日本基督教団 玉川平安教会

■2021年9月12日 説教映像

■説教題 「弱さをこそ誇る

■聖書   コリントの信徒への手紙二 11章16〜33節 


▼ 20節から先に読みます。

 『あなたがたはだれかに奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても、

   横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても、我慢しています。』

 極端とも思われることが記されていますが、少しも大げさな表現ではないかも知れません。教会のためならば、あらゆる試練に耐える、どんな要求にも応える、それが信仰だと考える人はいました。神の名前のために、非道なことに遭うと、むしろ信仰的な喜びを感じる、そんな教会があり、信者がいました。歴史的な事実です。


▼ カタリ派と呼ばれる教会がありました。ローマ教皇庁によって徹底的に弾圧され、火あぶりにまでされましたから、その実態は正確には、分かりません。肉体物質は、精神・聖霊を閉じ込める牢屋のようなものに過ぎないとして、自分の肉体をいじめ抜くという修行を持っていたようです。

 この歴史的継承者・生き残りなのか、それともカタリ派を語るだけなのかは分かりませんが、2012年には、かつてカタリ派が盛んだった地で、この世の終わりが説かれ、世界中から人が集まるという珍現象がおこりました。小惑星が地球に衝突するが、この地に集まって、ユーホーに乗せて貰えば助かると、とんでもないデマが流れました。

 幸い惑星が衝突することもなく、村も無事でした。

 このカタリ派は根強い人気があり、幾つかの小説の題材になっています。残念ながらろくなものではありません。日本人も書いています。そのうちの一つはなかなか読み応えがありますが、カタリ派そのものを喧伝したくないので、題名も作者も上げません。


▼ 鞭打ち教徒という存在もあります。今日のような疫病の爆発的感染があると、これに伴い、どこからか湧き出して来るようです。人の罪が、この惨禍を招いたと考え、自分の体の中から罪を追い出すために鞭打ちます。自分を打っているうちは良いのかも知れませんが、これはやがて、魔女狩りやユダヤ人排斥に繋がってしまいました。

 キリスト教の世界だけではありません。原始的・迷信的な宗教がはびこる所では、同じ現象が起こります。恥ずかしながら、我が郷土、秋田では、つい最近にもそんなことが起こりました。狐が憑いたとして、家族や村人が、箒などで人を叩き、結果、殺してしまいました。福島の教会、曲がりなりにも教会なのですが、同じようなことが起こりました。

 自分の体や心をいじめ抜くことが信仰なのでしょうか、私には全く理解出来ません。インドでは、聖地とされる土地まで巡礼に出ます。これでは生温いと、歩いてではなく、足を使わず、這っていく人があります。さらには、足を切り取ってしまう人がいます。

 これが信仰でしょうか。そんなことを要求し、従えば喜ぶ神さまがいたとしたら、その神さまの名前は、悪魔と名付けたいと思います。


▼ 諄いかも知れませんが、もう少しこの話題を続けます。白河教会の後半から、松江北割り教会の前半頃、しばしば、統一原理信者の救出活動に拘わっていました。必要に迫られて、かれこれ30件近く関係したでしょうか。

 そのうちの1例です。プライバシー問題がありますから、詳細は略します。ある20歳代後半の女性を説得していた時のことです。聖書の解釈や原理講論の矛盾といった話が続いた後、理屈では抵抗出来ないと考えたのか、彼女は、こんなことを言います。

 「信仰は理屈ではないでしょう。知識ではないでしょう。」

 「まあ、そうですね」

 「私は、お父様 … これは原理の教祖のことです … お父様のためならいつでも死ねます。牧師さんのために死ぬ信者さんはいますか」

 「それは、1人もいません。」

 そうしましたら、彼女は勝ち誇っていました。牧師さんの教会には、本当の信者は1人もいないのですね。


▼ まともな教会には、牧師さんのために死ぬ信者さんは1人もいません。当たり前です。それは信仰が弱いからではありません。牧師はそんな要求はしません。そもそもイエスさまは、そんな要求はしません。

 要求しているかのように見える箇所は、確かにあります。マルコの8章とか、しかし、皆、強調点、本来の意味が違います。いちいち取り上げる時間がありませんので、詳細は略しますが、全部の箇所について反論できます。

 イエスさまは、人間の犠牲を求めたりしません。真逆です。これは、具体例を一カ所だけ上げます。説教の中で、しょっちゅうお話する箇所です。

 マルコ福音書14章29〜32節。

 『29:そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。

   「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、

 30:十字架から降りて自分を救ってみろ。」

 31:同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、

  代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。

 32:メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。

   それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、

  イエスをののしった。』 


▼ 私たちが信じるイエス・キリストは、自分の利益のために人間の命を犠牲にする神さまではありません。人間のために、自ら十字架に架けられ命を捨てられた神さまです。

 私は、この十字架の神さまを信じます。この十字架の神さまだけを信じます。

 どうして、人は、十字架の神さまから離れ、犠牲を要求する神さまに走るのでしょうか。 それは、目には見えない方、自分の掌に持つことが出来ない神さまは信じられず、自分の掌の重みに信仰の証拠を見ようとするからではないでしょうか。

 旧約時代の昔の人は、金や銀で作られた神さまを拝み、大きく重ければありがたいと考えていました。このような人にとっては、掌よりも、体全体で重さを感じ、体全体で痛みを感じる方が、確かさが増すのかも知れません。


▼ 前置きに過ぎないものが、大変長くなりました。17〜18節に戻ります。

 『わたしがこれから話すことは、主の御心に従ってではなく、

   愚か者のように誇れると確信して話すのです。

 18:多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう。』

 何だかややこしい表現ですが、簡単に言えば、自分の土俵ではなく、あなた方の土俵で相撲を取りましょうと言っています。本当は嫌だ、そんな土俵には立ちたくない、しかし、仕方がないから、歩み寄って、あなた方の土俵に立ちましょうと言っています。


▼ 19節。

 『賢いあなたがたのことだから、喜んで愚か者たちを我慢してくれるでしょう。』

 これは勿論、強烈な皮肉です。何でもかんでも我慢してしまうあなたがだから、これから言うことも我慢して聞くでしょうという意味です。

 そして20節になります。もう一度読みます。

 『あなたがたはだれかに奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても、

   横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても、我慢しています。』

 この人々は、我慢することに、耐えることに美学を見出していたのでしょう。それが信仰だと考えたのです。教えられたのです。苦悩が多ければ、それが救いの保証になると教えられたのです。


▼ 統一原理を抜けたというよりも、放り出された中年女性に会ったことがあります。原理ではままあることですが、若い女性は役立ちますが、中年になると利用価値がありません。まして、病気になったりすると、捨てられます。他に行く所もないから、結局実家に帰ります。

 そのような目に遭っても、原理を恨む呪うではなく、自分はもうお父様の役に立たなくなったと、自分を責め、苦しむのです。

 嘘みたいに聞こえますでしょう。しかし、全くの事実なのです。マスコミは全く報道しなくなりましたが、今でも統一原理の被害は続いています。


▼ 21節。

 『言うのも恥ずかしいことですが、わたしたちの態度は弱すぎたのです。

   だれかが何かのことであえて誇ろうとするなら、

  愚か者になったつもりで言いますが、わたしもあえて誇ろう。』

 『わたしたちの態度は弱すぎたのです』

 パウロは知恵ある人に語るように、理性ある人に語るように、話し続けました。それは間違いだったのかと言います。

 先々週の説教で触れましたように、知恵のない者に語るように、理性ない者に語るように、話すべきだったのかも知れないと言います。

 何より、優しく話すべきではなく、恫喝的に話すべきだったかも知れないと言います。それならば、聞いて貰えるからです。


▼ 21〜27節は、長いので読みませんが、パウロが体験した苦難が列挙されます。また同時に、ユダヤ教的な価値観から言えば、パウロはエリート中のエリートだと言います。どれも、全くの事実です。

 パウロはそんな見せかけや肩書きで、福音を伝えようとはしませんでした。そんなことは、パウロ自身が言ったように、肝心な中身を隠してしまう行為です。

 Uコリント4章7節。

 『わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。

   この並外れて偉大な力が神のものであって、

  わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。』

 パウロが伝えるべきは福音であって、パウロ自身ではありません。

 Uコリント4章5節。

 『わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、

  主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。

   わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。』

 パウロを批判し退けようとする偽預言者は、神を伝えるのではなく、自分を伝えることに熱心です。そして、悲しいかな、この方が、多くの人々には分かりやすいのです。顔が見えるし、声が聞こえるし、そして何より、あれをしなさいこれをしてはならないと、指図します。これが多くの人々には、良く見えるし、良く聞こえるのです。その指令を、メッセージと言う人がいます。私に言わせれば、そんなものは神さまからのメッセージではありません。メッセージとは、あれをしろこれをするなという命令ではありません。


▼ 時間が足りなくなって来ました。28〜29節を読みます。

 『このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、

   あらゆる教会についての心配事があります。

 29:だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。

   だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょか。』

 ここに上げられている労苦は、27節までに記された劇的な出来事に比べたら、軽いこと、何でもないことのように聞こえてしまいます。

 しかし、パウロにとっては、28〜29節こそが大問題であり、パウロはこのことで日々苦しみ、日々祈り、そして日々戦っているのです。

 これこそが真の伝道者、牧会者、説教者の姿ではないでしょうか。

 逆に言えば、もっぱら自分が持て囃され、篤い感謝と多額の謝礼を受けることに関心がある人には、28〜29節はどうでも良いことでしかないでしょう。


▼ 30節。

 『誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。』

 23〜27節に述べたようなことを、パウロは誇ってはいません。

 ヒィリピ書3章2節以下に、今日の箇所と似たようなことが述べられています。

 『わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、

  ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。

  律法に関してはファリサイ派の一員、6:熱心さの点では教会の迫害者、

  律法の義については非のうちどころのない者でした。』

 しかし、その後に付け加えられています。ここは口語訳聖書で読みます。

 『しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、

  キリストのゆえに損と思うようになった。8:わたしは、更に進んで、

  わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、

   いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、

  わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。』

 これは内容的に、今日の30節と同じです。フィリピの続きを読みます。

 『それは、わたしがキリストを得るためであり、9:律法による自分の義ではなく、

  キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、

  キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。』


▼ 大胆に約めて言えば、偽預言者とは神さまよりも自分が大切な人、神さまを信じ誇るのではなく、自分を信じ、誇り、喧伝する人のことです。