▼ 難しい言葉使いや、専門用語は、この箇所には全くありません。複雑な論理展開もありません。しかし逆 に、このような箇所ほど、難解なものはありません。一見単純に見えるものほど、それを本当に理解し、自分の ものすることは困難です。そこで、1節ずつ順に読んでまいります。その方が、分かり易いだろうと思います。 1節。 … 兄弟としていつも愛し合いなさい。… 全くその通りです。これに反論する人は、あまりいないでしょう。あまりと申しましたのは、互いにいがみ合うきょ うだいもいないではないからです。むしろ少なくないかも知れません。きょうだいだからこそ、遺産相続を始め、い ろんな利害の対立があります。 しかしながら、そのような反目し合うきょうだいでも、『兄弟としていつも愛し合いなさい』と言う教えには、反論 しないでしょう。むしろ出来ないでしょう。 単純と言えば単純です。決して理解出来ないことではありません。しかし、これを行うことは、とても困難なこと です。 ▼ ところで、『兄弟として』と言われているのは、実は「きょうだい」ではないからでしょう。血を分けた「きょうだい」 ではない、教会員同士に、『兄弟としていつも愛し合いなさい』と教え諭しているのだろうと考えます。 「兄弟のように」ではありません。『兄弟として』です。「ように」とか『として』とかと言いますとややこしく聞こえるか 知れませんが、ギリシャ語原文はどうかというような、面倒臭い話ではありません。 教会員は、「兄弟のように」ではなく『兄弟として』、『いつも愛し合いなさい』と勧められているのです。 ▼「兄弟のように」ではなく『兄弟として』、なのは、「きょうだい」だからです。ますますややこしく聞こえるでしょう か。難しい理屈ではありません。 信仰者・キリスト者は、血縁関係はありません。しかし、共に『父なる神』に祈ります。イエスさまは、信仰者 を、僕ではなく兄弟だと仰いました。似たような表現が沢山あります。一例としてマルコ福音書3章31〜34節 を上げます。 … 31:イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。 32:大勢の人が、イエスの周りに座っていた。 「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、 33:イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、 34:周りに座っている人々を見回して言われた。 「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 35:神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」… 信仰者・教会員は、互いに血を分けた「きょうだい」ではありませんから、「兄弟のように」ではなく『兄弟として いつも愛し合いなさい。』と教えられています。 ▼2節を読みます。 … 旅人をもてなすことを忘れてはいけません。… これにも異論はないでしょう。しかし、不思議なのは、何故この勧めが、『兄弟としていつも愛し合いなさい。』 に続く教えなのかという点です。誰も、『旅人をもてなすことを』、悪いことだとは考えません。しかし、そんなに大 事な教えなのかと、いぶかります。そもそも、『旅人をもてなすこと』は、滅多にあることではありません。 ▼ お客ではなく、『旅人』です。二つは重なることもありますが、重ならない場合もあります。お客さまをもてなす のは、ごく当たり前のことです。面倒臭い場合もありますが、もてなすのが当たり前で、おもてなしが足りないのは いけないことだと考えています。 旅人はどうでしょうか。普通のお客さまよりも珍しい分、歓迎できるかも知れませんし、より面倒臭いかも知れ ません。しかし、聖書の意味合いは少し違うようです。 一番特徴的で分かり易い箇所を引用します。出エジプト記22章20節。 … 寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。 あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。… ユダヤ人にとって、『旅人をもてなすこと』は、単なる礼儀や思いやりではありません。自分たちの民族のアイデ ンティティーに拘わる大事です。 旅人は、単なる旅行客ではありません。寄留者、もしかしたら難民です。 こうなりますと、お客さまをもてなすのは、ごく当たり前の事ではなくなります。大きな犠牲を伴うやっかいごとに なりかねません。 ▼ また、初代教会の時代、キリスト教の宣教者は、各地を経巡りながら、土地土地の信仰者の家に寄留 し、その地を更に出発点として、伝道旅行を拡げました。そもそも、当時からユダヤ人は、地中海世界の各地 に散らばっていました。『旅人をもてなすこと』は、民族のネットワークを作ることでもありました。互いに助け合い 支え合って、異邦の地での厳しい生活を守ってきました。 パウロはじめ、伝道者たちは、『旅人をもてなす』ユダヤ人の律法、習慣、美徳によって、伝道の業をなし遂げ たのです。 ▼ 2節の後半を読みます。 … そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。… マタイ福音書25章を連想させられます。物語ですから長くなりますので、触りだけ引用します。40節と45 節。 …『はっきり言っておく。 わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、 わたしにしてくれたことなのである。』 『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、 わたしにしてくれなかったことなのである。』… マタイ福音書とヘブライ書と、ここは同じ思想だと思います。 つまり、1節も2節も、究極は同じことを言っています。小さい者、弱い者、孤独な者への労りです。聖書は、 この思想で貫かれています。新約だけではなく、旧約も同じです。やもめ、孤児、寄留者への施しについて、旧 約聖書はしばしば触れています。 そして、繰り返しになりますが、この制度こそが、キリスト教が、急速に地中海世界に広まった理由の一つだっ たのです。 ▼ 3節。 … 自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり… これも、1・2節と同じことです。 『牢に捕らわれている人たち』、小さくされた者の極まりです。 現代とは訳が違います。現代だって冤罪はあるようですが、そんな話ではありません。不当に逮捕されるとか ではなく、何ら法律的根拠がなくとも、捕らえられ、殺される時代です。特に、キリスト者は、信仰の故に、或い は正義の故に、捉まり殺された時代です。 『牢に捕らわれている人たちを思いやり』とは、気の毒に思うだけで はありません。具体的に援助することが求められていると思います。 『自分も一緒に捕らわれているつもりで』とは、捕らえられている人と、同じ罪状、つまり、信仰を持っているか らです。 もし、ユダヤ教の伝統が、日本人のように「理由はともかく、牢に入れられたこと自体が恥だ。そんな人と交際 してはならない。」だったら、キリスト教の宣教は成り立たなかったかも知れません。 ▼ 3節後半。 … 自分も体を持って生きているのですから、 虐待されている人たちのことを思いやりなさい。… 『虐待されている人たちのことを思いや』る理由・根拠は、『自分も体を持って生きている』からです。 『虐待されている人たち』、つまり、一番弱い立場に置かれている人たちと同じように、自分も弱いからです。 強い人が弱い人を助けるのではありません。弱い人がその弱さを根拠に弱い人を助けるのです。強い人に は、弱い人を助ける能力があるかも知れません。しかし、強い人には、弱い人への同情がありません。 教会そのものについても、当て嵌まります。教会が強く、世の中に対して強い発言権を持っていた時代もあり ました。しかし、その時に、弱い人を助けたでしょうか。むしろ、弱くされた時に弱い人を助けるのが教会です。 ▼ 今、教会はいろんな意味で弱くなってしまっているかも知れません。ならば、今こそが、弱い人のために働くこ とが出来る時です。 今、教会にはいろんな意味で弱くなってしまっている人が集まっているかも知れません。と言ったら、不愉快で しょうか。怒られるでしょうか。しかし、私も弱くなっている一人だから、敢えて申します。弱くなっています。年齢だ けでも、もう弱くなっています。体力も知力も衰えています。気力もそうかも知れません。 ならば、今こそが、弱い人の助けになれるのではないでしょうか。 弱い人こそが弱い人を助けることが出来ます。老老介護だったら、事は大変ですが、信仰的には、可能なこ とです。必要なのは能力ではありません。知力でも気力でさえもありません。必要なのは、唯一、思いやりだけ です。その根拠となる信仰です。 ▼ 4節。 … 結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。 神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。… まるで別の話になったかのように聞こえます。しかし、ヘブライ書は、1〜3節と4節とは、関連がある、むしろ不 可分離だと考えているから、並べて論じています。 『結婚はすべての人に尊ばれるべき』とは、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利 を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」、日本国憲法第二十四条第一項 と矛盾することではありません。『すべての人に尊ばれる』とは、そうでなければ本当の結婚とは言えないとか、ま して無効だという意味ではありません。 逆に言えば、愛し合う二人が結婚することを、家族といえども妨げてはならないし、まして、親戚なの上司なの が、口出しして、邪魔してはならないと解釈することだって出来ます。 一番簡単に解釈すれば、文字通りであって、結婚は尊いものだと言うことです。この時代には、必ずしもそう ではなかったという現実があります。日本では、つい最近までそうでしたから、容易に想像出来ます。結婚は尊 いものです。 だから、『夫婦の関係は汚してはなりません。』他人も、夫も妻も、『汚してはなりません』当たり前です。 更に、『神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。』、これもややこしい解釈をする必要はありませ ん。この通りでしょう。 ▼ 5節。 … 金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。… またまた話が飛躍した感があります。しかし、ヘブライ書は、1〜4節と5節とは、関連がある、むしろ不可分離 だと考えているから、並べて論じています。 前後を考慮しなくとも、5節の教えは、その通りでしょう。難しい理屈では決してありません。しかし、最初に申 しましたように、この単純なことを行う程、困難なことはありません。 ▼ 金銭に拘りを持たないでは、生活が成り立ちません。ですから、『金銭に執着しない』とは、過度に金銭に 頼らないことだと解釈したくなります。多分それで間違いはないでしょう。『今持っているもので満足しなさい。』 も、その通りでしょう。「持っていない人がいるのに」と反発する人は、ただ、「持っていない人」に分けて上げれば 良いだけです。聖書の教えに反発する理由はありません。 その通りなのですが、しかし、満足しないのも、人間の現実です。 金銭こそ、これで充分とはなかなかまいりません。今の生活に不満はなくとも、先々、老後のことを考えれば 不安があります。子や孫のことを思えば、足りません。誰もがそうでしょう。 金銭ではなく、もっと他の力だと、足りないことだらけです。しかも、他の人は、その力を持っています。不満だら けになってしまいます。 ▼ 『金銭に執着しない』、『今持っているもので満足』出来る根拠は、一人ひとりの心構えではありません。5 節後半が根拠です。 … 神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、 決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。… 『金銭に執着しない』のは、その人の志操が高いからではありません。信仰です。神さまの御守りがあるという 単純な信仰です。これ以外には、安心はありません。 ▼ 6節。 … 主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。… 信仰だけが、将来への不安、隣人への不信、今この時を生きる自信の唯一の根拠です。 悪しき力は、私の命を奪うかも知れません。しかし、魂を奪うことは出来ません。否、命を奪われても、魂を、 単純な信仰を、奪われてはなりません。 |