◇ 今日の聖書箇所の前半部分では、15節の『神の家』という言葉が、目に付きます。 … 神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。 神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。… 『神の家』とは、端折れば、『神の教会』です。『真理の柱であり土台である』も、『生ける』も端折ってはなら ないかも知れませんが、分かり易くするために端折れば、『神の家』とは、『神の教会』です。 これに反論する人はいないかも知れませんが、では何故、強調されているのでしょうか。15節だけで、『神の 家』、『神の家』、『神の教会』と繰り返されています。 ◇ 理由は一つしか考えられません。『教会』を、『神の家』を、神のものとは思わない人、つまり、人間のもの、 或いは自分のものと考える人がいたのでしょう。恣にする人がいたのでしょう。今日だって怪しいものです。 『神の家』、『神の教会』と名乗る教派があります。『神の家教会』もあるようです。私は、その教派とは殆ど お交わりの機会がありませんでしたので、どういう教義なのか、どんな様子なのか、どんな人が教会員なのか、 全く知りません。 しかし、日本基督教団も、どの教会だって、基本、『神の家』、『神の教会』です。それ以外のものではありま せんし、あってはなりません。 ◇『神の家』、『神の教会』ではない教会とは、どんな教会でしょうか。 「牧師の教会」かも知れません。かつて、日本滞在中のエミール・ブルンナーは、日本の長老主義教会を、 「牧師の教会」だと評価しました。多分その通りだったのでしょう。 教会は、「牧師の教会」であってはなりませ ん。 しかし、現実は、「牧師の教会」である教会は、いろんな意味で安定した教会で、他の教会からの評価が高 い教会のようです。要するに牧師がリーダーシップを発揮していて、教会に秩序があるからです。牧師が弱い と、他の役員などが強くなり、勝手なことを言い出します。役員の中に独裁者がいる教会さえあります。その人 が、牧師の首を、自由にすげ替えたりします。 それが現実かも知れませんが、しかし、教会は、「牧師の教会」であってはなりません。その理由・根拠は、パ ウロがそのように説いているからです。『神の家』、『神の教会』でなくてはならないと説いているからです。 どちらが、より機能的か、どちらが盛んになるかではありません。 ◇ 14〜15節の頭までを読みます。 … わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、 この手紙を書いています。行くのが遅れる場合 … 特別な状況がありました。パウロは、テモテを訪問する予定でいます。しかし、はっきりとは予定が立ちません。 テモテを訪問するとは、則ち、テモテが牧会伝道する教会を訪問するという意味でしょう。しかし、その見通しが 立ちません。 ◇ テモテという牧師が与えられているのですから、この教会は無牧師ではありません。しかし、それに近い、心 許なさ、不安があったのでしょうか。不安だったのは、教会員でしょうか、それともテモテだったのでしょうか。両者 かも知れません。 先週礼拝後に、『あしの会』の報告会・講演会が持たれました。その様子は、月報に譲ります。『あしの会』と は、一番簡単に言えば、無牧師の教会を、キリスト教主義学校で働く教務教師たちが応援する会です。 今、無牧師の教会が、かつてない程に増えています。そのような状況下で、『あしの会』がとても大事な働き をしています。 このことも、月報等で詳しく報告したいと思います。長くなるので、今日は省略します。 その一方で、無牧師の時は良かったと言う人もあります。いろんな牧師が日替わりでやって来て、いろんな説 教を聞くことが出来ます。確かに、良いかも知れません。その方が良かったと懐かしむのは仕方がありません。毎 週説教している牧師としては、忸怩たる思いがありますが、仕方ありません。飽きられないような工夫が必要で しょうか。 あまり脱線しないように元に戻します。 パウロは、心細い思いでいるテモテに、パウロがいない時にも、 いない時にこそ、守るべきことを教えています。 ◇ 15節をもう一度読みます。 … 神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。 神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。… 長老主義教会だろうと、牧師の教会だろうと、そこで大事になされるべきは、教会を『真理の柱であり土台で ある』と受け止め、これを大前提にして活動することです。 また、教会が『生ける神の教会』であることを、決して忘れない、ないがしろにしないことです。 同じことを繰り返しますが、パウロがこれを強調して言うのは、教会の現実がそうではなかったからでしょう。他 の何かだったのでしょう。他の誰かの教会に成り果てていたのかも知れません。〜残念ながら、現代の教会でも まま見られることです。 ◇ 16節。 … 信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、キリストは肉において現れ、 "霊"において義と され、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、 世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。… 何だか難しいこと、良く分からないことが述べられています。じっくりと読んだ方がよろしいのでしょう。 しかし、1節には、次のようにあります。 … しかし、"霊"は次のように明確に告げておられます。… 普通の日本語表現なら、『確かに』『しかし』と言うことになります。 口語訳聖書でも、ちょっと語順が変わりますが、『確かに』『しかし』の構造は変わりません。他の翻訳でも大 差ありません。15節に述べられていることを、パウロも決して否定しません。しかし、肝心なことは、1節以下だと いう意味でしょうか。 ◇ 時間の制約もあります。1節そのものを見ます。 … しかし、"霊"は次のように明確に告げておられます。 終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、 信仰から脱落する者がいます。… 16節までに記されていることと、内容的に飛躍があるようにも聞こえますが、少なくとも、著者の心の中では 飛躍していないのでしょう。それは、15節の『神の家でどのように生活すべきか』と、結び付いているでしょう。 教会の中に、『惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者が』現れてしまいました。 それがこの教会の現実でした。 ◇『惑わす霊と、悪霊どもの教え』は、当時の教会員にとって、魅力的だったのでしょう。そうしたものです。正統 的な教えよりも、風変わりな教えの方が人の心を捕らえます。何百年もそれ以上も伝えられて来た信仰より も、新しい異端の教えが、強く心に響き、新鮮な映像として、心に映るものです。 但し、新しい教え、風変わりな教えは、流行、廃りですから、直ぐに消えてしまいます。 より根本的な問題は、このような新しい教え、風変わりな教えに、心惹かれる人は、自分の好みで福音を聞 いている、説教を聞いている、その事実にあります。聞いているだけなら未だしも、自分が教え、自分が教会の 中心になり、『神の教会』『神の家』であることを忘れてしまいます。長老だろうが、牧師だろうが、それは大きな 間違いです。 ◇ 2節。 … このことは、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです。 彼らは自分の良心に焼き印を押されており、… 『偽りを語る者たちの偽善によって』と、厳しく述べられています。つまり、教会の教えではなく、正統な信仰で はなく、自分の思想、自分の思いつきが何より大事な人です。 2〜3章で、監督になるべき人の資質に触れられていますが、その真逆な人たちが、『偽りを語る者たち』で あり、『偽善者』です。 『自分の良心に焼き印を押されており』とは、良く意味が分かりません。聖書の他の箇所に照らしますと、『心 に焼き印を押されて』いるのは、神さまの印が焼き付けられているくらいの意味で、決して悪いことではないよう な印象があります。しかし、ここでは、より本来の意味、奴隷にされていることを指していると思います。つまり、 彼らは、自分自身の凝り固まった心、間違った信心の奴隷となっているのです。 更に言うならば、他のどんなことよりも、自分の欲望、もう少し綺麗な言葉で言っても、自分の好みで、教会 を、他の教会員を支配したい人なのです。そういう人は、残念ながら、確かにいます。 ◇ それが最も端的に出るのは、3節です。 … 結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします。 しかし、この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、 神がお造りになったものです。… 結婚規定と食物規定です。食物規定は、イエスさまの教えによって、或いは使徒言行録11章に描かれたペ トロの逸話等によって、既に克服された問題の筈です。 しかし、繰り返し現れては、パウロに反抗します。コリント書では、この問題が、深刻な問題として取り扱われ ています。信仰の世界で、自分が一番熱心だと言いたい人、そう思いたい人、そしてこれを根拠に他の信仰者 を批判したい人の一番の武器になります。 要するに、自分を偉そうに見せたい人が、最も好むことなのです。それに過ぎません。仏教でも同じ現象が見 られます。新興宗教は、これが大好きです。信者には、いろんな食べ物を禁じて、ご教祖や幹部は、酒池肉 林に耽る、よく見られる光景です。統一原理も、オウム真理教もそうでした。 ◇ このことについてなら、自分の体験からいろいろと実例を挙げて話すことが出来ますが、他の時間に余裕が ある時に譲ります。このことだけ申します。何かを禁止することは、実に容易です。まして、自分の禁欲ではな く、他人に禁欲を強いることなど、今、この瞬間にだって出来ます。権威・権力さえあれば、最も、安易な方法 です。 本当に必要なのは、何かを止めたり、禁止することではありません。困難な時ならば、何かを工夫し始めなく てはなりません。どんなに困難に見えようとも、始めなくてはなりません。始めても上手くいかないことは多々あり ます。しかし、始めないで成功することは、絶対に、一例もありません。 ◇ 結婚禁止の考え方も、全く同じ図式です。つい先日もお話ししましたように、ローマ・カトリックの司祭が結婚 しないようになったのも、当初からではありません。ずっと後の時代に、盛んになりました。 ところで、中世以降の法王や枢機卿、つまり、偉い人たちは、妻帯しません。過去に結婚歴があっても、出 世に響くそうです。だから、彼らには原則、子や孫はいません。法王の一人に、子どもだけでも8人設けた人も ありますが、一応、例外なのでしょう。 その代わり、彼らには、甥や姪や、いとこが大勢います。この人たちは、教会で出世し高位に就きます。いろい ろと教会からの恩恵に与ります。 甥や姪や、いとこ、それらの母親は、一体、誰なのでしょうか。日本の戦国時代には逆の例が、数多くあった と聞きます。妹は、後からでも何人でも作れます。養女に迎えれば、妹になります。 逆に、事実上の妻を妹とし、その子ども、つまり実際には自分の子どもを、甥や姪にすることも出来てしまいま す。 〜これ以上申しますと、根拠のない憶測と言われますので止めます。根拠はありますが。 ◇ 4節。 … というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、 感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。… これだけで充分な筈です。他に根拠など要らないでしょう。テモテ書をパウロが書いたものではないと考える学 者もいますが、誰が書いたにしろ、教会に伝えられた聖書そのものです。 にも拘わらず、食べ物についてゴチヤゴチャ言う人は、単に、聖書よりも、自分の思想を大事に掲げているの に過ぎません。勿論、健康面からいろいろと心配し、他の人の健康をまで気遣うのなら、それは結構なことでし ょう。 ◇ 5節。 … 神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。… 食べ物だろうが、結婚だろうが、神の祝福があるかどうかだけが大事なことです。 これは、教会での奉仕の業、全てについても、当て嵌まります。 |