日本基督教団 玉川平安教会

■2019年12月24日

■説教題 「地には平和を」
■聖書  ルカによる福音書 2章8〜20節


▼この時期、特に今夜、クリスマス・イルミネーションのことが、テレビで報道されています。どこか一箇所くらい出掛けて見たいと思いますが、未だに果たせません。東京駅も、渋谷も行ったことがありません。

 実に驚くべきことです。マスコミに取り上げられるようなものだけで、全国で、数百箇所も存在します。私が子どもの時分には、そんなものは一つも無かったのに。


▼読売新聞の論説委員で、幾つかのキリスト教主義の大学で講義を持っている人に、玉川学園前駅でばったり出会った時に聞いた話です。渋谷の或るミッションスクールのイブ礼拝には、入場制限しなければならない程、人が集まるそうです。それは大変に結構なことのようなのですが、集まるのは、若いカップルで、イブ礼拝の後には、ホテルに行くのだそうです。

 彼は真面目なクリスチャンですから、世も末だと、大いに嘆いていました。

 

▼私も、このような風潮に、正直反発を感じます。

 しかし、一方で、10節をご覧下さい。

 『天使は言った。「恐れるな。わたしは、

   民全体に与えられる大きな喜びを告げる』

 喜ばしいクリスマスの知らせは、『民全体に与えられ』ました。決して、人口の1%に満たない、一握りのクリスチャンに告げ知らされたのではありません。誰もが喜び、祝うことは、聖書的にも、決して間違いではありません。


▼それでは、国民全体がお祝いする『大きな喜び』の知らせとは、どのようなものだったのでしょうか。

 11節にあります。

 『今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれに  なった。この方こそ主メシアである』

 『救い主がお生まれになった』ことが、お祝いすべき、『大きな喜び』です。ここでも、『あなたがたのために』と言われています。

 『あなたがたのために』とは、直接には、羊飼いのことですが、しかし、羊飼いに限定されるものではありません。羊飼いこそ、当時のイスラエル国民全体を象徴しています。

 このことは、一昨年のクリスマス礼拝で詳しく申しました。当時の羊飼いは、地主に雇われて、厳しい労働に従事する貧しい人々でした。

 その貧しさも、殊更に強調する必要はありません。ローマ帝国の抑圧下にあり、皆が貧しかった時代です。羊飼いは、特定の者ではなく、貧しさも含めて、当時の民全体を象徴しているのでしょう。


▼『救い主』『メシア』とは、言い換えればイスラエルの王ということですが、しかし、王や政治家に、いち早くこの知らせが届いたのでもありません。

 厳密に言えば、これは、マタイ福音書の記述になりますが、ユダヤの王、ヘロデにも、そのヘロデの命によって、律法学者たちにも、この知らせが届きました。しかし、学者たちは、聖書を調べて、『救い主』『メシア』は、ベツレヘムに生まれると言い当てたことで満足します。

 出掛けて行って、御子を拝むことはしません。学者にはクリスマスを祝うという気持ちはありません。

 ヘロデに至っては、学者たちに聖書を調べさせたのは、ユダヤの新しい王を殺して、自分の王位を守るためです。

 やはり、ルカでもマタイでも、クリスマスは、民全体のためのものであり、特別の人のためのものではありません。

 

▼さて、『救い主』『メシア』は、12節によりますと、

 『布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子』です。何と言うことでしょうか。

 預言者たちの口を通して語り伝えられて来た救い主、ユダヤ人を解放し、この地上に正義を立て、不正を糺す人は、いかにも無力な『乳飲み子』に過ぎません。

 同じルカ福音書のマリアの賛歌をご覧下さい。『救い主』『メシア』は、このように歌われています。

 『主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、

 52:権力ある者をその座から引き降ろし、

  身分の低い者を高く上げ、

 53:飢えた人を良い物で満たし、

  富める者を空腹のまま追い返されます』

 このような大改革をなさる筈の方が、無力な『乳飲み子』に過ぎません。

 この『乳飲み子』について、『これがあなたがたへのしるしである』と言われているのです。


▼この辺りのことを考えるために、20節を先に読みたいと思います。

 『羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおり  だったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った』

 『神をあがめ、賛美しながら帰って行った』羊飼いたちは、大いに喜び、大いに満足したのです。何に?一体何に満足したのでしょう。

 『見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので』と述べられていますが、直接には、『乳飲み子』です。無力な『乳飲み子』を見ただけで、『神をあがめ、賛美しながら帰って行った』のです。無力な『乳飲み子』の姿に、大いに喜び、大いに満足したのです。


▼ルカ福音書の1章76〜79節を引用します。

 『76:幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。

   主に先立って行き、その道を整え、

 77:主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。

 78:これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、

   高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、

 79:暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、

   我らの歩みを平和の道に導く。」』

 これは、バプテスマのヨハネについての預言であって、イエスさまのことではありません。しかし、むしろ、イエスさまにこそ、当て嵌まります。

 

▼特に、最後の79節。

 『暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、

  我らの歩みを平和の道に導く。」』

 『暗闇と死の陰に座している』そのような、切羽詰まった状況に追い遣られている者を真に慰める力は、何所にあるのでしょうか。奇跡を期待するしか無いかも知れません。

 羊飼いは、この奇跡に出会いました。天使のお告げを受けました。天の軍勢が讃美を歌うのを聞きました。しかし、本当に彼らを慰めたのは、物言わぬ『乳飲み子』でありました。

 彼らは、『乳飲み子』に出会い、心から喜び讃美したのです。そして、歌いながら、また、厳しい現実の場へと帰って行ったのです。彼らが置かれている状況は何も変わりません。


▼何も変わっていないようですが、しかし、彼らは、既に変えられているのです。何故なら、彼らは、奇跡に与りました。奇跡とは、超自然とか、魔術とかそういうことではありません。奇跡とは、神さまのみ手の跡を見るということです。神さまのなさったことを見るのが奇跡です。 

 つまり、他のどんなことよりも、『乳飲み子』に出会ったことが奇跡なのです。

 クリスマスの登場人物たちは、病から癒やされることはありませんでした。貧しさから解放されることもありません。しかし、クリスマスイブの蝋燭の輝きに慰めを与えられ、静かな気持ちで、平和に、それぞれの生きる場所へと帰って行きました。それが奇跡です。

 絶望の淵に置かれた者が、一本の蝋燭の灯に慰められ、心静かに召されて逝く、そこに、神さまの御心を見るのです。それが奇跡です。


▼私たち人間は、誰でもが、『暗闇と死の陰に座している』のです。それが現実だということを、思い知らされる時が、誰のもとにも、必ず、来ます。人は誰も、病を、老いを、そして死を免れることは出来ません。

 私たちの教会では、今年、8人もの人を、天国へと送りました。そのうち、5人は、最近一ヶ月半のことです。

 『暗闇と死の陰に座している、我らの歩みを平和の道に導く』のがクリスマスの出来事です。物言わぬ『乳飲み子』だけが、この力を持っています。物言わぬ『乳飲み子』だけが、真の平和をもたらします。


▼天の軍勢が現れました。しかし、彼らは、その武力で、ローマの軍隊を鎮圧し、地上に平和をもたらすことはありませんでした。彼らは、讃美歌を歌いました。羊飼いは、『乳飲み子』を拝み、讃美し喜びました。つまり、礼拝です。神の御心に適う礼拝だけが、真に平和を実現する術なのです。

 そうして、私たちが、2000年以上灯し続けられてきた蝋燭の灯のもとに、こうして礼拝を持ち、聖書に記された神の言葉を聞くということは、奇跡に与ることです。

 奇跡とは、神さまがなさる業を、人間の目で見ることです。