日本基督教団 玉川平安教会

■2021年5月30日 説教映像

■説教題 「顔の覆いを除かれて
■聖書   コリントの信徒への手紙二 3章4〜18節 

★ 今日の箇所は、いろんな意味で解釈が難しい所です。いろんな意味と言いますのは、第1に、論理展開が複雑です。第2に、歴史的と言いますか、旧約聖書的な背景があって、それを踏まえて読まなければなりません。しかも、旧約聖書的な背景とは、単純に旧約聖書の引用のことではありません。第3に、…そして第4も第5もありそうですが、あんまりそういうことばかり話しておりますと、、拒否反応が生まれてしまいそうですので、このくらいに留めておきます。

 とにかく、一筋縄では行きませんので、あまり、話がもつれないように、なるべく単純化してお話しします。何もかもお話しするのではなくて、一つのことに絞ってお話致します。

 ために、変則的ですか、今週と次週と2回に分けて説教したいと思います。


★ 先ず7節と13節をご覧下さい。

 7節。

 『ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、

   モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、

   イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば』 

 13節。

 『モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、

   自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。』

 出エジプト記の34章29節以下に記された出来事を踏まえて述べられています。しかし、これは、全くパウロ独特の解釈に基づくものです。とうてい一般のユダヤ人の受け入れられるような解釈・説明ではありません。

 どういうことかと言いますと。モーセは、直接に神さまにお目にかかって、直接に御言葉をいただきました。それをユダヤ人に取り次ぎます。

 この際に、神さまに出会ったモーセは、分かり易くいえば、神さまの栄光・神さまの光を反映して、あたかもモーセ自身が光り輝いているかのように見えました。ユダヤ人は、まぶしすぎて、モーセの顔を直視出来ない程でした。ために、モーセは、神さまに会った後は、自分の顔に覆いを掛けてからユダヤ人に会ったというのです。勿論、神さまはそれ程にまぶしい輝きに充ちた方なのだと言っています。


★ このことは、大変大事なことだと考えます。私たちはこのことを忘れがちです。

 ユダヤ人は、神さまの顔を直接見たら死んでしまうと考えていました。私たちは、太陽の光を直接に見たら駄目だと知っています。目に悪い、日食の時でさえ、つまり、太陽の多くの部分が隠れてしまっている時でさえ、太陽を直視したならば、目を痛めます。特別のガラスを使って、目に入る光を加減しなくてはなりません。

 同様に、神さまの輝きを直接見てしまったならば、目が痛むどころか、命そのものさえ損なわれてしまうと、ユダヤ人は考えました。

 逆に言えば、この地上の生涯を終え、神さまに命をお返しする時が、神さまの御顔を直接見ることが出来る時なのかも知れません。神さまに直接お会いできる時なのかも知れません。

 私たちはこの感覚を忘れています。神さまの輝き、栄光、威厳、その大きさを忘れてしまっています。


★ このことは教会にも、礼拝にも全く当て嵌まります。この頃は、開かれた教会とか、アットホームな教会ということが強調されます。勿論そのことに間違いはありません。しかし、この点ばかりが強調されて、教会の神聖、礼拝の尊厳が忘れられてしまうと、最早、教会の存在理由が失われるのではないでしょうか。

 常に開かれていて、誰でも、何時でも出入り出来る、結構なことです。しかし、そういう場所ならば、無数にあります。寝泊まりさえ出来ます。コーヒーも付きますし、ビデオも見放題、そういう所と比べたら、教会はお粗末な施設・設備でしかありません。


★ ところで、神社の境内は昔からオープンです。子どもの遊び場でした。お寺でもそういう所があります。

 しかし、神社やお寺には、絶対に人が入ることの出来ない聖域があります。氏子や檀家でも入ることの出来ない聖域があります。ややもすれば、神主やお坊さんでも、やたらには入れない聖域があります。

 聖域があるからこそ、他の場所をオープンに出来るのです。


★ もう四半世紀も前のことですが、あるローマカトリック教会の献堂式に招かれて出席しました。大伽藍という程の大きな礼拝堂ではありません。講壇もたいして広くはありません。玉川平安教会の倍くらいでしょうか。そこに10人以上もの祭司が立ち、献堂の祭儀を執り行いました。きらびやかな衣装をまとった祭司が、文字通り、こぼれ落ちそうでした。

 その後、お茶の会になりました。司会者は30代と見える青年、これがなんとジーパンにテイシャツでした。この落差に驚きました。そして、考えさせられました。

 ローマカトリック教会は末端の教会ではかなり自由な雰囲気があります。しかし、てこでも動かない部分・場所があります。末端の教会・信者が、どんなことを考えようが実行しようが、最重要なことは、ローの法王庁に絶対の決定権があり、個々の教会や神父の自由になるものではありません。

 逆に言えば、そのような絶対に動かないものが存在するから、他のことには融通が利くのです。絶対に動かないものが存在しないのに、絶対の権威がないのに、勝手なことをし始めたら、崩壊するだけでしょう。それが日本基督教団の現状かも知れません。


★ さて、問題はその後です。モーセは先程も申しましたように、自分で光っている訳ではありません。神さまから離れていると、神さまの光を反映したその輝きは、だんだんに薄れて来てしまいます。それを隠し、今でも、モーセの顔はまぶしく輝いていると見せかけるために、モーセは顔に覆いを付けたと、パウロはこのように言うのです。

 もう一度13節を読みます。

 『モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、

   自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。』

 何とも、悪意に充ちた批判です。しかも、聖書的根拠が十分とは言えません。ユダヤ教徒ならば、ただこの一点だけでも、パウロを許すことは出来ないでしょう。


★ それだけではありません。14節をご覧下さい。

 『しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、

   古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。

   それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。』

 旧約聖書のモーセの書に、覆いが掛けてあるのは、同じ理由に基づくのだと、こう言うのです。かつて程には輝いていない、もうまぶしい程ではない、モーセの書・つまり律法の書を、覆いを掛けて、まぶしい存在であるかのように、ごまかしていると言うのです。

 或いは、彼らの心の中に存在する覆いが、彼らの思いを鈍くしているとこう言うのです。

 これはユダヤ教徒に取っては許しがたい発言です。

 

★ 15〜16節。

 『このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、

   いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。

 16:しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。』

 これはもう、徹底したユダヤ教批判と受け止められても仕方がないでしょう。

 少なくとも、モーセの書を、つまり、律法を絶対視するユダヤ教的色彩の強い人々を、パウロはこのような激しい調子で批判し、全く退けているのです。


★ しかし、単純にモーセ批判なのか、何が、問題点なのか、見誤ってはなりません。

 1章からずっと、このことが問題になっています。あんまり話を拡げないように、今日の箇所に限定しなくてはなりません。3章6節。

 『神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、

  文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。

  文字は殺しますが、霊は生かします。』

 単純なモーセ批判ではありません。むしろ、モーセ主義者と言いますか、律法主義、更に言えば、形式主義、それが問題にされているのです。

 今日の箇所に限定しなくてはなりませんが、3章3節だけもう一度ご覧下さい。

 『あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。

   墨ではなく生ける神の霊によって、

  石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。』

 先週読んだ所ですし、簡単に結論だけ申します。

 この当時、推薦状を持って、教会から教会へと渡り歩く巡回説教者が存在しました。この中の或る人々は、自分は主の兄弟ヤコブを知っているとか、ペテロと懇意にしているとか、何々教会からのお墨付きを持っているとかと、自慢したのです。そしてこのような人に限って、パウロは実際にはイエスさまに会ったこともないとか、最初はキリスト教を迫害したとかと言ってパウロを批判しました。また、異邦人キリスト者を一段低い者のように見、何より、古いユダヤ教的なるものに拘泥して、真にイエス・キリストの福音に生きることをしません。

 そして、大変残念なことに、パウロから福音を伝えられた異邦人キリスト者の中には、この推薦状を持って、渡り歩く巡回説教者にころりと参ってしまって、やっぱり本場のキリスト教は違うみたいに信じ込んでしまった者が少なくなかったのです。それが、コリント教会の大混乱の原因だったのです。


★ 改めて、何が対立点なのか、それを見なくてはなりません。6節は、既に読みました。

 7節も読みました。8〜9節をご覧下さい。

 『霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。

  9:人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、

   なおさら、栄光に満ちあふれています。』

 この箇所は、他の箇所に見られるパウロの律法理解と同じです。律法は、人間の罪を暴き、人間を罪に定める、そういう理解です。

 それに対して、

 『人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄  光に満ちあふれています。』

 大胆に約めて言えば、モーセの役割よりもイエス・キリストの役割の方が重要だと言うことです。もっと簡単に分かり易く言えば、モーセよりもイエスさまが偉いということです。

 案外、この辺りが問題になります。

 コリント書でもローマ書でもそうですし、ヘブル書で、最も顕著です。何か他のものを、誰か他の人を、イエス・キリストよりも偉い者であるかのように考える、そう言う人が出てきます。それが、即ち異端です。

 イエス・キリストの十字架の他に、何か、救いにつながる道が有るかのように考える、教える、それが異端です。

 イエス・キリストの他に、誰かが居るように考える、教える、それが異端です。


★ 14節をもう一度見ます。

 『しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、

   古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。

   それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。』

 これは、勿論、当時のユダヤ教そしてその影響を免れることの出来ない人々への批判です。

 しかし、他人事のようにして聞くならば間違いです。

 何故ならば、私たちの心にも、このような覆いが残っているからです。このような覆いは、聖書や信仰をとても大事に守っているかのように見えながら、実は、一番肝心なことを覆い隠してしまう。そう言うことがあるからです。


★ 何を覆い隠してしまうのか。

 16〜17節を見れば分かります。

 『しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。

 17:ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。』

 ここで自由という今までの文脈では出て来なかった言葉が突然出て来ますから、分かりにくいのですが、これを無視して、前の方だけ読めば分かるような気がします。

 『主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります』


★ 私たちは、聖書に覆いを掛けて、大事に大事にしまって置いてはなりません。覆いを取り除き、開いて、読まなくてはなりません。それが本当の信仰者の姿勢です。少なくとも、プロテスタントの信者が、聖書に向かい合う姿勢です。

 今日の箇所の肝心な主題、新しい契約については、次週礼拝で読むことに致します。