○ レイ・ブラッドベリに、『華氏451度』という小説があります。本・印刷物が禁止された時代を舞台にする近未来SF小説です。 主人公はファイヤーマン、但し、火を消す消防士ではなく、禁止された書物を摘発し焼く、文字通りのファイヤーマン、焚書官です。私は小説よりも先に映画で見ました。どうも記憶がゴッチャになっております。正確さは欠きますが、記憶に基づいてお話しします。 焚書官のガイは、どんなに厳しく取り締まっても、重い刑罰を与えても一向になくならない犯罪に、根本的な疑問を抱くようになり、怪しい興味を覚えます。麻薬取締官が麻薬に手を出すように、ガイは押収した一冊の本を隠し持ちます。これがきっかけで、彼は、本に魅せられ、本を読む秘密の結社を知ることになります。 映画にしかない場面ですが、秘密の集会に参加しますと、そこにはシェークスピアと呼ばれる老人がいます。彼はシェークスピアの全作品を頭の中に記憶しています。リア王もいます。彼は『リア王』だけを記憶しています。他にもいろいろと作品名を名前にした人間がそこに集まっています。 ○ 映画では、この場面で、ディケンズの『大いなる遺産』が朗読、否、暗唱されていました。私は当時、熱烈なディケンズフアンでしたから、『大いなる遺産』の一場面だと直ぐに分かりました。この調子で、あらゆる名作の名前を名乗り、その本の記憶を頭の中に持つ人々が、秘密の結社を作っているのです。 譬えとしてブラッドベリの小説を紹介しましたが、私たちキリスト者は、この小説に登場する『リア王』や『大いなる遺産』と同様の存在なのです。初代教会は、全く『華氏451度』の世界であって、キリスト者は例えばローマの地下墳墓に集い、口移しに、福音書やパウロの書簡を、他の信仰者に伝えました。口伝伝承です。これが後に本にまとめられたのが、聖書です。 正しく御言葉を聞き、一字一句も違えることなく、次の者に口伝えに渡していくのが、キリスト者だったのです。 ○ 今日、キリスト教信仰が禁止されることも、聖書が焚書に遇うこともありません。ですから、一字一句間違えないように記憶する必要は、もはやありません。しかし、正しく、寸毫も間違えず、福音を伝えることは、今日でも、キリスト者の、そして教会の使命なのです。 ○ 1節。 『こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、 神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです』 『神の秘められた計画』、口語訳では『奥義』と翻訳されています。 『奥義』、ギリシャ語の単語が二つ組合わさっていまして、奥義という一つの単語ではありません。つまり、奥義の奥と義が別々の単語であり、二つで、熟語をなしています。 『秘められた』に当たる語は、ギリシャ語のミュステリオンという字です。ミステリー小説のミステリーの語源です。更に語源を辿るならば、「口を閉じる」という動詞、ミュエインになるそうです。つまり、ミュステリオン『秘められた』とは、第一義的に口を閉じる=『沈黙』を意味します。 意外に思われる方が多いと思います。奥義とは、福音の神髄であり、即ち、宣教=福音を宣べ伝える時の根本思想のことではなかったのでしょうか。宣べ伝えられるべき福音の奥義が、『沈黙』という意味を持っているとは、何とも、逆説的です。 ○ ミュステリオンはまた、ローマ・カソリックのミサの語源でもあります。私たちの聖餐式も、間違いなくミサであり、ミュステリオン=秘密=沈黙の儀式なのです。 勿論、プロテスタント教会に於いては、説教、「神の言葉の解き証し」と一緒になって、ミュステリオンとしての聖餐式が存在するのであって、隠されたままで、自己目的的に存在する聖餐式はありません。しかしながら、聖餐式の語源は、そして基本的な精神は、ミュステリオン=秘密=沈黙の儀式なのだということは、忘れてはなりません。 少し詳しく申し上げましたが、結局、奥義は柳生新陰流の奥義などという時の『おうぎ』に似た意味合いを持っているのです。秘密の・隠された、何より一部の者だけが知っている、一部の者だけが秘密に与っているという点が強調されています。 ○ 次に、管理=管理者という字を見ます。管理者、ギリシャ語でオイコノモスという字が使われています。この字が、そもそも合成語です。家を意味するオイキアと世話するという意味のネミューが一緒になった言葉です。管理者と訳すると、何か偉そうな響きがありますが、管理人と訳すると、全然響きが違います。管理者と管理人、どちらに近いのかと迷ってしまいます。同じ語が、ガラテヤ書4章2節では、後見人と訳されています。一方では、マタイ福音書で、家僕(家のしもべ)となっています。ハウス・キーパーです。家政婦でも執事でも良いでしょう。 ○ ここで、忠実という字の意味を調べてみます。原文は「この際、管理人に求められるのは、忠実なことである」これが、該当箇所の直訳です。そして、忠実と訳されている字は、ピストゥスです。信頼、忠義、信用などと訳されています。信仰と訳されるピスティスと大変良く似ています。ピスティスも、しばしば信頼、忠義、信用と訳されています。 ○ 2節。 『この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです』 忠実であること、これが管理者の使命です。つまり、管理者と訳すると、権限を持った者という意味合いが強くなり、管理人というと権限はなく、主人の意のままに働く人という風に聞こえますが、オイコノモスの意味するところは、そういうところにあるのではなくて、忠実であること、忠実であらねばならぬことを強調しています。 より正確に申し上げるならば、管理者であれ、管理人であれ、その上の主人の意志・命令に忠実に働くことが肝要なのであって、その人の自由裁量の部分が重んじられているのではないということです。 似たような比喩的表現を、パウロはしばしば用いています。4章15節の養育係りもそうですし、Uコリント6章1節、神の同労者もそうです。また、パウロは頻繁に遺言状のことを譬えに用います。イエスさまの十字架の死を踏まえ、福音宣教を、イエスさまからの手紙、遺言状に準えているのです。そして、絶対に書き換えることの出来ないものの象徴として、遺言状が比喩に用いられるのです。 つまり、忠実であるということは、この際には、熱心だとか、有能だとか、というような意味ではなく、自分に託されたものを、守り続ける、寸分も違えずに、そのままに守り続けるという意味なのです。 ○ エレミヤ書32章に、こんなことが記されています。 少し長い引用をします。 … 9:そこで、わたしはいとこのハナムエルからアナトトにある畑を買い取り、 銀十七シェケルを量って支払った。 10:わたしは、証書を作成して、封印し、証人を立て、銀を秤で量った。 11:そしてわたしは、定められた慣習どおり、封印した購入証書と、 封印されていない写しを取って、 12:マフセヤの孫であり、ネリヤの子であるバルクにそれを手渡した。いとこのハナムエルと、 購入証書に署名した証人たちと、獄舎にいたユダの人々全員がそれを見ていた。 13:そして、彼らの見ている前でバルクに命じた。 14:「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。これらの証書、すなわち、 封印した購入証書と、その写しを取り、素焼きの器に納めて長く保存せよ。 15:イスラエルの神、万軍の主が、 『この国で家、畑、ぶどう園を再び買い取る時が来る』と言われるからだ」 エルサレム滅亡が近いことを知った預言者エレミヤは、故郷のアナトテに畑を買い、土地の購入証書とその写しを、素焼きの壺に入れて封印し、更にこの壺を、畑に埋めます。 これは、象徴的な意味を持つ行為でした。やがてエルサレムは滅び、土地も建物も焼かれるけれども、また主の赦しを得て、土地が回復される時が来るということを、言葉ではなく、行いで預言したものです。行動預言と言われます。 一休禅師はドクロを首から提げて京の街を歩いたと伝えられています。「正月は、冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」これが行動預言です。 エレミヤは、自分の首に牛を縛る桎梏を付けてエルサレムの街を練り歩いたと記されています。これと同様に、壺を、畑に埋めることが行動預言です。 ○ イザヤにも、同様の趣旨のことが記されています。預言者は、正に「秘められていた神の言葉」を、人々の前に公にするのが仕事のようですが、一方では、御言葉を守り抜くということ、時と場合によっては、人々から隠して守り通すことが、その任務となるのです。 教会もまた同様です。教会は福音を宣べ伝えることがその使命であり、存在理由なのですが、時には、人々から隠して守り通すことが、その任務となるのです。 伝える場合でも、守り抜く場合でも、正しくが何より大事なことです。 ヨハネ黙示録22章18節。 『18:この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。 これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。 19:また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、 神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる』 ○ Tコリント4章3〜4節。 『3:わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、 少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。 4:自分には何もやましいところはないが、 それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです』 また映画の話ですが、ご勘弁下さい。昔々の記録映画で、題名も忘れました。忘れられないのは、ナチによる焚書の場面です。広場にたくさんの本が積み上げられ火を放たれます。その業火の中に、更に本が、著者の名前と共に投げ込まれます。 正確な記憶ではありませんが、先ず、トーマス・マンだったと思います。それからロマン・ロラン、シュテファン・ツヴァイク、ライナーマリア・リルケ、それから、エーリッヒ・ケストナー。他にも。 これを多くの市民が、特に腕に腕章を付けたヒトラー・ユーゲントの子どもたちが、喝采を送りながら見ているのです。 ○ この時、名前を挙げた作家たちは亡命していましたが、独り、エーリッヒ・ケストナーはこの場面に立ち会い、自分の名前が読み上げられ本が焼かれるのを見守っていました。 書物や思想を裁くことは昔から行われて来ました。焚書坑儒という言葉があることだけでもそれは分かります。焚書坑儒が正義だった時代もありました。最近だって、文化大革命があり、ヒトラー・ユーゲントのような紅衛兵が、それを義と信じ込んで、文化人・自由思想家を大迫害しました。ポルポトは、小中学校の教師まで、およそインテリと目される人々を、都合200万人殺したと言われています。 ○ 全く逆の現象もあります。古くは、安土桃山時代、現代ですと、明治の終わりから大正初期の時代、その後、戦後間もなく、日本ではキリスト教ブームが起こり、その勢いは、やがて日本をキリスト教国家に変えてしまうのではないかと、危惧された程です。しかし、何故か長続きはせず、廃れてしまいました。いろんな分析が行われたようですが、本当に説得力のある答えは見つかっていません。単にブームは去り、飽きられたということでしかないのでしょうか。 お隣の韓国でも、ひととき、クリスチャン人口が4分の1を超えたとか、3分の1に迫るとか言われましたが、現在はすっかり勢いを落としてしまったそうです。ブームの中で無数の神学校が出来、多くの卒業生がいるのですが、就職先がない、赴任先の教会がないのが現状だそうです。だからでしょうか。日本の教会に韓国人の牧師が増えました。 ○ 今は、中国でどんどん教会が生まれているそうです。国家から公認された教会の他に、無認可の地下教会に人が溢れ、建物からはみ出し道路で礼拝を守るような勢いと聞きました。迫害弾圧が、厳しい中で、むしろ教勢は伸びているのです。 だからと言って、キリスト教信仰が根本から中国の体制を変えることはないかも知れません。やがては、中国でもキリスト教の布教が公認されるかも知れません。そしてその時には、もうブームが去って、キリスト教は、はやらないかも知れません。 ○ 5節。 『ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。 主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。 そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります』 時代の評価に翻弄されてはなりません。人数が少しばかり増えた減ったは、絶対のことではありません。正しく福音を宣べ伝えているかどうか、正しい福音を守り通しているか、それだけが問われます。それだけが、教会の真価だと思います。 あまり映画や小説の引用が多いので省略しますが、山本周五郎の小説に、免許皆伝の書・正に奥義の書を開けて見たら、たった一言、油断大敵と書いてあったという場面があります。教勢が盛んな時には、油断大敵こそ、奥義でしょう。 状況が厳しい時、深刻な時には、大胆不敵でしょうか。タラントの譬に触れている時間はありませんが、積極的に投資すべき時、土に埋めて守るべき時、その時々があろうかと思います。今、玉川平安教会は、どんな時でしょうか。 … 矛盾するように見えますが、その両方だと考えます。守るべきを守り、伝えるべきを伝える、そうありたいものです。 |