◆ 8節の前半から順に読みます。 『兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。』 使徒パウロは何かしら大きな苦難を体験しました。生命の危険を覚えるような出来事に遭遇したと思われます。そのことを『知らずにいてもらいたくない』と言います。当然でしょう。そういうことならば、知っていて欲しいし、知らないなら話して聞かせたいと思うのが人情です。 それにしても、強い言い方です。『知っているでしょう』『知っているか』でも、知っていて当然、知らなければおかしいという意味が込められますけれども、『知らずにいてもらいたくない』となりますと、もっと強く、知らずには済ませられないというような意味合いになります。 日本語とギリシャ語とではニュアンスが違うでしょうが、普通の表現ではないということは、日本語だけでも、十分に伝わります。 ◆ 一体何が起きたのでしょうか。それは、8〜9節に記されています。8節後半を読みます。 『わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。』 『耐えられないほどひどく圧迫され』た、迫害でしょうか。『生きる望みをさえ失って』、余程非道い目に遭いました。精神的なことだけではなく、肉体的暴力が加えられたのでしょうか。とにかく、尋常なことではなかったことは想像出来ます。しかし、一体何が起きたのか、何をされたのか、…具体的には分かりません。もう少し先の方を読んで見ても同じことです。結局分かりません。 コリント書の他の記事を読み、更に使徒言行録と読み重ねて見ますと、ある程度の想像は出来ます。綿密に調べた学者ならば、かなりの確信を持って、このことだと特定出来るかも知れません。実際、そんなことを書いている本もあります。 ◆ コリント教会とパウロの関係は、最悪の状態にまで落ちていました。パウロに対する非道い不信感が生まれて、お金を使い込んでいるという、とんでもない非難を言う者まで出ました。それは、パウロにとって、生命の危険を覚えることよりも、更に非道い、辛い体験でした。さすがのパウロも、所謂落ち込んでしまい、絶望感さえ覚えたようです。ひいては、伝道者としての自信も費えてしまうような、そんな体験をしました。 ◆ こんな機会にしか言えませんので、耳障りかも知れませんが申します。 教会員が10人いれば、信仰理解についても10通りの考え方があります。それは仕方がありません。教会員が50人いれば、信仰理解についても50通りの考え方があります。それは仕方がありません。何も、一つにまとめ上げる必要もありません。 結果、牧師に対して、いろいろと不満や批判が起こります。それは仕方がありません。牧師が改めなければならないこともありますでしょう。じっと耐えなければならないこともありますでしょう。それは仕方がありません。 しかし、有りもしない批判、特に金銭上のことで、批判、そもそも不信を言われたならば、これは辛いことです。事実無根だとしても、そのような不信を被ったこと自体が、もう牧師としては恥であり、失格かも知れません。 ある時の教会総会で、教会図書費の支出に疑義ありという意見が出されました。そもそも何故牧師には図書費が付くのか、購入した図書は、牧師の持ち物になるのか、教会の財産なのかという疑義でした。前任者はなかなかの学者でしたから、教会図書費も結構な額になっていたようです。 私は言われない批判に耐えられず、会計に、過去の実績を明らかにするように言いました。 結果、私が赴任して以来の、図書費支出は2600円でした。年間、全部で2600円です。確か教団年鑑を購入した代金でした。 ◆ 結果、指摘した人は大恥をかいたのですが、この人は、以後、私を憎むようになりました。 私の方も冤罪が晴れてすっきりとはまいりません。心に深いわだかまりが出来て、以後、教会の費用で本を購入することはありません。教団年鑑でさえ、教会で買ったことはありません。 幸い、教団に深く関わるようになりましたので、ここ20年以上、無料で貰っています。 ◆ いろいろと想像を逞しくすることも可能ですし、かなりの精度をもって、パウロの苦悩の内容を描写することもできるようです。今申し上げたような金銭問題が、パウロを苦しめたことの正体であることは、確実です。エルサレム教会への献金の使途に疑問ありと指摘されたようです。しかし、パウロ自身は、それを記していません。具体的なことは、一行も書いていないのです。 具体的なことは、一行も書いていない、このことの方が、決定的に重要なことではないでしょうか。パウロは出来事を特定していないのです。敢えて、特定しないのです。 何がどうしたとか、誰がこうしたとか、そう言う具体的なことは、一行も書いていません。 既に申しましたように、今起こったことは、単に肉体的な危機のことではなく、伝道上のこと、教会のことのようです。パウロを苦しめたのは、金銭問題だったことは確実と言えます。しかし、矢張り特定されていません。 それならば、私たちも、パウロに何が起こったのかと、パウロが述べている以上のことを詮索する必要はありません。ただ、パウロが『知らずにいてもらいたくない』と表現したその事実を心に刻むべきです。 その内容とは、8節後半の『耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい』このことです。もっと絞り込むならば、『生きる望みを失って』、このことです。 それが9節につながります。 ◆ 9節の前半。 『わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく』 『死の宣告を受けた思い』、直訳は、『自分に死刑を宣告した』です。つまり、死を覚悟し、或いは、死の宣告を受けたとは、全く絶望したという意味なのです。 だから、『自分自身を頼りにすることなく』なのです。もう頼りにならないのです。自分に絶望したのです。誤解されたことを含めて、自分の能力に見切りを付けたのです。 もっと露骨に言えば、『死んだ方がいい』または『死んだ方がましだ』と思ったのです。 そしてパウロをここまで追い込んだのは、間違いなく、コリント教会員の仕打ちなのです。だから、パウロは、『知らずにいてもらいたくない』と表現しながら、しかし、具体的なことは何も言わないのです。 ◆ 9節の後半。 『『死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。』 絶望したから、自分の覚悟や力や知恵や、とにかく自分が持っているものの一切がもはや何の役にも立たないことを知ったから、『神を頼みとする』のです。 この神は、復活の神です。そうでなければなりません。パウロはもはや何も持ってません。パウロには何もありません。死んだのです。死人を甦らせる神でなければ、パウロを甦らせることは出来ません。 ◆ この辺りのことは理屈ではなく体験でしょう。 パウロは、キリストの僕を自称します。キリストの僕、今日、教会では悪い響きではないかも知れません。むしろ、特別な資格のように聞こえてしまうかも知れません。しかし、本来は、パウロが意図したのは、キリストの奴隷ということです。奴隷とは何か、自由意志を持たないということです。肉体も心もキリストのものだということです。奴隷だということは、もはや自分はないということです。 『アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。 わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。』 それがパウロです。 それが私たちキリスト者です。 ◆ マルコによる福音書8章34〜35節。 『自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、 また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 36:人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。』 自分を捨て、自分の十字架を負うて、それがキリストの僕、キリスト者なのです。 キリストの僕となるのは、何か素晴らしい精神修養の結果、悟りを開いたから、真理を見い出したから、そうではありません。 『自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。』その結果なのです。 ◆ 10節。 『神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、 また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、 わたしたちは神に希望をかけています。』 それではキリスト者とは、全く自分というものを失い、自分の意志も持たずに、ロボットのようになって生きているのでしょうか。そんなことではありません。 『これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださった』 パウロは、救い出されたのです。 これは、勿論単に肉体的な危機のことではありません。精神的にも信仰的にもです。 つまり、パウロは信仰的に復活したのです。 ◆ 5月23日は、ペンテコステ・聖霊降臨日です。教会の誕生日と表現する人もいます。それが妥当かどうか議論のあるところですが、ペンテコステ・聖霊降臨が、伝道、それも世界伝道と密接な出来事であることは、間違いありません。 つまり、聖霊が下されたのは、教会が世界伝道を展開する、その時なのです。 聖霊降臨を、何か超人的能力を授けられることのように考える人が少なくないようです。しかし、第1に、聖霊降臨は教会に起こった出来事です。個人的体験ではありません。 そして、伝道と結びついた出来事です。少なくとも、聖霊を受けるとは、何かしら、神さまのご用をするに当たって、それに必要な力が神さまから与えられるという出来事なのです。 ですから、聖霊を下された者は、いよいよ自分を空しくして、ひたすらに主のご用に当たるのです。何かしら特殊な能力を与えられて、いよいよ自分を発揮することが聖霊を受けることではありません。むしろ真逆です。 ◆ 今日は教会総会です。 コロナのことがあり、じっくり時間を掛けて、協議も議論もするという訳にはまりいませんが、しかし、聖霊の導きを願い、『自分を頼らず』、自分の考えを絶対としないで、御心はどこにあるのかと先ず問いたいと思います。 そして、牧師も役員も力が足りないかも知れませんが、牧師にも役員にも、聖霊によって力を与えて下さいと祈っていただきたいと思います。 また、役員の選挙が行われます。他のことは既に資料を配付しておりますので、読んでいただければ大抵のことはご理解、納得いただけるものと思います。しかし、選挙だけは、郵便投票ではなく、この場で行いたいと考えました。 何故なら、一緒に総会に臨む、教会員一人ひとりの祈りによって支えられなければ、役員の仕事は全う出来ないからです。 逆に、月報の今月号1面に記しましたように、他の人よりも能力があるから、経験が豊富だから、役員にふさわしい、それがないと役員にはふさわしくないということはありません。 必要なのは、『清めて用いて下さい』という気持ちだけです。 牧師だってそうです。必要なのは、『清めて用いて下さい』という気持ちだけです。 ◆ イエスさまが洗礼を受けられた時、 『天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。』 と記されています。イエスさまが洗礼を受けられた時、即ち、イエスさまの宣教が始められた時です。 ここでも、伝道と結びついて、聖霊が存在します。 また、私たちは、洗礼を受ける時に、一度、水の中に潜ります。浸礼ではなく滴礼の教会の方が圧倒的に多くなっていますが、洗礼の意図する所は、変わりません。洗礼を受ける、水に潜るとは、一度死んだことを意味します。そうして、新しい生命に甦るのが洗礼です。新しい生命、新しい名前、つまり、キリスト者としての新しい生命です。 もはや悪魔が私を支配していないということです。死が私を捕らえていないということです。 ◆ 今日から、コリントの信徒への手紙二を読み始めました。今日は、8節以降に絞ってお話ししましたので、1〜7節は、後日改めて読みたいと思います。 教会の年間標語も、コリントの信徒への手紙二 4章8〜9節です。 『わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、 9:虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。』 標語があまり長くなっては格好が付きませんから省略しましたが、続きは、 『わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、 イエスの命がこの体に現れるために。 11:わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、 死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。』 今、教会そのものが試練の中にあります。何故こんな苦しみがあるのかと考えると、躓きにもなります。しかし、『四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。』 それが教会です。 |