★ 順に読みます。5節前半。 『信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい』 これは、具体的にはどういう意味でしょうか。『信仰を持って生きているかどうか』、つまり、自分で自分の信仰のあるなしを、どうやって判断するのでしょうか。或いは、計るのでしょうか。変な歪んだ信仰の持ち主こそが、自分を信仰深いと思い込んでいるのではないでしょうか。 ヨハネ福音書9章41節。 『イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。 しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」』 これは、自分には信仰があると思っている人には、信仰はないという意味だと考えます。 ★ 『信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい』 本当に、どういう意味でしょうか。 聖書の言葉にも、理屈では分からないと言いますか、合点がいかないことがあります。つまり、素直にアーメンと言えない場合があります。しかし、そういう言葉こそ、妙に心に引っかかって、譬えは悪いかも知れませんが、喉に刺さった魚の骨のように、気になって気になって仕方がありません。何年も何年も、引きずってしまう場合もあります。 ★ しかし、ある日、突然に、この棘が取れて、すっきりとし、むしろ物足りなくなる程、すっきりする場合もあります。『信仰を持って生きているかどうか』という棘は、かなり手こずると覚悟しましたが、案外に短時間で抜けてしまいました。 『信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい』 このように考えたらどうでしょうか。『自分を反省し、自分を吟味』することこそが、『信仰を持って生きている』ことではないでしょうか。信仰を持たない者は、『自分を反省し、自分を吟味』することはないでしょう。 これは、乱暴な解釈でしょうか。もし乱暴な解釈だとしても、この辺りのことから考えたいと思います。 ★ 私は、教会学校の子どもたちに、しばしばこんな話をします。いつもは、話口調、私の中で出来上がってしまったストーリー展開があるのですが、今日は大人相手ですから、結論部だけ申します。 人間は、周囲にあるいろんな物を見、人を見て、学びます。しかし、人間にはどうしても自分の目では見えないものが存在します。それは、神さまでもないし、幽霊でもありません。見えないのは、自分自身です。 鏡に映したら左右が逆で、左右が逆という表現に象徴されているように、決して本当の自分ではありません。 私たちは、他の人の瞳に映った自分を見ます。しかし、そこに映るのも、自分の真の姿ではありません。真の姿だと思いたくない場合もあります。 私たちは、そのギャップに苦しみます。 ★ 左右逆ではなく、正しく真の姿を映す鏡がなければ、私たちは、自分の姿、顔を見ることが出来ません。それは、洗面台の鏡ではありません。衣装部屋の姿見ではありません。家族・隣人たちの目という鏡でもありません。 正しく映してくれるのは、神さまの瞳だけです。正しく見て下さる神さまの瞳に映して見なければ、正しく自分を見ることは出来ません。 一方で、鏡に映った自分の姿が、全く正確無比だったら、こんな怖いものは他にないかも知れません。自分の姿を、自分の正体を、自分の心の奥底が自分で見えてしまう鏡があったならば、私たちは、その鏡を叩き壊してしまうかも知れません。 この主題で描いた小説が、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』です。よく知られた小説ですので、特にストーリーを紹介することはしません。ご存知ない方は、ネットでご覧になれば、必要なことは十分知ることが出来ます。是非お読み下さいと、お薦めできる本ではあります。 ★ 5節の真ん中。 『あなたがたは自分自身のことが分からないのですか』 分かりません。鏡がなければ、信仰の鏡がなければ分かりません。 逆に言えば、『自分を反省し、自分を吟味しな』ければ、鏡を見ることさえもしなければ、何も見えません。 正しくない鏡を持ってしまう場合もあるようです。取り巻きと言うのでしょうか。阿諛追従する人間を周囲に持っている人は、その人の目に映った自分を見ていますから、実は何も見えません。こういう人は、アンデルセンの『裸の王様』と同じです。『裸の王様』については説明無用でしょう。 ★ 5節の後半。 『イエス・キリストがあなたがたの内におられることが』 コリント教会の人たちが見えなくなっていることが、これです。イエス・キリストが見えなくなってしまっています。教会の中にいて下さるイエス・キリストが見えなくなってしまっています。 他の者に視線を遮られているからです。イエス・キリストを見ないで、他のものを見ているからです。イエス・キリストを見ないで、私を見なさいと言う人間を見ているからです。他の人間の瞳に映った自分を見ているからです。イエス・キリストの瞳に映った自分を見ていないからです。 もしかすると、イエス・キリストの瞳に映った自分を見て嫌悪し、それを認めたくないから、イエスさまを否定しているのかも知れません。 ★ 6節。 『わたしたちが失格者でないことを、あなたがたが知るようにと願っています』 何だかよく分からない言葉です。失格者という言葉から考えるしかありません。 失格者、口語訳聖書では『偽物』となっています。ちょっとは調べて見ましたが、ギリシャ語の言語がどうかというようなことでは、結局分かりません。 全体の文脈から考えて、信仰の本道から外れているくらいの意味だと判断します。 5節の末尾から見た方が良いでしょう。 『あなたがたが失格者なら別ですが』 一番簡単に約めて言えば、パウロたちは、信仰の本来の道を歩いている、しかし、コリントの人たちは、この道から外れているのではないのかと、危惧しているということです。 ★ 7節。 『わたしたちは、あなたがたがどんな悪も行わないようにと、神に祈っています。 それはわたしたちが、適格者と見なされたいからではなく、 たとえ失格者と見えようとも、あなたがたが善を行うためなのです』 後半が大事だと思います。 パウロは、自分たちの正当性を主張することや、自分たちの救いが何より大事なのではなく、コリントの人々の救いが大事なのだと言っています。 自分の立場を守る、自分の義を立てることよりも大事なことがある、それはコリントの人々の救いなのだと言っています。 これがおよそ、伝道者・牧会者たる者の根本姿勢でしょう。ここのところを間違えてはなりません。 ★ 脱線かも知れませんが、私はどうしても連想してしまいました。トルストイの『復活』で、主人公のネフリュードフは、かつて若い時に犯した罪を贖うために、娼婦に身を落とし、遂にはシベリヤに連行されるカチューシャに、結婚しようと言います。その時、ネフリュードフへの愛を心に隠し持ち続けているカチューシャは、言います。 「あんたは私をだしにして救われようとしているんだろ」 伝道者・牧会者たる者は、教会員をだしにして、自分が救われることを願っていてはなりません。 ★ 元に戻ります。8節。 『わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます』 ここも、意味を読み取ることさえ困難な言葉です。こういう個所は、先ほども申しましたが、ギリシャ語の本来の意味を探っても、何も分かりません。 『何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならば』、真理にも逆らいますという意味でしょうか。この二つの『真理』の使い分けを説明しろと言われても困ります。 しかし、なんとなく分かると言えば分かります。本道に戻るためならば、敢えて本道を踏み外すこともあると言ったら、間違いでしょうか。 正直、良く分かりません。しかし、パウロが、コリントの人々の救いのためならば何でもするという気持ちなのは分かります。 ★ ローマ書9章3節。 『わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、 神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています』 ここは、イエスをキリストとは認めないユダヤ人たちのことを言っているのであって、コリント書と、同じ文脈ではありませんが、しかし、パウロの姿勢としては同じだと思います。 ★ 9節前半。 『わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます』 何とも、考えさせられる言葉です。これがパウロの伝道・牧会の根本姿勢です。自分は強い、信仰深い、優れているという前提から、弱い者、信仰の足りない者、優秀ではない者を、指導するとか、訓練するとか、まして、たしなめるとかということではありません。 間違いなく、パウロは、間違った信仰の姿勢を持つ者に対して、指導します。訓練します。そして、必要に迫られてたしなめます。時には、強い口調で叱責します。しかし、前提が全く違います。『わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます』これが、パウロの伝道・牧会の根本姿勢です。 ★ 9節後半。 『あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています』 祈りです。叱責であり、時に非難であっても、『あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています』これが、パウロの伝道・牧会の根本姿勢です。 ★ 10節前半。 『遠くにいてこのようなことを書き送るのは、わたしがそちらに行ったとき、 壊すためではなく造り上げるために』 パウロは現在のコリント教会に強い批判を持っています。正確には、かつてパウロによって導かれた人たちが、反パウロ主義者たちに煽動されてパウロに反抗するようになったのですが。現在の姿は許されるものではありません。 しかし、パウロは間違った道にそれてしまったコリント教会などは、いっそ潰してしまえと言っているのではありません。パウロに反抗するようになった教会員は滅びてしまえと言っているのではありません。 全ては、『壊すためではなく造り上げるために』なのです。 ★ 10節後半。 『主がお与えくださった権威によって、 厳しい態度をとらなくても済むようにするためです』 パウロには『主がお与えくださった権威』があります。『厳しい態度を』採る権限があります。もしかしたら、その責任があります。 しかし、パウロは『主がお与えくださった権威』を振りかざして、振り回して、コリントの人々を叩きのめそうとしているのではありません。そんなことはしたくありません。 ★ Uコリント10章9〜10節。既に読んだ所です。 『わたしは手紙であなたがたを脅していると思われたくない。 10:わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、 話もつまらない」と言う者たちがいるからです』 こんなことを言う人は、パウロの優しさが、『壊すためではなく造り上げるために』と言うパウロの心が分からない人たちです。何よりも、『わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます』、このパウロの気持ちが分からない人たちです。『主がお与えくださった権威』を振りかざしたり、振り回したりしない、パウロの姿勢が分からない人たちです。一番簡単に言えば、親心でしょう。親だからこそ、子どもに言いたいことがあります。言わなくてはなりません。しかし、愛情が大前提です。 |