† 今日の聖書朗読は、教団の日課に従ったものですが、最後の段落、27〜31節に絞って読みたいと思います。21年に同じ箇所を読んでいますので、話を絞ります。 その中でも末尾の30〜31節から読みます。 … 30:若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが 31:主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。… イザヤ書40章、所謂第2イザヤの冒頭です。 ユダヤ人がカルディアの都バビロンに連れ去られたバビロン捕囚が、紀元前587年、その捕囚が終わったのが、50年後の紀元前538年です。正確な年数はともかく、捕囚の終わりが538年つまり、数字の語呂合わせでイザヤと覚えておくと、分かり易くて便利です。お釈迦さんの誕生よりも、50〜100年前の出来事と・預言です。それだけでも、ユダヤの歴史の古さが分かります。 偶然の一致に過ぎませんが、日本に仏教が伝わったのが、起源538年と言われています。紀元前ではなく、起源538年です。 † カルディアがペルシャの王クロスに敗北して、奴隷的立場から解放されたのも、この年からです。 ユダヤ人が、故郷に帰ることが許されました。50年ぶりに、彼らの夢が、叶いました。しかし、50年という年月は、あまりにも長かったようです。帰りたくても、帰ることは困難です。バビロン、今日のバクダット辺りから、砂漠と大河を超えて、エルサレムに辿り着くには、三ヶ月がかかったと思われます。 三ヶ月もの旅を続けるには、大変な資金が要ります。辿り着いても、そこに昔の田畑があるわけではありません。先祖の土地は、既に、人手に渡っています。目的地に着いても、そこで田畑を求めるか、何かしら、生活の術を得なくてはなりません。資金は、莫大な金額になってしまいます。つまり、お金持ちしか帰ることは出来ません。 † もし資金があったとしても、歩いて、または駱駝の背に乗って、三ヶ月もの旅することは、年配者には体力的に無理だったでしょう。 体力のある若者は、逆にお金がありません。 そもそも、50年の年月です。何事にも優れた能力を発揮するユダヤ人ですから、奴隷的境遇に置かれていても、お金を儲けた人も、出世した人もいたようです。もう、その2世3世が誕生しています。これらの人は、当時世界最大の都から、地の果てのエルサレムに戻りたいと、思いもしません。 † 帰ろうと考えたのは、異国の地で、望郷の念に心を捕らえられた老人たちだったことでしょう。とても困難な、むしろ不可能な旅路でした。 私には、この箇所、その前後を読んでいて、ふと心に浮かび、そして離れることが出来なくなった歌があります。ここ2週間ほど、ベットに入ると、その歌を想い出します。 歌と言いましても、流行歌ではなく、日本の古典です。 「世の中を 憂しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば」 山上憶良です。中学だったか高校だったかの教科書に載っていました。 「どんなに世の中に嫌気がさしても、どこかに飛び立っていくことはできない。鳥でもない限りは」、そういう意味だと思っています。 バビロンで故郷エルサレムを思う人の気持ちは、正に、これだったことでしょう。 † もう一つの詩も、頭にこびりついてしまいました。同じく、中学だったか高校だったかの教科書に載っていました。若山牧水です。 「白鳥 ( はくてう ) は 哀しからずや 海の青 そらのあをにも 染まずただよふ」 私はずっと、しらとりは哀しからずやだと思っていました。白鳥 ( はくてう )が正しいようです。 説明も要りません。「海の青 そらのあをにも 染」むことのできない、詩人の孤独が伝わります。 バビロンの地でのユダヤ人の心境でもありましょう。故郷を喪失した旅人の悲しみです。 † これも教科書です。私が一番好きな日本の詩人です。 「田舎を逃げた私が 都会よ どうしてお前に敢て安んじよう」 イザヤ書とは違うかも知れません。しかし、共通するかも知れません。 ユダヤ人は、50年の時を経て、最早都会人です。都会の最底辺にうごめく存在かも知れませんが、最早、田園の人ではありません。 彼らは、遠く故郷を望み見るのに過ぎません。 室生犀星の詩も想い出しましたが、諄いので止めておきます。 † もう一度30節を読みます。 … 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが … そんな若者がいたのでしょう。バビロンでは思い満たされず、何度もチャンスを窺いながら叶わず、『倦み、疲れ』た者がいたのでしょう。 バビロンと戦い傷つき倒れた勇士もあったでしょう。 † そこにイザヤの預言が語られます。もう一度31節。 … 主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。… 砂漠を渡って三ヶ月の旅を続ける体力も、資金もない者に、希望が語られます。 『走っても弱ることなく、歩いても疲れない。』 砂浜を歩いた経験はどなたもお持ちでしょう。山道の体験もあるかも知れません。平坦な町中の道とは違います。一歩足を進めるにも力が要ります。その分疲れます。とても目的地に辿り着くことは出来ないと思えてきます。しかし、『走っても弱ることなく、歩いても疲れない。』不思議な力か与えられるとイザヤは預言します。 † 『鷲のように翼を張って上る。』とも預言されます。 石地や砂地を行くよりも、空を飛ぶ方が楽に違いありません。しかし、この当時空飛ぶ乗り物などありません。ですから、『鷲のように翼を張って上る。』とは、楽に勧めると言うよりも、空の上からならば、眺望が得られるという意味だと思います。つまり、地上からは見えない目的地が見えます。 聖書では、弱っている者に、目を高く上げよと言われます。目を高く上げる、つまり、遠くを見ることです。地べたでは見えない物が見えることです。信仰者は目を高く上げ、遠くを見ます。その結果、『走っても弱ることなく、歩いても疲れない。』のです。 † 『新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。』 砂漠を旅することの出来ない者に、砂漠を越えて飛ぶ、鷲の翼が与えられるとの預言です。鷲の翼は、空飛ぶ力と言うよりも、むしろ、遠くを見る力であり、未来に目を向けて、絶望しないことだと、私は思います。 その翼は、お金で買うものではありません。『主に望みをおく』者に与えられます。 『主に望みをおく』者だけに与えられる力です。 『大聖堂』など、教会を舞台とした著作の多い、世界的人気作家ケン・フォレットに、『鷲の翼に乗って』というドキュメントタッチの本があります。イランのホメイニ革命が起こり、多くのアメリカ人の命が絶望的状態に追い込まれた時に、自分の会社の社員を救い出すために、ジェット機を飛ばし、救出した男の物語です。史実に基づいています。 世界最強のアメリカ軍さえ絶望する状況の中で、社長として社員の命に責任がある、救い出さねばならないという使命を全うした男の物語です。彼の企ては見事に成功します。 † 私には、ここに置かれているユダヤ人と、今の教会とが重なって見えます。 聖書の中で、信仰者は、旅人として描かれています。新約聖書では、舟の旅が多いのですが、旧約聖書では、砂漠の旅、荒野の旅です。 私たち現代の信仰者も、旅する者です。その目的地は、神の国です。 教会員の中には、「もう、この地上に未練はない。早く、神の国に行きたい。」と言う人も少なくありません。私は、そんなことを言っている人を諫めています。 「それは困ります。あと10年は元気でいて貰わないと、教会が大変です。」80歳代、90歳代の人が多い教会だからこそ、実際大変です。 80歳代、90歳代の体力がそのまま教会の体力であり、80歳代、90歳代の信仰がそのまま教会の信仰です。これらの教会員が、『新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。』のです。イザヤはそのように預言しています。 † 昨年、人生70年を説いて、70歳になったら人間、命の定年だと唱えて物議を醸した人がいましたが、教会は、それでは困ります。今、教会員の最年長は106歳、他にも100歳の人がいます。男性は、未だ、90歳一寸です。 「世の中を 憂しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば」 そんな思いになるかも知れませんが、天国へ旅立つためには、神さまから鷲の翼をいただかなくてはなりません。あまり気持ちがせくと、天国へは届きません。ギリシャ神話のイカロスのように、翼が溶け、燃えてしまうでしょう。 それまでは、 「海の青 そらのあをにも 染まずただよふ」 しかありません。それもまた良いのではないでしょうか。この地上と空との間で、滑空しましょう。一旦、そのように覚悟を決めれば、「海の青 そらのあをにも 染まずただよふ」滑空を楽しむことだって出来るでしょう。 † 29節に遡ります。 … 疲れた者に力を与え 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。… 私たちは、若い時の勢いをなくしているかも知れません。それが現実かも知れません。 しかし、体力、気力はいざ知らず、信仰の力は、神さまから与えられるものです。 私は、ここ2〜3ヶ月体調が充分ではありません。お医者さんに診て貰っても、どうも芳しくありません。そこで、先日、栄養補給・滋養強壮に効くと宣伝されているドリンクを買いました。野球のイチローが宣伝しているので、試してみました。二日に1回くらい飲んでいます。商品ですので、効くとも効かないとも言わないことにします。 大谷選手のドリンクはありません。有ったら買うかも知れませんが、若い大谷選手には、そんな物は無用でしょう。 信仰に効くドリンク剤はありません。信仰に効き目があるのは、聖書だけです。 つまりは、体力・気力はともかく、人生そのものに効く薬は、聖書だけです。 † 『人生処方詩集』という本があります。児童文学者のエーリッヒ・ケストナーの著書です。沢山の詩に見出しがあって、これが処方箋です。悲しい時に、辛い時に、人生が悲しくなったら、貧乏に出会ったら、いろいろな処方があります。私の愛読書です。年に数回も読み返しますし、時々に処方箋に従います。 しかし、ドリンク剤がそうであるように、飲み過ぎると、効果が薄れるようです。毎日毎日、どんなに親しんでいても、効き目が弱まらないのは、聖書だけです。 † 28節に遡ります。 … あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。 倦むことなく、疲れることなく その英知は究めがたい。… 私たちは疲れます。倦みます。何もかも面倒臭くなることがあります。 若い人に、人生の定年は70歳だと指摘されるまでもありません。人生を「憂しとやさしと 思」うことがあります。しばしばです。翼があったら、どこかに飛んで行ってしまうかも知れません。 しかし、神さまは、『倦むことなく、疲れること』がありません。先週、母の日でした。母は、我が子に倦み疲れることはありません。どんなに手のかかる子どもであっても、我が子に倦み疲れことはありません。自分が産み育てた子どもだからです。 母が、我が子に倦み疲れることがあったとしても、神さまは、『倦むことなく、疲れること』はありません。人間を創造された神だからです。人間を産んだ神だからです。 † 先日の説教で、原稿にはないシュテファン・ツブァイクの鳩に言及しました。創世記のノアの洪水に登場する鳩です。創世記8章11〜12節。 … 11:鳩は夕方になってノアのもとに帰って来た。 見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた。 ノアは水が地上からひいたことを知った。 12:彼は更に七日待って、鳩を放した。鳩はもはやノアのもとに帰って来なかった。… シュテファン・ツブァイクによれば、この最後の鳩は、降り立つ地、つまり、平和な土地を求めて、未だに飛び続けています。私たちも、神の国へと飛翔する翼を与えられるまでは、海と空との間を飛び続けるしかありません。 |