日本基督教団 玉川平安教会

■2021年11月7日 説教映像

■説教題 「神は我が砦

■聖書   詩編46編2〜12節 


★3・4節を先に読みます。

 『わたしたちは決して恐れない 地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移るとも』

 『海の水が騒ぎ、沸き返り その高ぶるさまに山々が震えるとも。』

 こんなことが実際に起こります。3.11の地震がそうでした。もう少し小規模ながら、『地が姿を変え 山々が揺らいで』しまうことが、度々繰り返されて来ました。

 そして、今現在も、大地震が間もなく起こるだろう、何時、それに遭遇するかも知れないという不安が、私たちには付きまといます。


★一度に何千何万という人が亡くなる大災害でなくとも、例えば、交通事故で一人が亡くなる事例でも、その当人、家族にとっては、大災害と何も変わりません。一時に、健康が奪われ、命が奪われ、日々の生活の根拠が失われます。

 3.11地震の行方不明者が未だにあります。愛する人が帰って来ない、その遺骸がどこにあるのかも知れない、家族にとっては耐えがたい思いでしょう。

 しかし、日常的に繰り返される事故や病による死者も、やはり家族の元に帰って来ることはありません。


★事故や災害、不慮の病によらずとも、90歳100歳の長寿を与えられた人の場合でも、話の構図は同じかも知れません。

 84歳の夫を失った奥さんが、こんなことを言っていました。「結婚してから50年以上の想い出が積み重ねられています。その分、悲しみが深いのです。」

 1歳にもならない子を失ったら、その悲しみは、癒やされがたいほどに大きいでしょう。しかし、90歳だから、100歳だから、諦められるものではありません。諦めるしかないだけです。


★そのような現実がある上での2節です。

 『神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。

  苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。』

 この詩人は、理不尽としか思われない出来事によって、愛する者を失ったのでしょう。或いは、自分自身が、地位や名誉や財産を失ったのかも知れません。

 同じ出来事に遭遇して、『苦難のとき』神さまは『そこにいまして助けてくださ』らなかったと言う人がいますでしょう。殆どの人がそうかも知れません。

 『「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。』

 愛する弟を亡くしたマルタの言葉です。全く同じことを、マリアも言います。つぶやきです。恨み言です。


★しかし、マルタはこのように言葉を続けます。

 『しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、

   わたしは今でも承知しています。』

 兄弟が死んでしまいました。頼りにしていたイエスさまは、そこにいませんでした。

 しかし、否、だからこそマルタは、なおもイエスさまを頼りとしました。

 これが『神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。

  苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。』という意味です。

 イエスさまは愛する者を失った悲劇の中にいる者とこそ、一緒にいて下さるのです。悲劇の当人はどうなったのかは記されていません。天国に招かれて、神さまと一緒にいると信じるしかありません。

 マルタ・マリアの兄弟ラザロは復活します。聖書の中でも全く例外的な出来事です。これは、死んだ者が天国に入れられるということを暗示しているのだろうと思います。


★3節の『わたしたちは決して恐れない』とは、追い詰められて他に逃れる場所のない人間の、最後の『避けどころ … 砦』に逃げ込んだ人の話です。

 『避けどころ … 砦』に逃げ込んだ人の話です。何か確たる自信があるとか、信念があるから何事にも立ち向かう、『決して恐れない』のではありません。『避けどころ … 砦』に逃げ込んだから、何事をも『決して恐れない』ということです。

 それは『地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移るとも

 海の水が騒ぎ、沸き返り その高ぶるさまに山々が震えるとも』

 揺らぐことはありません。


★このことは私たち一人ひとりに当て嵌まります。追い詰められて他に逃れる場所のなくなるのが、人間の現実の姿です。しかし、信仰者には、『避けどころ … 砦』があります。信仰そのものが、『避けどころ … 砦』です。

 東日本大震災では、『地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移る』ようなことを、多くの人が体験しました。『海の水が騒ぎ、沸き返り その高ぶるさまに山々が震える』という表現も、大震災に遭った人々には、大げさではなかったでしょう。

 しかし、大震災がなくとも、人間は、『地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移る』体験をさせられます。それは病であり死であり、家族の不幸だったりします。

 それらの信仰者に『避けどころ … 砦』が与えられるのです。


★この歌は、5節から、全く様子が変わります。5節。

 『大河とその流れは、神の都に喜びを与える いと高き神のいます聖所に』。

 神の業に信頼し讃美する歌です。似たような表現が、詩編には繰り返されます。そのことと4節までと、どんな関係があるのでしょうか。

 それが6節で分かります。

 『神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。

  夜明けとともに、神は助けをお与えになる』

 つまり、『避けどころ … 砦』とは、エルサレムの都のことです。神の町のことです。


★私は、このエルサレムの都、神の町と、教会とを重ねて考えてしまいます。

 教会は、苦しみに遭った者の、最後の『避けどころ … 砦』です。そうでなければなりません。

 信仰は弱者の倫理だと言った人がいます。その通りかも知れません。しかし、この人は信仰者を貶めて言ったのですが、私はそうは思いません。

 信仰は、悲劇に出会い、弱くさせられた者の、新しい生き方です。自分の持っていたものが失われ、これまで頼りとしていたものが、頼りにはならないと知った者の、新しい生き方です。

 新しい生き方、即ち、新しい倫理であり、新しい論理です。それを弱者の倫理・論理だと指摘するのは、間違っていないかも知れません。

 しかし、蔑むのは間違っています。


★何故なら、この弱さの中にこそ、力があるからです。この一年、礼拝の中で諄いほどに繰り返し読んで来たパウロの言葉です。第2コリント書1章8〜9節。

 『わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、

  生きる望みさえ失ってしまいました。

  9:わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。

  それで、自分を頼りにすることなく、

  死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。』

 弱者の倫理・論理だと言うなら、全くその通りです。しかし、この弱者の倫理・論理は、何と力強い言葉でしょう。

 『自分を頼りにすることなく、

  死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。』

 『神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。

  苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。』

 全く同じ意味だと、私は思います。


★詩編46編6節。

 『神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。

  夜明けとともに、神は助けをお与えになる。』

 夜明けは何時か、分かりません。しかし、必ず来ます。夜の闇に脅え騒ぎ立てるのは、愚かだし無意味です。救いには繋がりません。

 闇が深い時ほど、冷静な言動が必要です。そうでないと、人の命を狙う獣に襲われるでしょう。悩みが深い時ほど、冷静な祈りが必要です。そうでないと、人の魂を狙う獣、つまり人の心の中に寄生しているサタンが、心を食い破って、這い出て来るでしょう。


★7節。同じことが繰り返し言われています。

 『すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。』

  真に頼るべきは神であり、そして真に恐るべきは神です。

 マタイ福音書10章28節。

 『体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、

   魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい』

 真に信頼に足るのは神のみ、そして真に恐るべきは神以外にはありません。

 このことも、私たち一人ひとりに、そして教会に当て嵌めて、受け止めなければなりません。

 真に神を、神のみを頼りとして、教会を守っているのか、他のものに頼ってはいないか、不安になって、神がいないかのような考え方や行動をとっていないか、反省しなくてはなりません。


★10節。

 『地の果てまで、戦いを断ち弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる』。

 これが、9節の『主はこの地を圧倒される』との言葉の意味です。平和という武器で戦争を鎮めるという、逆説が語られています。


★このことは福音書のクリスマス記事と合致します。

 ルカ福音書では、羊飼いたちに王の誕生が告げ知らされました。何度もお話ししましたが、羊飼いたちは特別な存在です。ユダヤ人のご先祖様は羊飼いだったという点を強調出来ますし、この時代、貧しく蔑まれる職業階層だったという点を強調しても間違いではないでしょう。

 私が強調したいのは、羊飼いは兵士の予備軍だという点です。彼らは馬に乗れます。武器を使いこなせます。そして集団行動が出来ます。これは皆、兵士としての資質になります。彼らは明日からでも、新しく誕生した王の近衛兵となることが可能なのです。

 新しい王が誕生するということは、普通は新しい軍隊、新しい政治組織が生まれるということです。

 そこに天の軍勢が現れました。地上に優秀な兵、そして天の軍勢、今すぐにでも、イエスさまを戴いて、ヘロデと、ローマと戦うことが出来ます。

 しかし彼らは戦いません。

 『すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。

   14:「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」』。

 戦わず讃美の歌を歌ったのです。これが平和という武器で戦争を鎮めるという、逆説であり、詩編46編と全く同じなのです。


★11節。

 『「力を捨てよ、知れ わたしは神』。

 神の前に自分の力を誇る程、愚かなことはありません。もしそんな思いをいだいたとしたら、それは不信仰を暴露しているのに過ぎません。軍事力でも、財力でも、信仰の力でも同様です。『力を捨てよ』、神の前に力を捨てること、むしろ無力を自覚すること、それが信仰であり、信仰の力です。


★12節。2節とほぼ同じです。

 『万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。』

 クリスマス、インマヌエルの神の誕生、それは『万軍の主はわたしたちと共にいます』という意味であり、『ヤコブの神はわたしたちの砦の塔』という意味です。

 このことを信じ、このことを前提として、教会の働きを続けてまいりたいと思います。

 弱小なようだけれど、『万軍の主はわたしたちと共にいます』。教会も一人ひとりも危機的な状況のようだけれども、しかし、『ヤコブの神はわたしたちの砦の塔』。私たちは守られているのです。


★今日の説教に必ずしも納得できない、我が家の両親は、なすべきことを成し遂げて、未練なく、天国に召されたと言う人がいたら、それは素晴らしいことです。幸いです。

 一方悲しみの多い人生だった、もっと楽をさせて上げたかったという人がいたら、故人はそれを聞いて幸せでしょう。幸いなるかな 悲しむ者、その人は慰(なぐさ)められん。