★『終わりに、兄弟たち、喜びなさい』 『終わりに』とは、おまけという意味ではありません。むしろ、これまでに述べたこと全てを論拠にして、結論を述べるという意味でしょう。 『喜びなさい』、この言葉が命令形なのか、そうではないのかなどということには、全く拘る必要はありません。文法的に何形であれ、『喜びなさい』と言われている事実が大きいと思います。『喜びなさい』の一つ手前は、喜んでも良いでしょうか。そんな風に考えてしまいます。 教会を、礼拝を、喜んで良いし、むしろ『喜びなさい』です。 ★ あくまで私個人のことに過ぎないかも知れませんが、私は、どうも教会の仕事のことで苦しみ、ヘトヘトに疲れると、少しは神さまのご用をしたように満足感を覚えます。それも、肉体労働とか事務仕事とか、目に見えて成果が上がることをすると、とても充実感を覚えます。 逆に言うと、楽しいことに出会うと、何だか、申し訳ないような気持ちがつきまといます。あまりに楽しいと、大げさに言えば罪意識さえ覚えます。 ★ 私事が続きます。最初の任地大曲教会では、辛い仕事がたくさんありました。冬場、日曜日の朝は5〜6時に起きて、先ず雪かきをします。前日大雪が降った後などは、玄関前の雪をどけるだけで、1〜2時間かかります。除雪車がはねのけた雪が玄関前に山のようになっているからです。それから、礼拝堂等のストーブを焚き付けます。これも手こずり30分以上かかることもあります。なかなか言うことを聞いてくれないストーブを蹴飛ばしたこともあります。その他もろもろ、雑用、力仕事満載です。 その一方で、教会学校の子どもたちと遊ぶのは、本当に楽しいことでした。10人足らずの生徒ですが、未だ独身でしたし、平日も毎日、我が家のように出入りしていました。自宅がリフオームされる間、2週間も牧師館に寝泊まりした子もいました。 ★ 次の白河教会では、無牧師の後でした。400坪ある敷地は荒れに荒れていました。 9年間に、建物が建っていない場所は全部掘り返しました。花壇を作り、ぬかるみに敷石を置き、あじさいを70株、バラを24本植えました。 予算が全くありません。埋め立て地で、土もありません。教会の墓地から落ち葉を拾い集め、腐葉土を作り、僅かな土をふるいにかけて、そんな重労働でした。 車がありませんから、全て自転車で走り回ります。おかげて、ひ弱だった体が、競輪選手の様に太い足になりました。 ★ その次の松江では、赴任間もなくから会堂建築の大事業に取りかかり、建築を決議した翌日から1ヶ月入院しました。 一方、松江の自然を楽しみ、今でも、老後を過ごすべく一人でも、もう一度松江に住みたいと懐かしむ程の愛着を持っています。 たくさん並べ立ててしまいましたが、要するに、どの土地でも、どの教会でも、辛いことがあり、一方、楽しい想い出になることがありました。どの教会の教会員とも、未だに、往来があります。振り返れば、楽しい牧師生活を与えられました。 今となっては、その時々に、不平・不満が多かった、つぶやきが多かったことが悔やまれるだけです。もっと、その時々に心から喜び、感謝していたら良かったと思うだけです。 ★『兄弟たち、喜びなさい』、喜んで良いと言われています。教会の中で、楽しいことを体験しても良いと言われています。勿論、これは次々とアトラクションが続くことではありません。しかし、喜ぶことが許されている、むしろ喜びなさいと言われている、これはとても大事なことだと思います。教会での喜びが、楽しい想い出が、信仰者を育てるのではないでしょうか。 詩編42編2〜6節。少し長い引用になります。 『02涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。 03神に、命の神に、わたしの魂は渇く。 いつ御前に出て神の御顔を仰ぐことができるのか。 04昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う 「お前の神はどこにいる」と。 05わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす 喜び歌い感謝をささげる声の中を 祭りに集う人の群れと共に進み 神の家に入り、ひれ伏したことを。 06なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。 わたしはなお、告白しよう 「御顔こそ、わたしの救い」と。』 私たちも同様です。教会での楽しい想い出が、苦しい日々を、そして信仰そのものを支える力となります。 ★『完全な者になりなさい』は、後回しにします。 次の『励まし合いなさい』。聖書研究祈祷会で先月から読んでいるヘブライ書でも、この言葉が出てきました。 苦しいことに出会ったときに、この苦しみを周囲の誰も知らないことが、更に苦しみを増します。この苦しみは、他の誰にも分からない、こういう思いが、自分を苦しめます。孤独は、病を重くします。 苦しみを打ち分ける相手がいることは、大きな慰めです。前任地の玉川教会で、最後の年に『がん哲学外来カフェ』が立ち上がりました。この話をしたらきりがありませんので省略しますが、同じ病に苦しむ者が互いに寄り添う時と場所を、教会が提供しました。 涙を流しながら、苦境を語り、しかし、慰められたと喜んでくれた教会員の夫の顔が忘れられません。この人の葬儀を執り行いました。 信仰生活を続ける上でも、『励まし合いなさい』は、決定的に大事な言葉だと考えます。申し上げるまでもない。玉川平安教会の方々は、『励まし合』って、苦しい時を乗り越えた体験を持っています。『励まし合』ったから、苦しい時を乗り越えることが出来たのだと思います。 引用した詩編も同じことです。『祭りに集う人の群れと共に進み 神の家に入り、ひれ伏したことを』、共に礼拝を守る信仰の仲間だけが、信仰を支えてくれます。 ★『思いを一つにしなさい』 この言葉については、少し脱線しても、丁寧にお話ししなくてはならないと考えます。 『思いを一つにしなさい』、ではどうしたら一つに出来るでしょうか。よくよく議論して結論を一つにまとめ上げることでしょうか。それも大切でしょう。 お互いに譲りあって、妥協点を見つけることでしょうか。それも大切でしょう。 しかし、より大切なことは、むしろ『思いを一つに』出来ること、『思いを一つにしな』ければならないことに集中することではないでしょうか。 ちょっと乱暴な言い方をすれば、『思いを一つに』出来ないことは、無理にしなくてもよろしいのではないでしょうか。時を待つことも出来ますし、諦めることも必要でしょう。 ★ いろんなことを諦め、誰にとっても本当に大事なことだけに集中する、それが大事だと思います。教会では、本当に大事なことは、一つしかありません。 礼拝を守ることです。私たちは、コロナ禍のもと、これを強いられました。礼拝を守るのがやっとで、他のことは出来ませんでした。 その前2年間で盛んになった、愛餐会やコーヒータイムといった、お交わりの時を奪われました。 それでも、私たちは未だ恵まれた方で、教会によっては、礼拝を休まざるを得なかったり、牧師と奏楽者だけで礼拝を持ったり、隔週の出席にして、礼拝出席を半分にし、ディスタンスを保った教会もあります。 このことは教会にとって、大きな痛手となりました。コロナの後、後遺症が残るのではないかと心配しています。つまり、コロナ終熄と共に、出席出来なかった人が帰って来るのか、帰って来れなくなってしまうのではないか、心配があります。 しかし、大胆に言えば、この試練は、礼拝に出席出来た人にも、出来なかった人にも、礼拝の大切さ、礼拝に与る喜びを、改めて教えてくれました。 この機会に与えられた恵みを数えたいのですが、主題から外れますので、省略します。 ★『平和を保ちなさい』 『平和を保』つ努力をしなさいと言うことでしょうか。そうだとすると、『思いを一つにしなさい』と重ねて、また、徹底的に議論しなさいとか、逆に譲り合いなさいと言う話になってしまいそうです。それも大事かも知れませんが、やはり、教会になくてはならない一番大事なものを共有することによって、平和は得られると思います。 人には好き嫌いがあります。興味のあるなしがあります。イヌ派とネコ派がいます。多くの人は、根拠なしかも知れませんが、爬虫類を嫌います。少なくとも苦手な人が多数です。しかし、大好きと言う人もあります。 ★ 全教団議長の山北牧師は、熱烈なタイガースファンです。阪神が優勝した時には、感謝献金をしたと聞きました。タイガースファンは熱烈で、優勝祈願の祈祷会を持った牧師もいます。友人の牧師です。 山北牧師の前の小島教団議長は、カープファンです。と言うよりも、猛烈なアンチジャイアンツです。ある時、小島先生から、本が2冊送られて来ました。近著を贈っていただいたのかと開きますと、何と、『くたばれジャイアンツ』と、それに類した本2冊でした。 小島先生が、私を評して言います。「私は竹澤君の働きを大いに評価しているよ。しかし、ジャイアンツファンなのは、何とも理解出来ないし、評価出来ない」 私が牧師の世界で最も信頼するのは小島牧師です。優しく、バランスが取れていて、かつ情熱があり、何より誠志の名前通り、誠意の人です。しかし、この熱烈な広島ファンぶりは、「何とも理解出来ないし、評価出来」ません。 因みに、私は必ずしも、ジャイアンツファンではありません。長島ファンなだけです。 ★ 皆が折り合いを付けて、『平和を作り出す』ことなど、困難です。それは、野球ファンの平和を保つために、6教団順番に優勝しましょうと言うくらい、非現実的です。 しかし、どの球団が優勝しようが、とにかく野球そのものが好きだという人が多いと思います。それが本当の野球ファンです。 教会も同じでしょう。多少の考え方の違いはあっても、教会が大好き、礼拝なしでは、生活が成り立たないという人に依って、教会は成り立って来たのです。 私の考えが入れられれば教会が好きだけれども、私の意見が入れられないならば嫌いだではありません。 ★ 『そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます』 条件のように述べられていますが、条件と言うよりも結果です。 むしろ、条件と結果が逆のような気がします。 『愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます』から、私たちは、『喜び … 完全な者になり … 励まし合い … 思いを一つにし … 平和を保』つことが出来るのだと考えます。つまり、私たちが心がけ、絶対に忘れてはならないことは、『愛と平和の神が … 共にいてくださ』るという信仰でしょう。この信仰だけでしょう。 後回しにした『完全な者になりなさい』こそ、この思いこの信仰なしには、絶対実現できないでしょう。 ★ 12節。 『聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい』 これは困ったと、私なら思います。 以前に出席した超教派の集会で、突然これが強いられ、弱ったことがありました。私は何も言わず、そっと部屋を抜け出しました。 教区のある集会では、隣の人と握手して下さいと言われました。私は照れくさくて嫌なんですが、これは拒めないと思い。それに応じました。隣の席のご婦人は、ニコニコして、握手の手を差し出しました。握手しました。終わったら、この人は、直ぐにウエットテッシュを取り出して、自分の手を丁寧に拭きました。 … コロナ前の出来事です。 ★ 13節。 『主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、 あなたがた一同と共にあるように』 毎週の礼拝で唱えられる祝祷の言葉です。ここだけで説教しなくてはならない程の、意味が、重さがあると思います。しかし、それはかないません。他の機会に譲りたいと思います。ただ、このことを申します。この祝祷を受けた者が、争い合い、貶し合い、戦い合う筈がありません。それは、この祝祷を受けていない人の業です。 |