★ 6節。 『惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、 惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。』 くじ運が悪いと自称する人がいます。実は私もその一人ですが、こういう人は、くじなんか買ったことがありませんし、引いたこともありません。買っても引いてもいないなら、当たらないのは当然です。 しかし、そういう人に限って、自分はくじ運が悪いと言います。私もそうです。 他のことにも、全く当て嵌まります。チャレンジしないでは、チャンスはありません。 いろいろと試み努力した結果が上首尾ではなかったなら、運が悪いと思うのは良いことかも知れません。他の誰かに責任転嫁するよりは遙かによろしいでしょう。 蒔くことをしないでは収穫はありません。これは、現実です。 ★ 一方で、蒔くことは冒険です。蒔くことはリスクを背負うことです。 蒔いたから、必ず収穫に結び付くとは限らないかも知れません。 実りがないようなら、蒔かずに食べてしまった方が、損する恐れはありません。 しかし、絶対確実なことは、蒔くことをしないでは収穫はないと言うことです。それだけは、絶対に確実です。 種蒔かずには、何も得られません。 ★ 信仰だって同じです。 信仰は金儲けとは違いますから、沢山投資して、沢山回収する、つまり、儲けると言うことではありません。儲けるという字時は信者と書きます。漢字文化の世界では意味を持つことなのでしょうが、聖書の世界でそれを言うのは乱暴でしょう。賭博、博打の賭、賭け事の賭は、片が貝つまりお金です。片が貝で、作りが者、漢字文化の世界では意味を持つことなのでしょう。 しかし、常に受け身になって、神さまを待っていても駄目だと、聖書でもではっきりと言われています。 否、受け身でもいいかも知れません。待つことも、場合によっては、積極的行動の一つに数えられるかも知れません。しかし、待ってもいないなら、誰も何もやっては来ません。 ★ 7節。 『各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりに しなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。』 不承不承ではなく、いやいやではなく、強制されてでもなく、です。 教会が決めたことだから、自分は反対だけれども、しかし従わなければならない。そんな風に考えることはありません。 自分の心が決めた通りにする、それで良いのです。 ★ 使徒パウロは、教会員の自由な意志に任せると言っていますが、この話は、具体的には、貧しいエルサレム教会の人々を援助する話です。 つまり、6〜7節で言われていることの一つは、順番を逆にすれば分かり易いのですが、一つは、貧しいエルサレム教会を援助するについては、それぞれの自由だから、積極的に支援する人はしなさい、無理にする必要はありません。不承不承でやるのはあまり意味がありませんと言います。 そして、もう一つのことは、多く種を蒔く人だけが豊かな収穫に与るのですよ、という話なのです。 ★ そうしますと、失礼な言い方かも知れませんが、使徒パウロの本音はこういうことになります。嫌々ではなくて、積極的に献金し、エルサレム教会を支えましょう。 それが本音です。 そして、信仰生活そのものについても、同じことが言えるのです。 『各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めた とおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。』 人に強いられて嫌々ではなく、自らの意志で行うことが、大事なのです。 ★ 8節。 『神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、 あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに 満ちあふれさせることがおできになります。』 充分な、むしろ、分に余るものを豊かに与えられているという前提で、この話は展開しています。 『あらゆる恵み』とは何のことでしょうか。それは、贅沢な生活が出来るような収入という意味ではありません。どんな楽しみも出来るような健康という意味でもありません。『善い業に満ちあふれる』のに、十分なものということです。 直接には、貧しいエルサレム教会を援助するのに事欠かない収入ということでしょう。しかし、これが信仰生活全般に重ねられています。 ★ 昔のことですが、ある教会員がこのように祈った言葉を、私は忘れることが出来ません。 「神さま、礼拝に出席出来る健康を与えて下さいましたことを感謝します。こうして献金できる収入を与えて下さいましたことを感謝します。」 この人は、それがやっとだったのです。やっと教会に出て来られる程度の健康状態、そして、何とか今日の礼拝献金を献げることが出来る、そういう暮らしぶりだったのです。 ★ 逆にこんな例もあります。 ある教会員と道端で会いました。この人は、もう20年以上も教会に来ていません。しかし、先週の礼拝をどうして休んだか、明日の礼拝にどうして出られないか、弁明を始めるのです。 この人は、10年も20年も神さまに言い訳しながら、生きて来たのでしょうか。 まあ、言い訳しなければならない気持ちがあることは、全く忘れているよりは良いかも知れません。 ★ 9節。 『「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。 彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。』 詩編112編9節の引用です。 使徒パウロは、この詩編をキリスト預言として捕らえています。 単に慈悲深いということに留まるのではなく、イエスさまの十字架に重ねているのです。 イエスさまは、私たち人間のためには、惜しむことをなさらなかった、その命さえも与えて下さった。それなのに、私たちは、何を惜しむのかという意味です。 ★ 10節。 『種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、 あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を 成長させてくださいます。』 勿論イエス・キリストのことです。 そして、種とは、信仰そのものであり、かつ、信仰の実つまり愛のことです。 また、キリストに与えられたタラントだと受け止めることが出来ますでしょう。 この箇所だけではありません。種、信仰、タラント、これらは、究極一つものなのです。 ★ 11節。 『あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、 その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。』 これは、とても大事なことだと考えます。 何時の頃からか、教会に限らず、世間一般でも、施しでは駄目なのだ、上から目線では駄目なのだ、苦しむ人と同じ所に立って、そうして初めて手を引くことが出来る、そんなことが言われます。まあ、その通りかも知れません。 しかし、一方で、無い袖は振れないと、昔から言われます。 正に、憐れみの心があって、分け与えられる余裕があって、初めて慈悲は成り立ちます。 お金のことだけではありません。 神さまの業に感謝する者が、初めて、他の者に目を向けることが出来るのです。 共に生きると言う考え方を否定しませんし、一面の真理があると思いますが、昔流の慈悲という考え方もまた真理なのです。 特にお金のことではなく、信仰のことではそうではないでしょうか。 ★ 12節以下では、エルサレムの人々への援助のことが、具体的に述べられています。 『なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、 神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。』 これは、極めて具体的で、そして、事実だと考えます。 あまり詳しくお話するのははばかりがありますが、実例を幾つか知っています。あまり大きいとも言えない教会が、大胆にも開拓伝道を目指しました。自分たちだけだってやっとなのにと反対意見があり、途中は省略しますが、結局教会は二つに分かれました。まあ、開拓伝道は、株分けという仕方で行われることが多いので、必ずしも教会分裂ではありません。しかし、時間が経った時に、積極的に開拓伝道に向かったグループの教会は、まあまあ自立してやっていける教会にまで成長し、そして反対した教会は、痩せ細っていったのです。 そんな事例を、私は三つばかり数えることが出来ます。 特に伝道のことに関して、他の教会を助けることは、むしろ、我が身を養うことです。 ★ 13節。 『この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、 あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、 自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、 神をほめたたえます。』 この通りです。この理屈は、現代でも通用するのです。 奉仕の業、神さまの業に参画し、具体的に働くことでこそ、信仰は養われるのです。 ★ 14節。 『更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、 あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。』 『あなたがたを慕い、あなたがたのために祈る』 これが報い・報酬です。 実益が出るとか、名誉になるとか、いろんな報酬がありますでしょうが、『あなたがたを慕い、あなたがたのために祈る』このことこそが、報い・報酬です。 ★ 15節。 『言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。』 これも全くこの通りです。 ★ ここのところ献金の話が続いています。二コリントを順に読んでいる結果ですので、仕方がありません。献金の話は嫌われるとしても、牧師として逃げる訳にはまいりません。 但し、このことは念を押したいと思います。パウロは献金という、ごくごく具体的な業を通して、信仰そのものを語っているのです。献金を集めるために信仰や聖霊という言葉を用いているのではありません。 エリナー・フアージョンの『麦と王様』の中にこんな話があります。両親を失ったかわいい孫娘のために、祖父は出来るだけのことをしたいと思います。何より、自分がいなくなった後に困らない財産を残したいと考えます。ために、貧しい村人から借金を取り立てるのに容赦ない仕打ちをします。しかし、祖父の冷酷な仕業に、孫娘は顔をくもらせ、時に同情して泣きます。逆に貧しい人々お金を恵むと、孫娘は天使のように微笑みます。 この笑顔を見たさに、祖父は、次々と施しをします。いつの間にか、全ての財産を使い果たして、祖父は亡くなりました。 そのときに、恩義を受けた村人は、こぞって孫娘を助け、慈しんだというお話です。 ★ 真逆の話もあります。小林よしのりの漫画『お坊ちゃまくん』にこんな場面があります。世界一の大富豪である『お坊ちゃまくん』の家に忍び込んだ泥棒が捕らえられ、刑罰が下されます。それは、『お坊ちゃま』家の大金庫、大きな部屋ほどもある大金庫に金銀宝石札束がうなっています。泥棒は、この部屋に閉じ込められ、出られません。有り余るお金と共に居ながら、一円も使うことは出来ません。 これが『お坊ちゃま』家の大金庫刑です。 金庫刑の刑罰に遭っている人は、案外少なくないかも知れません。 「天(あめ)に宝積める者は」という讃美歌があります。この天に積む宝が何かが問われます。金銭のことではありません。信仰の実、愛、それこそが、天に積むべき宝です。 |