◆ 今日の聖書箇所、小見出しの下に、他の福音書の並行記事が挙げられています。マタイ、マルコ、ヨハネ各福音書全部が挙げられています。当然でしょう。イエスさまの十字架の出来事において、決定的に重要な事柄です。これは、省略することは出来ません。 それぞれの記事を読みますと、強く特徴が出ています。これも当然でしょう。大事な出来事ですから、福音書記者の筆にも力が入ります。その結果、各福音書の間に、違いが出て来るのもやむを得ません。むしろ当然でしょう。 全部一緒に読みたいのですが、それでは時間が足りません。散漫にもなりますでしょう。他の福音書に触れることは最低限に抑えて、ルカ福音書を読みたいと思います。 ◆ 4つとも読みますと、ルカ福音書が1番分量も少なく、特徴もないように思います。こんな言い方は憚られるかも知れませんが、1番面白くありません。しかし、逆から見れば、ルカ福音書に記されていることこそが、この出来事の最も本質的な部分であり、最も、大事な部分だと言えましょう。4つの福音書に共通して描かれていることを中心にして、ルカ福音書で読みたいと思います。 ◆ 47節。 『イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、 十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた』 『ユダという者が』、妙な表現だと思い、気になりました。口語訳聖書でも、全く同じ翻訳です。ギリシャ語を見ますと、直訳は『ユダと呼ばれている人』です。大きくは変わりません。 マタイとマルコでは『12人の一人であるユダ』という説明になっています。これがヨハネですと、『イエスを裏切ろうとしていたユダ』という表現になります。そもそも、ヨハネでは、それ以前にユダが何故裏切ったのか、どんな手筈を採ったのか、他の福音書に比べて遙かに詳しく記されています。 ルカでは、12使徒の選び以降、ユダの出番はありません。だから、『ユダという者』という表現になるのでしょうか。22章1節以下にだけ、これはマタイ、マルコと共通ですが、裏切りの手筈を付けたことが、字数も少なく記されています。 裏切ったユダが、その後どのようになったのかということは、ルカには記されていません。つまり、何故、どんな経緯で裏切ったのか、そもユダとはどんな人物だったのか、ルカはあまり関心を持たないようです。 ◆ ルカの関心は、47節の末尾と48節です。 『十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。 48:イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた』 接吻云々はヨハネにはありません。マタイ、マルコにはありますが、比較して読むと、ルカが、このことに拘りを持って描いているのが分かります。 『ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか』この言葉は、ルカだけのものです。 こういうことに拘りますと、多くの人には話が煩わしくなります。また、徒に長くなりますので、最初に申しましたように、他の福音書には触れずに、ルカに絞って読んでまいります。 ◆ マフィアズ・キッスという言葉があります。昔々、そういう題のベストセラー本がありました。巷間囁かれながら、公にはそのような組織は存在しないと否定されていた時に、マフィアの実態が暴露された次第を描いたノンフィクションでした。 その中に、マフィアのドンが、殺しの合図として、相手にキッスをするという場面がありました。これは、後に、『ゴットファーザー』の映画にも踏襲され、有名になりました。 ◆ 表面では親愛の様子を見せながら、実はその人を殺せという合図になります。勿論、ユダの接吻が元です。マフィアズ・キッス、表面と中味が真逆、親愛の情を表す挨拶が、殺人の合図になるというギャップを、ルカ福音書は、特に強調しています。 その矛盾に満ちた行為が『十二人の一人』、使徒によってなされました。『十二人の一人』であると、マルコもルカも記していますが、『先頭に立って』と記しているのはルカだけです。 こともあろうに『十二人の一人』、使徒たる者が、親愛の様子を見せながら、実は、イエスさまを売り渡そうとした。ルカは、このことを強調しています。 それが『ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか』という言葉です。 ◆ これ以上、各福音書の記述の違いに拘る必要はありません。裏切りの接吻が、特にルカで強調されていることはおわかりいただけたと思います。 テサロニケ一5章26節。 『すべての兄弟たちに、聖なる口づけによって挨拶をしなさい。』 初代教会では、信徒の間の信頼を表すのが、接吻でした。ユダの接吻は、初代教会の信仰の交わりを、全く否定するものとして受け止められたのでしょう。 ルカ福音書は、この人が使徒言行録の著者であることからしても、初代教会の様子、関心を強く反映していると見ることが出来ます。ユダの接吻は、イエスさまを十字架に架けた裏切りの行為であり、同時に初代教会の信仰への裏切り行為なのです。 ◆ ルカの時代、ルカの教会で、このような裏切りが現実に起こったのではないでしょうか。 ルカ20章22〜25節。 『22:ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、 適っていないでしょうか。」 23:イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。 24:「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」 彼らが「皇帝のものです」と言うと、 25:イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」』 信仰を選ぶのか、それともローマ皇帝の肖像が刻まれた銀貨を選ぶのか、これは初代教会の信仰者にとって極めて現実的な問題、難問だったと思います。 ◆ 49〜50節。 『49:イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、 「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。 50:そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。』 耳を切り落としたのは、ヨハネ福音書ではペトロの仕業で、マタイ、マルコ、ルカでは名前は上げられていません。 ヨハネとルカでは切り落とされたのは、右の耳と特定され、マタイ、マルコでは片方の耳とあります。推理小説だったら、右の耳と特定されたら、犯人は右利きとなります。左の耳なら左利きに違いありません。 推理小説だったら重要な手掛かりですが、しかし、この場面では些末なことに過ぎません。 ◆ 肝心なことは、この点だと考えます。『主よ、剣で切りつけましょうか』と、人々が問うたのに、イエスさまは『そうしなさい』とは答えていません。にも拘わらず、つまり、イエスさまの答え・指図を待たずに剣を抜き、切りつけた人がいました。 この人の行為は、イエスさまを守ろうとする思いからの、一瞬の判断の下になされたと見るならば、信仰的な行為と評価されるかも知れません。しかし、イエスさまの答え・指図を待たずに行ったと見るならば、不信仰な行為と見做されるかも知れません。 ヨハネ福音書だけが、ペトロの仕業としています。では、著者ヨハネは、ペトロの行為を評価してこのように描いたのでしょうか。それとも逆でしょうか。 分かりません。最初に申しましたように、この重大な場面で各福音書の描写が異なるのは、それぞれに強い思い入れがあるからです。 ◆ 何れにしましても、51節。 『そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。』 ヨハネ福音書では、 『イエスはペトロに言われた。 「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」』 マタイ福音書では、 『こで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。』 マタイが1番有名で、多分好まれるでしょう。『剣を取る者は皆、剣で滅びる』、聖書の中でも名言に数えられる言葉です。 またまた福音書間の違いに言及しています。これだけに留めます。 ◆ ルカでは、『やめなさい。もうそれでよい』とあります。耳を切り落とした行為は、全く否定されてはいません。しかし、『やめなさい。もうそれでよい』。とても現実味があります。 先ほど触れましたように、信仰を選ぶのか、ローマ皇帝の肖像が刻まれた銀貨を選ぶのか、ということは初代教会の信仰者にとって極めて現実的な問題、難問だったと思います。今日の私たちには想像を超える程の、二者択一だったと思います。 同時に、剣を手に取って戦うのか、戦わずして捕らえられるのかということも、現実的な問題だったと思います。 ルカ福音書が記された時代、それは、ローマ帝国による組織的な弾圧が始まり、多くのクリスチャンが命を落とした時代です。 ◆ 52節。 『それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。 「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。』 『まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。』 彼らは、イエスさまに向かい合うのに、『剣や棒を』そして、47節に記されているように、『群衆』を頼りとしました。これは、自分たちの主張、自分たちの戦いが、信仰上のことではないという証拠です。自らそのように認めたのと同じことです。 彼らの戦いは、『剣や棒を』そして数を頼みとした、世俗の戦いに過ぎません。 信仰上の戦いだったならば、武器を用いてはなりません。武器を用いた瞬間に、それは、信仰上の事柄ではなくなってしまいます。 ◆ 何故剣を取ってはならないのか、確かにヨハネ福音書が言うように、『剣を取る者は皆、剣で滅びる』、これが正しいでしょう。しかし、更に言うならば、武力では適わないからではありません。武力に頼ったら、最早信仰上の戦いではないからです。 使徒ペトロも使徒パウロも、福音書記者ルカも、ユダヤ教律法主義や、ギリシャの宗教つまりギリシャの神々と戦い続けました。一歩も引くことはありません。そして、3人に共に、十字架に架けられて殺されました。しかし、彼らの伝えた福音は、やがてローマに浸透し、ローマ帝国もこれを容認し、ついには国教としなくてはなりませんでした。 つまり、教会は、ローマ帝国との戦いに勝利しました。 信仰の戦いだったからです。世俗の戦いではなかったからです。 ◆ 36節と38節。 『36:イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って 行きなさい。 袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。』 『38:そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、 イエスは、「それでよい」と言われた。』 これまで申し上げたことと全く矛盾する印象があります。 矛盾ではなく、むしろ現実です。イエスさまは、剣を必要とするような事態が起こると預言したのだし、果たしてその通りになりました。決して戦いは起こらない、とは言っていません。しかし、逆に言えば剣は二振りで十分です。それ以上の戦いは剣では適いません。 そして、耳を切り落としたことについても、全く間違いだと否定されていません。『「やめなさい。もうそれでよい」』と言われました。 戦うことを否定したのではありません。むしろ、剣よりも大事な武器があると言われているのではないでしょうか。その武器とは『癒やし』です。51節。 『「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた』 この『癒やし』武器こそがです。剣で傷つけてくる者に対して、『癒やし』で戦うのが、信仰です。そして『癒やし』こそが、戦いに勝った印です。 ◆ 53節。 『わたしは毎日、一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。』 信仰の事柄ならば、『神殿の境内で』戦うべきでした。勿論、武器ではなく、主の言葉をもってです。祈りをもってです。 律法学者・ファリサイ派は何度もイエスさまに論争を仕掛けました。しかし、それは、本当に対話するためではなく、論争するためでさえなく、ただ罠に落とす為のものでした。そういう彼らだから、最後には『剣や棒を』そして数を頼みとしました。 後日読むことになりますが、剣の話が出て来る2つの箇所の真ん中に、『オリーブ山の祈り』の出来事が記されています。イエスさまは、弟子たちに祈りという武器を授けようとなさったのではないでしょうか。しかし、弟子たちは、眠りこけ、祈ることが出来ませんでした。 剣の話の間に、祈りの話が挟み込まれているのは、私には偶然とは思われません。 |