○ 最初に、29〜30節をご覧下さい。 『疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。 30:若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが 31:主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。 走っても弱ることなく、歩いても疲れない』 ○ 生きることに疲れてしまう者がいます。これは、深刻なことです。生きる力がなくなってしまう人がいます。若者にも起こりますし、壮年の、勇士と見られていた人にも起こります。 人間が、人間の力、自分の力を頼りにして生きることには、限界が存在します。いつかは、力尽きます。草臥れ果て、いつかは、滅んで行くしかありません。程度こそあれ、時間の問題です。必ず、その時は来ます。 しかし、『主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る』 『新たな力』ですから、厳しい目で見れば、一端は力を失う、少なくとも弱まるということでしょう。これは、信仰者であっても避けられないことです。 しかし、信仰者は、そこから、もう一度立ち上がることが出来ます。自分の力ではありません。自分の力ではなく、『主に望みをおく』ことで、力を得ます。自分の力ではなく、主の力だから、再び立ち上がることが可能なのです。自分の力では無理なことです。 ○ コリント前書2章3〜5節。 『そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。 4:わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、 “霊”と力の証明によるものでした。 5:それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、 神の力によって信じるようになるためでした』 人間が、人間の力、自分の力を頼りにして生きることには限界が存在します。いつかは、力尽きます。草臥れ果て、いつかは、滅んで行くしかありません。 それを、思い知らされた者だけが、そこから、もう一度立ち上がることが出来るのです。自分の力ではありません。自分の力ではなく、『主に望みをおく』ことで、力を得るのです。自分の力ではなく、主の力です。 ○ イザヤのこの預言は、主イエスの十字架によって、より徹底した形で、成就しました。 つまり、『走っても弱ることなく、歩いても疲れない』ではなくて、弱ってしまった者が、倒れてしまった者が、『主に望みをおく』ことの出来なかった者が、主の恵みによって、主の力によって、自分の翼ではなく、主の翼によって、『鷲のように翼を張』ることが出来るのです。 ○ インマヌエルの神は、弱ってしまった者と、倒れてしまった者と、『主に望みをおく』ことの出来なくなった者とも、共に居て下さるのです。主の十字架を見捨てて行った、或いは裏切って行った、弟子達と共に居て下さる神なのです。 インマヌエルの神は、弱ってしまった者と、倒れてしまった者と、『主に望みをおく』ことの出来なくなった者をも、その御翼の陰に置いて下さるのです。 イザヤ書46章3〜4節をご覧下さい。これは、葬儀の関連でしばしば読む箇所です。 『わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。 あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。 4:同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、 背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す』 ○ 人間の救いの根拠は、一人ひとりの人間の中に存在するのではありません。神の中に存在するのです。『わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す』神が一人ひとりの人間を作られた、ここにだけ、救いの根拠が存在するのです。 ○ クリスマスの記事も同じことです。 神は、悩めるヨセフと共に、居て下さいました。悩めるヨセフを慰める神の言葉は、他の約束ではありません。神が共に居て下さるというものでありました。 躓き倒れる、私たちと共に、神は居て下さるのです。 ○ 太陽と風の逸話があります。かつて北朝鮮に対する韓国の政策として、譬喩に語られました。北朝鮮と韓国や日本の関係に、これが妥当するかどうかは分かりませんが、私たちの信仰のことには、妥当すると考えます。 悪魔が、私たちの信仰を吹き飛ばしてしまおうと考えても、それは、無理です。 悪魔の力を持って、人間そのものを吹き飛ばすことは簡単でしょう。倒すことも、吹き飛ばすことさえ、容易です。 しかし、私たちが、この身に着ている信仰を、吹き飛ばすことは出来ません。悪魔の風が吹いたら、私たちは、しっかりと、信仰という着物を手で押さえ、吹き飛ばされまいとします。風が強くなればなる程に、私たちは、信仰という着物にすがるのです。これを手放したら、いよいよ、凍えて死んでしまうと、そう考え、必至になります。 躓いても、倒れても、死にかかっても、いよいよ、信仰を手放すことはありません。 ○ 逆に、サタンが、もし、人間の信仰を奪い取りたいのならば、この人に、幸運を与えれば良いでしょう。お金儲けをさせれば良いでしょう。この人に望む地位を与えれば良いでしょう。 そうしたならば、この人は、自分を見失い、信仰を見失い、命じられなくとも、自分から、喜んで信仰を脱ぎ捨ててしまうでしょう。 ○ 私たちの玉川平安教会は、どうでしょうか。 嵐の後ですから、平坦な道を行くような日々であって欲しいと思います。しかし、それは、おそらくは叶わないことです。きつい坂道を行くような日々が続くかも知れません。思わぬ落し穴にはまることもあるかも知れません。しかし、そのようなことを恐れる必要はありません。 悪魔の試練は、本当には私たちから信仰を奪うことは出来ません。希望を奪うことは出来ません。むしろ … ローマ書5章2〜6節を引用します。 『このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、 神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 3:そればかりでなく、苦難をも誇りとします。 わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 4:忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 5:希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、 神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。』 ○ 日々の歩みが、平坦な道を行くものであることを祈るのではなく、勿論、その逆を祈るのでもなく、どんな時にも、私たちと共に居て下さいと、主に祈りたいと思います。 否、共に居て下さることを感謝して祈りたいと思います。 そのことが見えなくなってしまっている者があります。絶望し、震えている者があります。 神さまは、そのような者とも共に居て下さると考えます。 私たちも、そのような兄弟姉妹に手を伸べて、神さまが共に居て下さるということを、伝えたいと思います。 ○ 悪魔に信仰を奪われてしまわないように、注意していたいと思います。悪魔に信仰を奪われてしまうのは、有り余る程に自信があって、信仰がなくても、生きて行けると考え、信仰を脱いでしまう時です。 悪魔が、信仰を脱がせようとして、冷たい風を送って来る時には、恐れる必要はありません。その時には、もっとしっかりと信仰を着て、手も足も、頭も、信仰の鎧で覆いたいと思います。 ○ 27節に戻ります。 『ヤコブよ、なぜ言うのか/イスラエルよ、なぜ断言するのか/ わたしの道は主に隠されている、と/わたしの裁きは神に忘れられた、と』 些か飛躍し過ぎるかも知れませんが、このことは、私たち人間一人ひとりについても、全く当て嵌まるのではないでしょうか。 一人ひとり、異なる人生を送って来ました。誰にも恥じることのない、有意義で豊かな人生だったと振り返り、大いに満足して、その生涯を閉じることが出来る人もあるかも知れません。もしそんな人がいたら、何とも羨ましい限りであります。 そのような人は、1万人に一人でしょうか。10万人に一人でしょうか。 しかし、大多数の人間は、沢山の失敗や、やり残しを持っていて、できることならば、もう一度、一から人生をやり直したいというような思いを抱きながら、老い、病を得て、そして、死んで行かなくてはならなりません。 ○ 逆に、どうして自分はこんなに苦しい悲しい人生を過ごさなくてはならないのだろう。私が神さまに対してどんな罪を犯したというのだろう。そんな思いに捕らわれる晩年を送らなくてはならない者がいます。そういう人の方が圧倒的に多いかも知れません。 ○ このような者に、『その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、』とイザヤは語りかけます。罪は赦され、服役は終わりました。イザヤ書40章2節。 『苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/ 主の御手から受けた、と。』 倍の刑罰と表現されています。… 神の審判が過酷だったとか、間違いだったとかそういうことではありません。 もう充分だということです。刑罰は、そして苦しみは充分だと、認めて下さったというのです。別の言い方をすれば、ユダヤ人たちの苦しみが分かったということです。神に通じたということです。私たちの人生の苦しみを、もう充分だと、認めて下さったというのであります。 ○ 罪が見えなければ救いはありません。どん底を認めなければ、もっと、深みにはまります。 膝の高さの水があれば、人は充分溺れます。逆に、快方に向かうためには、底に足をつけて踏ん張らなければなりません。潜ることを恐れなければ、沈むことを恐れなければ、浮かびあがることが出来るのです。 ○ 一番簡単に言えば、救いを求める人に、救いはもたらされるということです。 刑罰を受けている人に、救いはもたらされるということであります。 このように考えてみれば、逆に良く分かります。 イザヤ書の全体の論調は裁きのために語られているのではありません。むしろ、救いが語られているのです。どん底にある人への慰めが語られているのです。 ○ イザヤ書40章以降を、第Uイザヤと呼ぶのが普通です。第1イザヤの預言の通りに、ユダは滅亡しました。しかし、遺された者がいます。既に50年、バビロンに囚われの身となっています。そレらの人々に第Uイザヤは呼び掛けます。40章3節。 『呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/ わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ』 何の道なのでしょうか。帰還の道、故郷へ帰る道です。 逆に言いますと、今いるところは、本来いるべき場所ではないということです。間違った処に立っているということです。だから帰るのです。帰らなければならなりません。 ○ しかしながら、最初に動き出すには大変なエネルギーが要ります。慣性の法則です。 多くの人が期間を拒んだ時に、一体、誰が帰ろうとしたのでしょうか。 それは、一言で言えば、余りぱっとしない人です。世界一の大都市バビロンではうだつの上がらなかった人です。 また、一方では年寄りです。乱暴に言えば、一目、故郷の山々を見てから死にたいと考えた人々です。 ○ ところで、老人だから、険しい道を歩くことは出来ません。 主の慰めの言葉は、この険しい旅に出ることと重ねられて語られています。4節。 『谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、 狭い道は広い谷となれ』 谷は伸び上がり、丘は身をかがめるというような意味合いです。神さまによって、道が備えられるのです。 ○ 時が与えられれば、そうなるのだということです。神さまの御心ならば、必ず実現するということです。 主の慰めの言葉とは、もう楽隠居していなさいということではありません。未だ、困難な旅に出なければならないということであり、出られるということです。未だ未だ、終わりじゃないということです。もう一働きできるということです。 ○ イザヤの預言と玉川平安教会の歩みは、ぴったりと重なるように思えてなりません。ユダヤの人は50年の試練の時を過ごしました。玉川平安教会は何年でしょうか。ユダヤの新しい時代の担い手となるのは、老人たちでした。玉川平安教会も同じではないでしょうか。 自らの力は衰えた、もうごようは出来ないと考える人々にこそ、 『主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る』と預言されています。 |