての期待、全ての思いが、神殿再建に集中しました。そうでなければ成し遂げることの出来ない難事業です。その難事業が完成した時に、今日で言えば燃え尽き症候群ですか、そのような思いに捕らわれたのです。目標喪失です。

 また、全ての力、全ての思いを込めたのに、神殿が再建されたのに、日々の生活も政治的な状況も、経済も少しも良くならないという、冷たく厳しい事実に直面したのです。


▼このことと全く重なるのですが、人々が待ち望んでいた救いの日、主の日は、到来しそうにもありません。

 神殿再建によって、その日は来ると信じていたのにです。

 大事業を達成したのに、彼らは無力感に捕まえられてしまったのです。


▼2章17節をご覧下さい。

 『あなたたちは、自分の語る言葉によって/主を疲れさせている。

   それなのに、あなたたちは言う/どのように疲れさせたのですか、と。

   あなたたちが/悪を行う者はすべて、主の目に良しとされるとか/

   主は彼らを喜ばれるとか/裁きの神はどこにおられるのか、などと

   /言うことによってである』

 これは、人々の問であり、また、マラキの問でもありました。

 人々の問は、問と言うよりも、つぶやきです。このつぶやきが、『主を疲れさせ』るという、極めて興味深い言葉で表現されています。

 口語訳ですと、『あなたがたは言葉をもって、主を煩わせた』です。


▼一方マラキは、単につぶやきを言うのではなくて、何故、という問を、より本質的なところに、求めていきます。自分たちの信仰の姿勢を振り返ります。

 そのことが、マラキ書全体に散りばめられています。

 僅か3章の、短い預言ですので、全体を概観しながら、関連する箇所を見てまいります。


▼先ず、1章の7〜8節

 『あなたたちは、わたしの祭壇に/汚れたパンをささげておきながら

   /我々はどのようにして/あなたを汚しましたか、と言う。

   しかも、あなたたちは/主の食卓は軽んじられてもよい、と言う。

 8:あなたたちが目のつぶれた動物を/いけにえとしてささげても、

   悪ではないのか。足が傷ついたり、病気である動物をささげても/

   悪ではないのか。それを総督に献上してみよ。彼はあなたを喜び、

   受け入れるだろうかと/万軍の主は言われる』

 かなりきつい指摘内容ではありますが、説得力があります。この通りではないでしょうか。

 つぶやきを言うあなた方は、本当に真心から、主に仕え、礼拝を大事にし、精一杯献げたのかということが問われているのです。

 そうではないのに、主は私の願いを叶えてはくれない、信仰しても、日々の暮らしは好転しない、そう言って、『言葉をもって、主を煩わせた』のではないかと、告発されているのです。


▼次は2章8〜9節を読みましょう。これは、5〜7節を前提としていますが、ここだけでも、何とか意味は分かります。

 『だが、あなたたちは道を踏みはずし/教えによって多くの人をつまずかせ

   /レビとの契約を破棄してしまったと/万軍の主は言われる。

 9:わたしも、あなたたちを/民のすべてに軽んじられる価値なき者とした。

   あなたたちがわたしの道を守らず/人を偏り見つつ教えたからだ』

 非常に厳しい言葉で、祭司たちが、本来の努めを怠り、それどころか、『人を偏り見つつ教えた』と弾劾されています。

 特に、9節の『わたしの道を守らず』、これは、現代と教会とも、否、およそ教会の歴史を通じての一大事です。

 聖書と教会に聞かず、勝手に、自分に都合の良いことを行っています。しかし、祭司たちを守ってくれる王侯貴族や軍人に対しては、彼らに阿って、言うべきことも言えません。


▼2章11節をご覧下さい。

 『ユダは裏切り/イスラエルとエルサレムでは/忌まわしいことが行われている。

   まことに、ユダは主が慈しんでおられる聖なるものを汚し、

   異教の神を信じる娘をめとっている』

 ここは、抵抗を感じるところかも知れません。

 しかし、肝心なことは、国際結婚の禁止とかということではありません。そうではなくて、『異教の神を信じる娘をめと』るのは、信仰よりも、他のものが大事だからです。もしかすると、大恋愛なのかも知れませんが、ここで言いたいのは、そういうことではなくて、異教の神を信じる娘をめとることは、政治的経済的に大きな利益を求めたのではないかというです。

 こういうことは、現代の日本でもあるかも知れません。出世のために、意に染まない結婚をし、悲惨な結末を迎えた例を、私は実際に身近なところで知っています。まあプライバシーに関わりますから、内容は申しません。

 ここでも、信仰よりももっと大事なものがあると考え、その価値観に基づいて行動したくせに、ことが上手く行かなくなると、神さまのせいにしてつぶやきを言う、そういった現実が批判されています。


▼15節の後半から、16節前半。これこそ、大きな抵抗なしには読めないかも知れませんが、お読み下さい。

 『あなたたちは、自分の霊に気をつけるがよい。

  あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。

 16:わたしは離婚を憎むと/イスラエルの神、主は言われる』

 ここも、時代背景の違いが大きいので、離婚絶対否定ということとは違います。『若いときの妻を裏切ってはならない』なのです。『夫を裏切ってはならない』とは記されていません。

 夫が身勝手に妻を捨てて、他の女を娶る時代の話です。そのような理不尽を否定しています。ここは、離婚の否定と言うよりも、性的な倫理の確立のことを言っています。

 何よりも、『自分の霊に気をつけるがよい』

 霊性に基づいた、清く正しい生活のことを言っています。

 逆に言いますと、信仰的・霊的に乱れた人は、性倫理に於いても乱れるのです。これは、離婚云々よりも、そう言う点で、現代にも通ずる戒めです。


▼3章に入り、14〜15節、特に、18節に、マラキ書の主題が顕著に現れています。

 『そのとき、あなたたちはもう一度/正しい人と神に逆らう人/

   神に仕える者と仕えない者との/区別を見るであろう』

 神殿再建によって、その日は来ると信じていたのに、大事業を達成したのに、無力感に捕まえられてしまったと申しました。

 言い換えると、神殿再建のために多大な犠牲を払おうとも、そうでなかろうとも、その間に違いは無かったということです。どっちでも同じ、これが、無力感の原因です。

 更に、別の言い方をすれば、『正しい人と神に逆らう人/神に仕える者と仕えない者との』違いはないと思われたのです。

 これが、不信仰を産み、そして倫理的退廃を生むのです。

 マラキ書は、そのような無力感そしてその根底にある不信仰に否を言います。

 『正しい人と神に逆らう人/神に仕える者と仕えない者との』間には、大きな違いが、絶対の区別が存在するとマラキは言います。


▼20節をご覧下さい。

 『しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。

   その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る』

 神『を畏れ敬う』者には、救いがあります。主の日、終わりの日にも、彼らは滅びることがありません。それどころか、その日は、彼らの救いの日となるのです。

 何故なら、彼らは、その信仰の故に、義と認められるからです。

 『義の太陽が昇る』、救い主キリストが、このように呼ばれています。

 私たちが忘れている事柄です。神さまの愛、神さまの優しさ、寛容、そういうところにばかり目が行って、神の本質が義だということを忘れています。

 愛の神は、どんな人をも分け隔てなく、赦し、癒やして下さるのかも知れません。しかし、義の神は、どんな人をも赦し、癒やされるのでしょうか。罪を、見逃してしまわれるのでしょうか。そんなことはありません。


▼21節。

 『わたしが備えているその日に/あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。

   彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる』

 裁きの日は、救いの日であり、救いの日は、裁きの日です。


▼23〜24節。

 『見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/

  預言者エリヤをあなたたちに遣わす。

 24:彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。

  わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように』

 主の日が来るならば、人はその罪の故に、刑罰を免れ得ません。多くの人々にとって、主の日は、大いなる恐るべきとなるでしょう。

 しかしと申しましょうか、それ故にと申しましょうか、預言者エリヤが遣わされて、人々に悔い改めを迫るのです。

 厳しい裁きの言葉だけが、救いの言葉なのです。厳しい裁きの言葉に危機従うことだけが、救いへの道なのです。


▼今日はアドベント第3主日の礼拝です。クリスマス。それは、預言者エリヤをも受け容れなかったユダヤ人、そして、多くの人々に、最後の最後に遣わされた神の子の誕生の時です。

 クリスマスが救いの時なのか、裁きの時なのか、それが問題です。

 3章2〜3節。

 『だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。

   彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。

  3:彼は精錬する者、銀を清める者として座し/レビの子らを清め/

   金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に献げ物を/

   正しくささげる者となるためである』

 私たちは、正しい礼拝を献げ、正しい姿勢で、主の御言葉なる聖書に向かい合うのです。

 その時に、3章4節。

 『そのとき、ユダとエルサレムの献げ物は/遠い昔の日々に/

   過ぎ去った年月にそうであったように/主にとって好ましいものとなる』


▼クリスマスを心から祝うことが出来るのは、正直な生活をし、神と人とに仕えた者に許されることです。悪事を行い、貧しい弱い人々を苦しめた者には、クリスマス、新しい王の誕生は、少しも喜ばしいことではありません。むしろ、刑罰に怯える出来事です。

 単純に、サンタクロースのプレゼントを待つ、子どものようなものです。

 勿論、クリスマスの意味を反映して、サンタクロースのプレゼントになったものだと思います。