★ 1節。『神の協力者としてあなたがたに勧めます。』 『神の協力者』、口語訳聖書では『神と共に働く者』、他の箇所では見られない、特別な表現が用いられています。『神の協力者』、『神と共に働く者』、もっと分かり易く言えば、神の同労者です。 『神の協力者』を自称する使徒パウロを、傲慢だと感じる人もあるかも知れません。パウロは何時から神さまと肩を並べる程に偉くなったのだ、そんな反感を招きそうです。しかし、パウロはそのような傲慢な思いで言っているのではありません。 むしろ、逆です。福音の業に仕える者は、自分の仕事をしているのではない、誰か他の人間の仕事をしているのでもない、神さまの御用をしているのだということです。その点を厳密にする表現が『神の協力者』です。そういう意味合いでは、口語訳聖書のように『神と共に働く者』の方が適切な気がしますが、ギリシャ語翻訳の専門的なことは分かりません。 ★ Uコリント4章5節では、このように述べています。 『わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、 主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。 わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。』 『神の協力者』、『神と共に働く者』 、そこには、誇りも勿論ありますが、自分の働きが人間的な思いに基づくものではないということが第一に強調されています。神の協力者と言うと、何だか偉い人のように聞こえますが、神の僕、神の奴隷と、意味する所は変わりません。 『神の協力者』とは、神の僕、神の奴隷と同じ意味で使われていると考えます。 ★ このことは、教会の伝道の業にも全く重なることです。教会は、『自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています』。これに違いありません。そうでなければ、それは伝道ではなくて、宣伝です。時と場合によっては、宣伝も必要かも知れません。しかし、その宣伝も含めて、私たちは神のご用をしているのです。 ★ 1節の後半部分をご覧下さい。 『神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません』 口語訳聖書では、 『神の恵みをいたずらに受けてはならない』 一番簡単に説明致しますと、口語訳では、神の恵みをただで貰っていてはならない、お返しをしなくてはならないという解釈です。と言いましても、受けた恵みに見合う献金をしなさいという意味ではありません。ここでは詳しく述べられていませんが、伝道によって信仰を知ったのだから伝道しなさいという意味に取るべきだろうと思います。 ★ 新共同訳のように、受けた恵みを無駄にしてはならないと読むことも出来ます。 常に申しますが、この恵みという字は、使命という言葉に置き換えて読んだ方が分かり易い場合が多いようです。そうしますと、「神から与えられた使命に応答しなくてはならない」こうなります。結局、口語訳聖書から連想されるように、救いの喜びを与えられた者は、その喜びを多の人に伝えることによって、恵みに報いるとなります。結局同じことです。 ★ 当然、2節の解釈にも、繋がります。 『なぜなら、/「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。 救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。 今や、恵みの時、今こそ、救いの日。』 今こそ、神の恵み、神の招きの声に応えて、私たちが果たすべき努めを全うしよう。今こそ、私たちの働きが求められているのだと、こういう意味になります。そして、このように読むと、3節以降とのつながりも良いようです。 ★ 脱線になるかも知れませんが、『今や、恵みの時、今こそ、救いの日』を、今、私たちが置かれてる状況に照らして考えなければならないと思います。 コロナ禍が続いています。解消するまでには、あと半年、計2年かかりそうです。この間、教会は大きな不自由を強いられています。礼拝を休んでいる教会も少なくありません。私たちの教会でも、礼拝に出席出来ない人が、或いは私たちが訪ねることの出来ない人が、大勢います。数えてみたら、これに該当すると思われる人は20人以上でした。 教会にとっては深刻な事態です。勿論当人にとってこそ深刻です。こんなことは、戦後なかったことです。 しかし、この時もまた『今や、恵みの時、今こそ、救いの日』なのです。 コロナ禍の下で始まったことがあります。礼拝のネット配信があります。礼拝に出られないからこそ、礼拝の意味が分かったと言う人もいます。礼拝に餓え、渇いた経験は、きっと無駄ではないと考えます。一人一人にとっても、教会にとってもです。 ★ 中には、こんな事態を些かでも肯定して欲しくない、まして美化して欲しくない、礼拝に餓え、渇く者の苦しみが分かっているのかと批判を受けるかも知れません。その通りでしょう。 しかし、使徒パウロの時代は、こんなものではありません。迫害弾圧の中で、福音が述べ伝えられ、その状況の下で信仰に目覚める者が現れ、命がけで、礼拝が守られていたのです。 その状況下で、パウロは『今や、恵みの時、今こそ、救いの日』と言っているのです。 ★ 3節。 『わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、 どんな事にも人に罪の機会を与えず』 何だか消極的姿勢に聞こえるかも知れません。しかし、これが大事に当たる時の、基本的な姿勢です。 神と共に働くとは、自分を最大限発揮するとか、そんなことではありません。もっと、必死なこと、もっと責任的なことです。 ★ 白河教会時代にこんなことがありました。或る日、突然、ギターを抱えた青年が訪ねて来ました。次の日曜日から礼拝に出たいと言います。殆ど青年がいない教会ですから、とても嬉しいことです。大歓迎です。 ところが、彼は言います。その礼拝でギターを弾かせて欲しいと。オルガニストも絶対数足りませんから、それも良いかも知れません。月に一度くらい、ギター礼拝があっても良いかも知れません。伝道集会などは、むしろギターの方が良いかも知れません。 しかし、今度の礼拝からという訳にはまいりません。役員会にも諮らなければなりませんし、彼のギターを聞いたことがないのですから、礼拝に奉仕できる腕前かどうかも分かりません。そもそも、彼の信仰生活を知りません。 ですから、私は、とにかく礼拝に出て下さい。ギター云々は、その後で考えましょうと言いました。 彼は礼拝に出て来ませんでした。そして、市内の別の教会で用いられたようです。 ★ 4節の前半。 『あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。』 先程既に述べましたように、『神に仕える者』とは、奴隷のことです。正に謙遜と忍従をもって働くことが、神と共に働くことです。何か特権を持って、威張ったりすることではありません。奇麗な仕事をすることではありません。目立つことが良い働きではありません。 ★ むしろ、キリスト者であるがために受けなければならない苦しみがあります。この一覧表が4〜5節に出ています。 『苦難、欠乏、行き詰まり、 5:鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、』 まいったなあと思うことばかりです。得になることは一つもなくて、損することばかりが上げられています。 御利益的宗教が教えることと全く逆です。 神さまを信じているならば、このような災難に遭わないとは、聖書には書いていません。神さまの御用をしている、神さまと共に働いている者は、このような災難から守られているとは、聖書の何処にも記されていません。 それどころか、これらの災難の多くは、キリスト者だからこそ遭遇する出来事であり、神と共に働いている時に出会う試練です。 熱心に信仰している者、伝道を志す者こそ、この逆境に遭います。 ★ しかし、8節前半。 『栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、 好評を博するときにもそうしているのです。』 キリスト者は、初めから、人々の評価、この地上での成功に頓着していません。この世の評価、損得を超えているます。それが、神と共に働くということの意味です。 ★ 8節の後半からは、ひとつひとつ見てまいります。 『わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり』 キリスト教は、未だこの教えを全然知らない人々にとっては、何とも奇異な宗教だったろうと思います。十字架に架けられた男が三日目に復活したというのですから。 この信じがたい、常識外れなことを宣べ伝えて行かなくてはならない、そんな話を信じてくれそうな人はいない、だからこそ、パウロは、3節で既に述べたように、他の一切のことで、人々に躓きを与えるようなことは避け、常識的であろう、道徳的であろうと努めたのです。 奇異な振る舞いを繰り返し、マスコミに登場し、耳目を集める新興宗教とは、真逆です。 私の個人的な意見かも知れませんが、目立つことをする牧師。突飛なことをする牧師に共感は持てません。牧師はごくごく普通であって欲しいと思います。常識人、言動は勿論、服装なども、平凡な市民の装いであって欲しいと思います。 何故なら、キリスト教の福音そのものが、十分に突飛であり、風変わりであり、常識を越えているからです。風変わりな人が風変わりなことを伝えたら、教会そのものがおかしいと判断されるだけです。 私などは、お上品な家庭に育っていませんから、常識人普通の市民であろうとすることに、結構努力が要ります。風変わりなのはその人の個性としても、風変わりを誇る人は問題です。 ★『人に知られていないようでいて、よく知られ』 これは、全く事実でしょう。この時代も、そして現代も、マスコミに取り上げられるようなヘンテコな宗教よりも、ずっと、キリスト教への関心が高いのです。人々は、実は、キリスト者を見ています。キリスト者は見られています。まして牧師は見られています。 テトス書に、教会の長老にふさわしい人の条件が挙げられています。 『長老は、非難される点がなく、一人の妻の夫であり、その子供たちも信者であって、 放蕩を責められたり、不従順であったりしてはなりません。 7:監督は神から任命された管理者であるので、非難される点があってはならないのです。 わがままでなく、すぐに怒らず、酒におぼれず、乱暴でなく、恥ずべき利益をむさぼらず、 8:かえって、客を親切にもてなし、善を愛し、分別があり、正しく、清く、自分を制し、 9:教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人でなければなりません。』 ★ 続きを読みます。『死にかかっているようで、このように生きており』 これも、全く事実です。この時代も、そして現代でも。何しろ、キリスト教会には、2000年の歴史、200年の実績があります。 否、そんなことを根拠にして、死にかかったように見える教会にも未来があると言うのではありません。根拠は、主の十字架の出来事そのものです。教会は、世間の人々から見れば滅びの象徴である十字架の上に立てられています。 キリストの体なる教会は、盛んに見えるとか衰退して見えるとかという現象とは関係なしに、生きて働くのです。今、この時もそうです。 ★『罰せられているようで、殺されてはおらず、』 ここは、凄まじい表現です。『罰せられているようで』と振ったら、「必ず無事に救い出され」とか、「大いなる報いを受ける」とか続けて欲しいと思います。そういう約束があって良いと考えます。しかし、約束は『殺されてはおらず』なのです。 ★『悲しんでいるようで、常に喜び』 4節以下に描かれたような何とも過酷な試練にまともにぶつかりながら、何故キリスト者は喜んでいられるのでしょうか。 それは、『神と共に働いている』からです。神の御用をしているからです。仕事の内容が楽しい、充実している、そんなことではありません。『神と共に働いている』から常に喜んでいられるのです。 ★ 誰もがこの地上での生活を営むために、生きていくために、食べていくために働きます。その仕事が、楽しい仕事とは限りません。むしろ逆が多いと思います。しかし、働き続け、どんなに苦しい仕事でも、そこから喜びをも見出すことが出来ます。 生きていくために、食べていくために働くこと、そのものに意味があると信じているからです。 ★ どんな職種でも、苦しいことだけではない、楽しいことだけでもありません。汚いことだってあります。その仕事が、続けられるか、勤まらないか、それは、何のために働くのか、これで決まります。その労働に何らかの意味を見出すことが出来るかどうかです。 神と共に働く労働にこそ、それがどんな職種であれ、真の喜びが存在するのです。 10節を読んで終わります。 『悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、 すべてのものを所有しています。』 |