◆ 今日の箇所は、ルカの小黙示録と呼ばれています。終末そしてイエスさまの来臨のことが主題となっています。ご覧の通り、難解な箇所で、文字通りに読んでも、何がなんだか分からないような表現が出てまいります。 とにかく、1節づつ読むことに致します。 ◆ 25節。 『「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、 諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。』 『太陽と月・星』とは、絶対に変わることのない、不変の秩序を意味します。メソポタミア文明の時代から、太陽・月・星つまり天体は、絶対に変わることのない秩序の下に、運行するものであると考えられておりました。今日でも基本同じでしょう。 また、そこから、星の動きを見て、人間の運命を占うということが起こりました。エジプトでもメソポタミアでもギリシャでも、そして古代の中国でもそうです。今日でも、同様です。星辰信仰とも言われます。朝のテレビのニュース報道番組や、全国紙でも、そんないかがわしい星占いが載っているから不思議です。非常に根強い迷信です。 ◆ その、不変の筈の天体に、異常が現れる、天体が揺り動かされると記されています。具体的にどのように変化が起こるのかは記されていません。またそれを知ろうとすることは意味がないでしょう。要は、一切の秩序が、その基から揺り動かされると言っているのです。 『太陽と月・星』でさえも決まった通りには運行しない、その動きに最早秩序はないとすれば、他の一切のものも、ましてやです。世の中に最早当てに出来るものは一切ありません。 ◆ マタイによる福音書の平行記事は同じ事柄を、もう少し詳しくと言いますか、情景や人の反応を加えて描き出していますが、ルカによる福音書の記述は簡単なものです。これは、主題を絞り込んだ結果だろうと考えます。余計な興味に流されることなく、事柄の本質を見ることが要求されているのです。 ◆ 同じ25節に、『地上では海がどよめきあれ狂う』とあります。この場合の地上とは、天上に対する地上です。 ユダヤの人々の生活は、どうも海とはあまり慣染みがないようです。ユダヤ人にとって海とは、日本人が考えるような、幸・富を生み出してくれるものではなくて、無気味で不毛な所のようです。海は、創世記にもありますように混沌が支配する所であり、そこには多くの魔物が住むと考えられていました。 ですから、『海がどよめきあれ狂う』とは、海の混沌が地上にも及ぶという意味だろうと思います。天上も地上も、とにかく一切の世界が、一切のものが、全く秩序を失い、混乱だけが全てを支配すると言われているのです。 ◆ 当然、諸国の民は、なす術を知らず、不安に陥ることになります。26節では、『恐ろしさのあまり気を失う』と表現されています。これには、死んでしまうという翻訳を当てている学者もいます。 天体の動きも海の様子もメチャクチャになるのでは、恐ろしいのも当然ですけれども、それだけではありません。 最初に申しましたダニエル書を見れば良くご理解いただけるですが、秩序の崩壊とは、この時代を支配するローマ帝国の秩序の崩壊と重ねられています。 ダニエル書が舞台としているのは、バビロニア帝国のことであり、本当に問題にしているのは、セレウコス朝シリアのことです。そしてルカによる福音書の時代ではローマ帝国のことです。 ◆ バビロニアであれ、セレウコス朝シリアであれ、そしてローマであれ、当時の人々にとっては、絶対に変わることのない、変えることの出来ない強大な力であると考えられていました。その皇帝は、善し悪しは別として、太陽の輝きに準えられるべき存在でした。 その太陽が沈む、単に沈みまた朝に生まれ出て来るのではなく、天から落ちて、海に沈没し、爆発する、そんな風に言われているのです。 ◆ ここで、先ず私たちが、学ばなければならないことがあります。まさか天が降って落ちることはないでしょうし、それを心配するのは、正に杞憂です。しかし、私たちが絶対だと信じきっているもの、逆に、絶対に逃れられないと諦めきっているものが、脆くも崩れてしまうことは実際にあります。20世紀は、正にそのような時代でした。 最近の礼拝で、現代は不安の時代であると申しました。このことについては、もう多く説明する必要はないでしょう。たった一つ例を上げるならば、交通戦争のことだけで十分でしょう。現代こそ、一歩家を出た者が、無事に家に帰り着く保証のない時代です。 昔の東映映画・時代劇を見ますと、人が戦場に向かう時は、水杯でお別れします。銭形平次が捕り物に向かう時は、おかみさんが火打ち石を打って、安全を祈ります。そういう義式です。しかし、銭形平次はほんの30分後には無事に戻って来ます。 戻って来ないかも知れないのは現代人です。日本の過去のどんな時代よりも平和で安全な筈の現代日本こそ、朝家を出た夫や子どもが、そのまま戻って来ないかも知れない時代なのです。 ◆ 一方で、私たちが、頼りにならない多くのものを頼りにして生きているのも、それにしがみ付いて生きているのも、事実です。不安の時代だからこそ、すがりつくものを求めるのかも知れません。 交通戦争の時代の自動車保険がその最も顕著な例です。しかし、自動車保険が事故を未然に防ぐことの出来ないことは誰もが承知です。また、老後の保険をどんなに多額にしても、不安は去りません。最近は認知症の保険まであります。しかし、何も問題は解決しません。 ◆ さて、肝腎の27節です。 『そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。』 ここでも、ルカによる福音書は、マタイによる福音書に比べて、あっさりと表現しています。しかし、これもダニエル書を下敷きにして読めば、理解出来ます。 一切のものが崩れた時、秩序が崩壊した時に、真の王キリストは、再びこの地上にやって来られます。だから、恐れることはない。それは、滅びの時ではなく、悪の権威・悪の秩序・間違った価値観からの解放の時であると、ルカは言います。 何度も繰り返しますが、マタイによる福音書に比べて、終末の世界の描写を押さえて描いていますので、この、終末は解放の時であるという強調点が、はっきりと浮かび上がります。 ◆『人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る』 こんなことは信じられないと言う人が多いでしょう。当たり前です。現代人は、雲が水蒸気で出来ていて、固体ではないこと、人がその上に乗ることは出来ないと知っています。それでは、当時のユダヤ人ならこれを文字通りに受け止めたのでしょうか。あり得ません。当時のユダヤ人だって、人が雲に乗ることが出来ないことぐらい知っています。 低く立ちこめる雲もありますから、雲がどんな成分で出来ているかくらいは知っています。 つまり、『雲に乗って来る』とは、誰の目にも明らかな仕方で、やって来るという意味です。やって来た人がキリストかどうか分からず議論が生まれ、対立が生まれるようなものではないという意味でしょう。 ◆ 逆に言いますと、メシアの到来を巡って、議論があり、対立がありました。自分がキリストだと名乗るものが大勢いたようです。大抵は直ぐに正体がばれるでしょうが、中には、若者に大いに受け入れられて、キリストと信じ込ませることに成功した例もあったようです。 使徒言行録5章36節 『以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、 その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。 彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった』 多分、このチウダも偽キリストの一人でしょう。 ◆ 私たちには想像を超えることですが、ユダヤ人は、理屈上、今日でもメシア・キリストが現れるのを待っています。何千年も待っていますから、もしせっかく現れたのに、これを見過ごしたら大変です。そこで、キリストである確かな印を知りたいと思います。 『ユダヤ警官同盟』という小説は、これをテーマにしています。これに触れていると大脱線になりますので、止めておきます。しかし、ユダヤ人にとっては大問題なのです。 今日でも、世の終わりを説く偽キリストは次々と誕生し、極端には、集団自殺に走ったりします。戦後に限定しても幾つもの事例を挙げることが出来ます。 しかし、愚かなことです。聖書はマタイもマルコもルカも明確に答えを記しています。 ルカ福音書では、21章7節以下。 『イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、 『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。 9:戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。 こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」』 ◆『人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る』とは、全く誤解の予知がない仕方でキリストはやって来るということです。だから、何時如何にしてということには拘らずに、日々を大切に生きなさいという意味です。 世の終わりを、それも何時如何にしてということを、福音の中心であるかのように説く人、まして、人々を不安に陥れ、それで金儲けするような教会は、聖書的根拠に基づかないだけではなくて、明らかに反聖書であり、反キリストに過ぎません。 ◆ 29節以下は、私たちにはますます分かりにくいものになっています。なるべく簡単に説明します。いちぢくとは、イスラエルの代表的な果物であり、イスラエルの歴史そのものを比喩します。 ギリシャでもペルシャでもインドでも中国でも、歴史は円で、無限に繰り返すと考えられていました。ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニウスは、どの瞬間も無限に繰り返されると記しています。現代のSF小説にもそのような設定のものが少なくありません。 ユダヤ人は、始まりがあり終わりがある、円ではなく線の歴史を考えました。キリスト教では、歴史の始まりは、神による世界創造であり、歴史の終わりが、キリストの再臨であると理解されます。 言い換えれば、歴史には目的があり到達点があるというのが、キリスト教の理解です。歴史は偶然の積み重ねではなくて、これを支配する神がおられるというのが、ユダヤ教であり、キリスト教です。当然、人間一個の人生についても、このことが当て嵌まります。神の目には、髪の毛一本も数えられており、小鳥の一羽も、神の意志と無関係に落ちることはありません。 ◆ そして、この信仰の上にだけ、真の安心が存在します。この時代の徴である不安とは、偶然という名前を持った悪魔の支配に対する不安ではないでしょうか。偶然、言い換えれば、無意味です。先程例に引きました交通戦争に顕著なように、偶然、何の意味もない所で、私たちの人生が支配され、目的地に到達してもいないのに唐突に終わってしまう。所詮、人生の全てが無意味なのではないかという思いが、現代人の不安の根本原因なのです。 ◆ 32〜33節。 『はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。 33:天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」』 この世界を支える本当の力は、そして、絶対に変わることのないものは、神の言葉・神の意志であり、それと無関係に、偶然に起こり得ることなどない、それがルカによる福音書の使信・メッセージです。偶然でも無意味でもない、私たちには理解出来なくとも、神さまの意思に基づいてこの世界は存在するのだというのが、キリスト教の信仰です。 ◆ この歳になってから、日本文学や日本史についての知識が欠けていることに気付かされまして、少し勉強を始めました。専門的なことなど無理ですから、読んでいるのは、ごく平易な歴史書です。それでも1年や2年では終わらないでしょう。 日本史に詳しい方にとっては、低レベルの話かも知れませんが、私にとっては発見でした。戦国時代の百姓一揆についてです。浄土真宗の教えに基づくものです。当時の人々が、如何に真剣に、裁きを受け止め、地獄の責め苦から逃れようとしたのか、そのために、全く始祖・親鸞の教えから外れた本願寺の指令に従い、無謀な戦闘に借り出されたか、殺人をも厭わなかったかということが、克明に記されています。 似たようなことは、ローマカトリックの下でも、残念ながら、宗教改革の下でも起こりました。今日でも続いています。 これらの信仰の歪みは、キリスト教の場合は、聖書から外れているから起こりますが、その根本原因は、彼らの信仰が、恐怖の上に立っているからです。この点では仏教でも同じです。現代でもそうです。イスラム過激派も同じことでしょう。 私たちの信仰は、恐怖の上に立っているのではありません。希望の上に立っているのです。終わりの日にキリストを待つ信仰も、恐怖ではなく、希望の上に立っています。 |