日本基督教団 玉川平安教会

■2021年6月13日 説教映像

■説教題 「土の器に
■聖書   コリントの信徒への手紙二 4章1〜15節 

★ 先ず、7節について、少し詳しく説明しなくはなりません。

 土の器というのは、土で出来た一番安物のランプのことだそうです。それは、伝道者であるパウロ自身が、粗末だ、廉いという意味でしょう。そして、壊れやすい、儚いという意味にもなります。

 しばしば、『私は土の器に過ぎません』と祈る人がいます。謙遜の意味で、この表現を用いているのだろうと思います。それならば結構で大事なことかも知れません。しかし、『土の器』という言葉は、それだけの意味ではありません。

 『土の器』、つまり、安物であれ、最高級のクリスタル・ガラスであれ、ランプにとって大事なのは、中の光・炎の筈です。しかし、私たちは往々ランプの機能・役割を忘れてしまって、明るいかどうかよりも、専ら器の装飾に気を奪われ、仕舞には、中の炎が全然見えない程に飾り立ててしまいます。


★ そのような電球・蛍光灯が少なくありません。傘が壊れてしまって交換しようとしたら、裸の電球が明るいのに驚く、そういう場面は珍しくありません。

 今日の電球・蛍光灯ならば、それでもかまわないでしょう。電球・蛍光灯くらい何個でも点けられますし、費用も知れたものです。今日では、明るさよりも、見栄え・雰囲気の方が、より大事かも知れません。

 しかし、当時のランプのことを、想像いただきたいと思います。どんなに安物でも、どんなに高級品でも、ランプの明るさそのものは、あまり変わりません。上等の芯を用いても、純度の高い油を用いても、明るさでは大した違いはありません。そこに、ランプを覆うような、覆い隠すような装飾が加えられますと、ランプの明るさ、ランプの本来の機能を、全く損ねてしまいます。


★ 先週の礼拝に出席された方は、ここで思い当たるでしょう。先週の箇所と基本同じことが強調されています。つまり、先週も今週も、大事なのは外側ではなく、中味だという話なのです。容れ物ではなく中味にこそ目を向けなさいというテーマなのです。

 ですから、パウロが自分は廉価な土の器に過ぎないと謙遜しているとしても、一方では、余計な飾りを付けずに、福音そのものを明るく正しく伝えているのだという自負も込められています。


★ 巡回説教者のように、何々教会からの推薦状を持っているだの、やれペトロと懇意だの、主の兄弟ヤコブ直々のお墨付きを見ろだのと言う輩は、外側をゴテゴテ飾り立てた結果、中にいる筈のイエスさまの姿を見えなくしてしまっているということです。そもそもあの連中の中にキリストはおられるのだろうか。パウロはこう批判しています。

 それと対照的に、パウロは、自分は何等袴るもののない土の器に過ぎない、しかし、この土の器には、キリストの灯が灯っている、それ以外のものは無いことをこそ袴るのだと、大見栄を切っている訳です。

 当時でも、今日でも、福音の輝きを隠してしまうものは、福音を伝える者の個人的な思想や哲学です。或は、教会の伝統や儀式・慣習が、そのような役割を果たしてしまうこともあります。

 自分の思想や哲学、或は教会の伝統や儀式・慣習の背後に、キリストを追いやってしまうならば、福音を追いやってしまうならば、それは福音を灯すランプではなく、福音を覆い隠す闇に過ぎません。正に、6節です。

 『「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、

   イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。』


★ 確かに、福音という内容物を盛る器を軽視することは出来ないでしょう。また、『キリストのかおり』と呼ばれるべきクリスチャン、キリストの手紙と呼ばれるべき人々がいなくては、福音が宣べ伝えられることもありません。しかし、パウロは言っています。

11節。

 『わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、

   死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。』

 『死ぬはずのこの身』、口語訳聖書では『朽つべき者』は、『朽つべき者』なのです。『朽つべき者』が朽ちることは、パウロにとって決して滅びではありません。挫折でもありません。むしろ、決して朽ちることのないものが、輝き出て来るためには、是非必要なことであり、神の救いの確かさが証明される出来事です。

 大事なものは、あくまでも福音の灯火という内容物であって、伝道者は器に過ぎません。器は滅びてもかまいません。いつかは滅びるに違いありません。しかし、中身である福音は、何時までも純粋に保たれなければならないと、パウロは強調します。


★ 4節をご覚下さい。

 『この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、

   神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。』

 キリストを『神の形』『神の似姿』と表現するのはパウロに独特のもので、新約聖書中パウロ書簡だけに、10度用いられています。

 その最も代表的なものとして、ピリピ人への手紙2章1節を上げることが出来ましょう。即ち、

 『キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、

  7:かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。

   人間の姿で現れ、

  8:へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。』

 ここはどうしても口語訳聖書でなくては伝わらないものがあります。

 『キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、

  7:かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。

   その有様は人と異ならず、

  8:おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。』

 『固守すべき』とは、字義通りには、戦利品として獲得したものです。つまり、大きな壌牲を払って手に入れたもの、命をかけて得たもの、だから容易に手放すことの出来ないもの、固守すべきものとなります。

 パウロにとって、固守すべきは、福音そのものであって、福音を盛る器、即ち、伝道者自身ではありません。


★ 8〜9節をご覧下さい。

 『わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、

   9:虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。』

 ここもどうも口語訳の方がしっくりときます。

 『わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。

  9:迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。』

 パウロは、「わたしたち信仰者は、苦しめられることはない。途方に暮れない。」とは、言っていません。「虐げられない。苦しめられない。」とも、言っていません。信仰者といえども、虐げられます。途方に暮れます。迫害に遭い。倒されます。」むしろ、信仰の故にこそ、このような目に遭うのかも知れません。

 しかし、『患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。』のです。

 ここには、真実があります。そして、真実の言葉だけが本当に人を慰め、人を励まします。「虐げられない。苦しめられない。」と言い張る人は、嘘を言っているのであり、そこには本当の慰めはありません。どんなに耳障りが善くても、人を救う力はありません。


★ 神ならぬ神・偶像を拝む者は、「患難を受けない。途方にくれない。迫害に会わない。倒されない。」ことを願い、祈ります。その願い・祈りを叶えてくれるのが、神さまだと考えています。

 つまりは、「患難を受け」た時、「途方にくれ」た時、「迫害に会」った時、「倒され」た時には、もう、彼らの信仰は挫折します。終わりです。唯、絶望して死ぬしかないでしょう。現に、多くの人間が、漠然と、神ならぬ神・偶像を拝み、「患難を受けない。途方にくれない。迫害に会わない。倒されない。」ことを願い、祈りながら、人生を送ります。そうして、特別に躓きに出会わなくても、老齢を迎え、死の床に着いた時には、全ての望みも絶え果て、絶望するしかありません。そうして、最後に、「死んでも生命があるように」などと言って、ジタバタします。或いは「神も仏もない」と絶望します。

 真の信仰を持った者は、『患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。』それどころか、

10〜11節。これも口語訳聖書で引用します。

 『いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、

  この身に現れるためである。

  わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。

  それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。』

 福音の朽ちない栄光の輝きを伝えるための器となるために、滅ぶべき者が、滅んでいくのは、挫折でも絶望でもありません。

 更に、12節。

 『こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。』

 伝道者の滅びが、コリント教会員の生命に結びつく、パウロはここまで断定していまです。それが真の伝道者なのです。


★ 7節と、8節以下には、飛躍があると受け止められた方が多いと思います。確かに、そうです。その連関は、パウロの身の上に起こった出来事に拠ります。ごく具体的なことです。つまり、コリント人への第1の手紙に描かれているような事柄です。

 様々なパウロ批判、特にパウロの病のこと、肉体的欠陥のことが、隠さずに描かれています。それをまた、パウロが神さまに祝福されていない印として、批判する人がいました。


★ パウロは、それらの批判を全て逆手に取って、言います。つまり、私は『土の器』に過ぎない、粗末で壊れやすく、見映えがしない、しかし、それだから、神さまの輝きが、全く邪魔されずに、純粋なままに、輝き出るのだと。


★ Tコリント1章26節以下。

 『ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、

   力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。

 28:また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、

   身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。

  29:それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。

 30:神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、

   わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。

 31:「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。』

 この箇所は、全くの逆説・皮肉です。実際には、コリント教会員には、インテリ・ハイソサエティーと呼ぶべき者が圧倒的に多かったと想像致します。コリントの街が、そのような街でした。

 また、そうでなければ、このような表現は出来ません。

 逆説的な表現を用いることで、の『だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです』このことを、うんと強調しているのです。


★ 14節。

 『主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、

   あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。』

 これと、Uコリント1章8節以下は、全く同じです。

 Uコリント1章8節以下。

 『兄弟たちよ。わたしたちがアジヤで会った患難を、知らずにいてもらいたくない。

  わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、  心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、

  死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った。』

 自分を頼りとして生きるか、主を頼りとして生きるか、この二者択一です。

 そして、これは、また、伝道者という人間を見るか、その伝道者を用いて働かせておられる神を見るか、その二者択一です。


★ 最後に、15節を読みましょう。

 『すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、

   感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。』

 イエスさまの時代の、偽善的な祈りをするファリサイ派も、使徒パウロの時代の巡回説教者も、そして現代の自称エヴァンゲリストも、教会という舞台で、自分が主役の演劇を上演しているかのようです。こういう人は脚光を浴びるかも知れません。

 しかし、パウロはただ教会員の救いのために働きます。福音を輝かせる土の器です。