★18節から順に読みます。 『子供たちよ、終わりの時が来ています。』 いきなりこのように語られています。短い文章であり、ギリシャ語でも同じ語順です。直訳すれば、『子たちよ、終りだ』となって、切迫感がより強くなるように感じます。『終わりの時が来ています』だと、観念的と言いますか、思想哲学的と言いますか、頭の中の出来事のように聞こえます。少し、余裕がありそうです。『終りだ』ですと、もっと実際的で、より絶望的で、時間的にも余裕がないように聞こえます。 これは日本語の響きに過ぎません。ギリシャ語ではどうなのか、文脈から判断するしかありません。 文脈から判断して、『終わりの時』『終末』が切実なもの、時間的にも切迫したものと感じられる時代風潮だったようです。だったようですなどと、曖昧な言い方をする必要はないでしょう。 少なくとも、信仰者にとっては、実に厳しい時代でした。キリスト教が爆発的に広まった時代は、実は、歴史上他に比較できる時代がない程に、キリスト教への迫害弾圧が厳しい時代でした。 ★その一方で、『子供たちよ、終わりの時が来ています。』にしろ、『子たちよ、終りだ』にしろ、これは、どんな時代でも、どんな国でも、根本的な違いはないかも知れません。 1813年生まれのキルケゴールは、その時代を『不安の時代』と呼びました。『不安の時代』は、以来ずっと続いているようです。『不安の時代』はキルケゴールに始まったのではなく、聖書の時代からずっと『不安の時代』だと思います。 今の日本はどうでしょうか。 将来に目を向けると、不確実、不安定、不透明、今日の日本は、紛れもなく『不安の時代』です。更には治安悪化、経済特に年金問題など生活設計の不安、雇用不安、実際的不安・恐怖の中に生きなければならない時代です。 こんなことは、どなたも強く感じていることで、今更申し上げる程のことでもありません。そして、少々温度は違っても、何時の時代もそうだったかも知れません。 ★18節後半。 『反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、 今や多くの反キリストが現れています。 これによって、終わりの時が来ていると分かります。』 聖書の時代にも、様々な社会不安が存在しました。そのことと、終末論とは勿論無関係ではありません。しかし、より直接的には、反キリストの登場と終末の預言とが、重ねられて語られています。 終末的な時代の状況が、反キリスト或は偽キリストを産むのでしょう。しかし、聖書の表現では、反キリスト或は偽キリストの登場が、終末的な状況をもたらすとも読めます。 ★この時代、反キリストとは、先ず第1に、イスラエルに進軍して来た外国の王でした。旧約聖書の歴史書を読みますと、イスラエルの歴史は絶えず周辺諸国・部族との戦いの日々であり、時代が下る程に、圧倒的に強力な外国軍の支配下に置かれた歴史でした。 軍を率い、白馬に乗って、エルサレムの街に進軍して来る王こそが、偽キリストです。 旧約聖書はキリストを預言していると解釈するのが、キリスト教の基本的姿勢ですが、実は、旧約聖書に描かれているのは、ほぼほぼ偽キリストの姿です。イザヤなどに、キリストを連想させられる預言がありますが、むしろ例外的です。旧約聖書が描くのは、大勢の偽キリストの姿です。 旧約聖書は、大勢の偽キリストを登場させることで、真のキリストを描いているのかも知れません。真のキリストが登場するのには、新約聖書を待たなくてはなりません。 ★同じことが人類の歴史、キリスト教の歴史にも当て嵌まります。ごくごく例外的に、キリストに倣う生き方、信仰を持つ、それこそ聖人と呼びたくなるような人物が、歴史に登場します。しかし、ごく少数ですし、残念ながら、これらの人に依って、人類の歴史、キリスト教の歴史が形成され、方向付けられて来たとはとても言えません。 むしろ大勢の偽キリストが登場し、若者を戦場に駆り立て、野に若者の屍を曝し、母親の涙を流し、涸らし、時代を不安どころか絶望の淵に追いやりました。しかし、これらの偽キリストは、その時代にはキリストの如くに迎えられました。 キリスト教の歴史にさえ、これは全く当て嵌まります。十字軍だけではありません。ヨーロッパで繰り返された宗教戦争、今日まで続く、紛争、キリスト教、教会の手も血に汚れています。それは、神の御心である筈がありません。 しかし、ここでも、偽キリストの姿こそが、真のキリストを描き出しています。 キリストに倣いてと言われても、あまり具体的にはなりません。実際何をしたら良いのか分かりません。しかしこのことははっきりしています。偽キリストに倣ってはなりません。偽キリストこそが、真のキリストの道を差し示してくれます。これは、捻った逆説的表現などではありません。そのままです。偽キリストを退けることこそが、正しい信仰の道、教会の歩むべき道です。 ★19節をご覧下さい。 『彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。 仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。 しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。』 ドキッとするようなことが記されています。特に、後半部分を読みますと、彼らと調停するとか、和解するとか、せめて、何か事情を調査するとか、同情するとか、そのように歩み寄る姿勢は全くありません。出て行って大変結構、こうなのです。 ★この箇所、特に『去って行きました』は口語訳聖書では、『出て行った』です。 この言葉については、異なる解釈もあります。つまり、『出て行った』とは、出現した、表に出たという意味に理解されます。つまり、彼らは、未だ教会の内部に存在することになります。 大変有力な学者の説ですから、或いはそうなのかも知れません。しかし、もうそうだとすれば、尚更に、教会の中の或るグループを、激しく排撃していることになります。 これは、大変なことです。先々週読んだ2章9節などは、どうなってしまうのでありましょうか。 『「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。』 ★新興宗教の多くは、キリスト教の装いをします。自らを何々教会と呼んだり、兄弟姉妹と呼び合ったり、少しばかり聖書を引用したりして、キリスト教の衣装を纏います。 世間一般の人から見れば見分けが付かないくらいに似ているのかも知れません。しかし、絶対に見誤ることのない違いがあります。 一つは、偽キリスト教には、絶対になくてはならないものが欠けています。それは、主の十字架によって、人の罪が贖われ、救われたという贖罪論です。他にもありますが、これが、もっとも肝心なことです。偽キリスト教には、贖罪論がありません。少なくとも極めて希薄です。有ってもなくても良いようなものです。 一つは、偽キリスト教には、聖書的根拠のない教えが付け加えられています。結構な教え、イエスさまの教えと寸分違わないようなことを言った後で、聖書的根拠のない教えが付け加えられます。例えば、献金しなさい。武器を取って戦いなさい。そんなことです。 ★結論を急がずに、まして、ヨハネについて評価を言ったり、好き嫌いを言ったりするのは避けて、とにかくに先を読みましょう。 22節。 『偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。 御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。』 ここに、反キリストの定義が述べられています。最も短い定義です。 『イエスがメシアであることを否定する』『御父と御子を認めない』この2行だけです。 23節は、同じ内容の繰り返しです。少し解説の部分もあります。 『御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。 御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。』 22〜23行を重ねて読みますと、どうも、反キリストとは、神を否定する者ではないようです。むしろ、一人なる神という信仰に拘泥しています。その結果、イエス・キリストが神であるということを否定しているのです。反キリストとは、イエス・キリストが神であることを否定する者のことです。 ここではそれ以上詳しく述べられていませんから、申しませんが、キリスト教の歴史を通じて、イエスは素晴らしい預言者だが、神そのものではないとか、人類の教師だとか、いろんな異端、イエスは神ではないという異端が現れました。ここの反キリストも、その一種であることは間違いありません。 ★アンチ・キリストとは、教会に集う者の中から生まれた異端思想です。これはもう、庇うことは出来ません。庇ったら、寛容になったら、教会は教会でなくなってしまいます。 一番簡単な言い方をすれば、他の過ちは赦されても、『イエスはキリストである』というこの信仰告白を否定する者は、赦されてはならない、教会から排除されなければなりません。 しかし、それでは、諄いようですが、2章9節はどうなるのでしょうか。 『「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。』 確かに、教会員を追放しなければならないというような羽目に陥ったならば、その理由の如何を問わず、教会は闇に覆われてしまったような様になるでしょう。 ここで私たちは、1章2章の全体を読まなくてはなりません。特に、2章7〜11節、その中でも特に、2章9節であり、11節なのです。つまり、反キリストこそが、『イエスはキリストである』という信仰告白をする者を嫌い、教会から排撃しようとしたのです。信仰告白の内容を変更しようとしたのです。 ★これは、先に手を出したのはどちらかというような低次元の話ではありません。3章8節。これは次週の箇所ではありますが引用します。 『罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。 悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。』 そして10〜11節。少し長いのですが引用します。 『神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、 神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。 11:なぜなら、互いに愛し合うこと、 これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。』 『イエスはキリストである』という信仰告白を堅持する者は、当然その十字架の愛を、神の業として受け入れ感謝し、そしてこれを自分たちの倫理の規範とします。キリストを否定する者こそが、愛を否定するのです。 ★24節以下。 『イエスはキリストである』という信仰告白が教会を形成して来ました。これを否定する者は、これを軽視する者は、教会そのものを否定しています。 そういう人を追放することの是非を論ずることが無意味ではないでしょうか。『イエスはキリストである』という信仰告白を否定する者は、教会にとどまる意味がありません。教会にとどまる理由がありません。 追い出すとか戒規に掛けるとかという以前の話です。 ★25節。 『これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。』 『イエスはキリストである』という信仰告白に立って、永遠の生命を求めるのが教会です。その信仰告白が否定されるならば、まして永遠の生命を否定するならば、教会にとどまり続ける意味がありません。理由がありません。追放するとか、赦すとかの次元ではありません。 そうして、これは確かに人間の弱さの故かも知れませんが、信仰告白を否定する者が一緒に礼拝していたら、教会形成に関わっていたら、やはり、教会は堕落するでしょう。 1章の1節からそうですが、このヨハネの手紙は、正しい信仰を守り抜く、この一心で述べられています。正しい信仰を守り抜くことが、福音の宣教なのです。 ★聖書は大体そうですが、理屈ぽくって、解釈に余ることがままあります。しかし、素直に読めば案外に単純です。今日の個所も、なるべく単純に読んだ方が正解だと思います。 時代の変化と共に、教会も世の動きに影響されます。影響を免れることは出来ません。いろいろと新しいことを提案する人もいます。どれが正しいか間違っているか判断つかなす場合もあります。しかし、教会への愛がなく『惑わせようとして』なされた提案ならば退けるしかありません。思いが込められたものなら、一緒にやって見て、しくじってもまた体験・勉強でしょう。 |