▼ 2021年に読んだ所です。しかも、その時は、ヨハネの手紙一の連続講解説教でした。どうしても、話は重なると思いますが、なるべく意識しないで、主題を絞ってお話ししたいと考えます。21年の時の説教原稿を受付に置きましたので、後で読んで参考にしてくださればよろしいかと思います。 ▼ 今日の箇所の主題は、説教題にしましたように「反キリスト」です。「反キリスト」とは誰か、「反キリスト」とは何か、を知るためには、先ず、キリストとは誰か、キリストとは何かということからお話ししなければならないでしょうが、それには最低でも10回から20回ほどの説教が必要になるでしょう。それでも足りないかも知れません。 それどころか、毎週毎週の説教が、キリストとは誰か、キリストとは何かということを主題にしているとも言えますでしょう。 しかし、全く逆のことも言えます。キリストを知ることによって、反キリストを知るのではなく、反キリストを知ることでキリストを知る手掛かりが与えられるとも言えます。 ▼ 実際、聖書を通じて、キリストとは何か誰か、という話はあまり出て来ません。ユダヤ人は、キリスト・メシアについてよくよく知っているでしょうから、メシアを説明する必要はないのでしょう。一方、反キリスト、偽キリストについては、繰り返し述べられています。 私たちは、キリストとは何かを、知ることはなかなか出来ません。しかし、反キリストなら、容易に知ることが出来るのではないでしょうか。 反キリスト・偽キリストは、今日でも、直接に見ることが出来ます。話も聞くことも出来ます。反キリストは、私たちの身の回りにゴロゴロと存在します。 ▼ 敢えて、話を脱線します。敢えてです。 50年昔、当時のキネマ旬報で年間一位になった映画があります。その割には話題になりませんでした。観客も多くはなかったかと思います。ウルトラマンで有名な実相寺昭雄監督の『無常』という映画です。脚本もウルトラマンと同じく、石堂淑朗でした。監督にも脚本にも格別思い入れはありません。主役の田村亮は好きな俳優ですが、その兄の田村高広ほどのフアンではありません。 主人公の仏師、仏さんを刻む仏師が、こんなセリフを吐きます。映画のストーリーも何も関係ありません。このセリフを引用したいだけです。 「地獄絵には、実に多様な表情の鬼が描かれ、苦しめられる無数の人間も多様で現実味がある。しかし、極楽図の方は、画一的で、仏さんの表情も単純だ。それは、地獄は現実に存在するが、極楽なんかは存在しないからだ。」 何しろ50年前に、一遍しか観たことのない映画ですので、甚だ不正確な引用ですが、こんな意味のことを言います。 ▼ 全く共感します。私たちの身近に存在するのは、地獄です。私たちは、例え戦争体験者でなくとも、日常的に地獄を見ています。見せられます。毎日毎日、幼い子どもが殺され、食べる物なく植えています。ニュースも、これで溢れています。 ところが、天国は、全く見えません。かつて、地上の楽園と言われた国や土地が、次第に地獄の様相を呈しています。 アーサー・クラークが礼賛し、晩年を過ごしたセイロン、今のスリランカは、二つの宗教が互いに争い、テロ、殺戮を繰り返して止むことがありません。 シュテファン・ツヴァイクが、ナチから逃れ、人類の希望の地と考えたブラジルは、ツヴァイクが、拳銃自殺をする時には、ナチの影響が強まり、今日では、もっとも犯罪、それも殺人事件の多い国として知られています。 吉本ばななの『天国に一番近い島』で有名になり、日本人観光客、それも新婚旅行の多い、ニューカレドニアは、最近、独立運動が始まり、戦火に包まれようとしています。 この地上に天国はありません。楽園もありません。以前にお話ししましたが、テレビでしばしば動物の楽園と言われる土地、海や森が紹介されますが、その番組を観ますと、何のことはない、そこは、弱肉強食の自然界です。つまり、地獄に他なりません。 ▼ キリストの定義は難しく一言で言うことは困難ですが、定義の第一に記されるとしたら、真の王でしょう。ダビデ王、ヨシア王が、その原型です。 しかし、この地上に、理想的な王が存在した試しはありません。世界史で、日本史で理想の姿に描かれる英雄、将軍たちも、メシア・キリストの似姿では決してありません。ここで細々お話しする必要もありません。大河ドラマの主人公になるような歴史上人物も、興味を持って少し調べるだけで、何と、その残酷さ、冷血さ、非道さが、明らかになります。 近代・現代の方が酷いかも知れません。殺人兵器が進歩した分、その犠牲者の数も増えています。 今も、その国では、その民族では、英雄と呼ばれる指導者が、残酷な仕方で、人を殺し続けています。宗教的指導者でさえも例外ではありません。彼らが実際に行ったこと、言ったこと、少しでも期待を持ったら、落胆するだけです。 ▼ この世界は、天国ではありません。むしろ地獄です。 そんな現実の中で、キリストとは誰か、… この世界でキリストであるかのように持て囃された王、英雄、豪傑の真逆です。 今日の聖書の18節に描かれていることは、このようなことでしょう。 著者は、今は終わりの時だと言い、その証拠として反キリストを上げています。反キリストの時、則ち終わりの時です。 現代も反キリストに溢れる時代です。ならば、今も、終わりの時です。人間の歴史は、常に、終わりの時です。終わりに定められ、終わりに向かっている時です。 ▼ 19節。 … 彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。 仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。 しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。… 急に、ちっぽけな話になったかのようです。これが、当時の教会の現実なのでしょう。厳しい迫害があった時代です。キリスト者として生きて行くことは大変に困難な時代でした。ですから、一度キリスト者となっても、そこから、こぼれていく人は、少なくなかったようです。今日に比べたら、入信する人も多いし、脱落する人も、今日とは比べられないくらいに多かったと思われます。戦後のキリスト教ブームの時には、多くの人が教会に加わりました。しかし、その分、多くの人が教会を去りました。 一人がこぼれる度に、教会は傷ついたことでしょう。 ▼ 19節は、聞きようによっては、何かしら事情があって教会を去った人を、後ろから非難しているかのようです。しかし、それだけでは説明出来ません。 先に22節を読みます。 … 偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、 だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。… いろんな事情で落ちこぼれた人を、容赦なく否定しているのではありません。 『わたしたちから去って行』った人とは、実は、『イエスがメシアであることを否定する者で』した。『御父と御子を認めない者』でした。 ▼ 想像を交えて言います。一度教会員となった者の中に、にも拘わらず、ローマ皇帝を神聖視し、これに仕えることを、誇りに思う人がいたのでしょう。つまり、キリスト者としての立場よりも、ローマ帝国内の地位や立場の方が依り大事な人がいたのでしょう。もっと、深刻切実な問題だったかも知れません。 キリストによって『殺すな』と教えられたのに、ローマ皇帝の命令を重んじ、戦場に赴いた人がいたのでしょう。「命令を聞かないと、立場がなくなる、親類縁者にまで迷惑が及ぶ」と考えたのかも知れません。兵役拒否など、考えることも出来なかった時代です。 「決して信仰をなくしたのではない、しかし、この世にはもっと大事なものがある」と考えたのかも知れません。キリストには惹かれるけれども、ローマ皇帝の方がもっと偉いと考えた人もいたのでしょう。今日でもそのような人は少なくありません。 ▼ 23節を読みます。 … 御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。 御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。… 『御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。』とあります。これは、父なる神を信じるけれども『御子』は信じられないと考える信仰があったと、想像させられます。『御子』を述べ伝えるキリスト教の宣教で神を知ったのに、神を知ったからには、『御子』はどうでも良いと思ったのでしょうか。そこまでは思わなくとも、『御子』は神よりも一等低い存在だと考えたのかも知れません。今日でもそういう人はいます。 そして、そういう人にとっては、『御子』は、地上の王や英雄たちと同格になってしまいます。イエスを尊敬はするれども、もはや特別の存在ではありません。 ▼ 24節。 … 初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。 初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、 あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。… 教会を去って行った人も、留まっている人も、最初に聞いた福音は一つです。 しかし、そこに、異なる教えが入り込みました。異なる教えの方が、魅力的に響いたようです。真実に聞こえたようです。 そうかも知れません。最初のものは、後のものを知りません。後のものは、最初のものを知っていますから、これに手を加えて、より良いものに見せることは簡単でしょう。 これが饅頭や、お団子の話ならば、新しいもの、変わり種も結構でしょう。 アボガドの握りは寿司ではないと言いはる必要もありません。人によっては、アボガドの方が、マグロのトロよりも好きかも知れません。それが間違いだとは言えません。 ▼ ヨハネの手紙一、1章1節。 … 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よ く見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。… しかし、福音に変わり種を持ち込んではなりません。変化を持たせるために、キリストと並べて他の者を神としてはなりません。それは、偽キリストです。 キリストに他のキリストもどきを加えたら、それはキリスト教ではありません。 キリスト教の歴史上、現実に、そんなことが繰り返されて来ました。 ▼ 25節。 … これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。… 『初めから聞いていたこと』が、『わたしたちに約束された約束、永遠の命です。』それ以外のものではありません。それ以外のものでは駄目なのです。それは偽キリストなのです。そんな真似をしてしまう人は、反キリストです。 例え、善意からでも、その方が分かり易く、多くの人々が喜ぶとしても、そんな真似をしてしまう人は、反キリストです。戦争中、神主の装いで礼拝した牧師もいました。 ▼ 20節に戻ります。 … しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、 皆、真理を知っています。… 『油を注がれている』とは、単純に言えば洗礼を受けていること、則ち聖霊を注がれていることでしょう。 しかし、去って行った人も洗礼を受けています。ですから、洗礼とは言わずに、油注がれたと表現するのでしょう。洗礼よりも、表面的ではなく、より真実の洗礼というくらいの意味かも知れません。しかし、そこで、それでは水ではなく、油で洗礼を授けましょうと言ったら、それは異なる教えになります。 ▼ 21節。 … わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、 真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。… 『あなたがたが真理を知らないからではなく』、興味深い言葉です。想像するに、新しい教え、異なる福音を説く人は、「あなた方が未だ知らない、真実の教えがある」と言ってたのでしょう。今日の異端も同じです。 そのような人は、皆口を揃えて、「それだけでは足りない」と言います。「古い教えではなく、新しい教えを授ける」と言います。その言葉が、どんなに魅力的に響いても、反キリスト、偽キリストの言葉です。 「イエスさまは素晴らしい方だけれども、もっと素晴らしい方がいる」と言います。反キリストが現実に存在します。この世は、天国ではなく、むしろ地獄だからでしょうか。 |