日本基督教団 玉川平安教会

■2021年8月29日 説教映像

■説教題 「弱くなれる強さ

■聖書   コリントの信徒への手紙二 10章1〜11節 



★ イヌイット、昔はエスキモーと言われていましたが、生肉を食べる人の意味の、この呼び方は問題ありということで、今はイヌイットだそうです。ある本で、このイヌイットと犬のことを読んだことがあります。当時はエスキモーでした。本当は作者の名前も本の題名も分かりますが、思うところありまして、省略します。

 イヌイットの生活は、ソリを牽く犬なしには成り立ちません。決定的に重要な存在です。犬に依存した生活と言っても過言ではありません。

 著者は、当然、イヌイットの人々は犬を大事にする、家族同様に接すると思っていました。ところが、全然予想とは違います。満足な犬小屋もなく、吹雪舞うような野外に置かれています。夜の間に雪に埋もれることさえあります。食べ物も粗末、鞭を振るい、虐待とも見える扱いです。

 著者は、憤慨し、犬に十分な餌をやり、テントの中に入れ、頭を撫でたり、かわいがります。そうしたら、犬は良き主人に出会ったと喜び、著者に従順に従うと思いきや、全く言うことを聞きません。ソリを牽こうともしません。甘く見られたのです。軽く見られてしまったのです。

 同じようなことを、著者は、アラビアでも体験しました。相手はラクダです。ここでも、飼い主はラクダを大事にしません。著者がかわいがると、ラクダは著者を馬鹿にして、全く言うことを聞きません。

 犬もラクダも、暴君のような飼い主にだけ、鞭にだけ従います。


★ 1節。

 『さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、

   と思われている、このわたしパウロが、

  キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。』

 私はパウロ書簡を読んで、言いにくいこともズバリという厳しい人、激しい人だという印象を持ちます。ところが、パウロ自身に言わせれば、『面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている』そうです。

 『面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る』まるで二面性、裏表があるような言い方です。


★ 逆に見れば、コリントの信徒は、「パウロなんてたいしたことはないよ、手紙だときついことも言うようだけれども、実際にあって、こっちが強く出れば折れる。手紙に書いてあることなんか、半分くらいに読めばちょうど良いよ。」そんな風に受け止めているのでしょう。

 要は、パウロを小馬鹿にしているのです。何故小馬鹿にするのか、怖くないからです。優しいからです。心が広くて、闘争的でないからです。

 パウロに対してイヌイットの犬、アラビア遊牧民のラクダのように対処しています。

 優しい人の言うことは聞かない、愛情を持って接してくれる人のことは、軽く見て、重んじません。逆に横暴な人、声を荒げる人に従います。そんな人がいたら、その人は、犬、ラクダに等しいことになります。


★ ラップランドでトナカイを飼う人のことを描いた本を読んだことがあります。時に、一人で数千頭ものトナカイを飼っています。私が読んだ本では、一人の子どもが200頭のトナカイを見ています。この子どもは、自分のトナカイ一頭一頭に名前を付けています。200頭のトナカイ、一頭一頭の見分けがつくのです。

 慈しみ育てています。そして、トナカイはこの子どもにとても従順です。

 私の個人的感想かも知れませんが、イヌイットもアラビア遊牧民も、家畜の扱いを間違っていると思います。犬だって、ラクダだって、本当に愛情を持って接すれば、やはり通じるのではないでしょうか。情けをかけたら言うことを聞かない、動物に愛情をかけても無意味だし、愚かだと考える人は、やはり間違っていると思います。


★ 神さまの目から見たら、私たち人間は犬以下ラクダ以下の存在かも知れません。そんな存在は、言葉で説明したり、慈しんだりするよりも、鞭でひっぱたいた方が、効率的かも知れません。

 現に、聖書時代の神々は、そんな存在です。神々は、人間を従えるために、洪水を起こしたり、病を与えたり、雷で打ったりします。

 しかし、それは聖書の神さまではありません。


★ 出展を忘れたいい加減な話かも知れませんが、こんな話があります。明治、日本にやって来た宣教師が、日本人の教育の仕方に感心します。それは小さな子どもに対して、大人に対するように理屈を説き、諄々と諭している様子に感心したのです。

 『チップス先生さようなら』などに描かれていますが、イギリスの上流子弟への教育には、鞭が欠かせません。体罰が当たり前でした。『チップス先生さようなら』は、当時の常識に反して、鞭よりも愛情が生徒を育てるという物語です。

 日本にだって、否、日本こそ、体罰や科学的根拠に反するトレーニングがあり、未だに、プロ野球の世界でさえ横行しています。しかし、一方で、イギリスの教育を受けた宣教師が感心するような姿勢もあったのです。


★ 2節。

 『わたしたちのことを肉に従って歩んでいると見なしている者たちに対しては、

   勇敢に立ち向かうつもりです。わたしがそちらに行くときには、

   そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っています。』

 これを、私はこんな風に読みます。「あなた方が、優しい言葉には逆らい小馬鹿にするならば、鞭には従うのならば、私だってそのように対処するしかありません。そんなことはさせないで下さい。」


★ 鞭を振るって、脅しで、コリント教会員を支配しようとした人が実際に存在したと思います。所謂巡回説教者です。パウロには使徒としての資格がない、自分たちの方が、律法に通じており、厳格で正しい信仰を伝えていると主張する人たちです。

 パウロはこの巡回説教者、色濃くユダヤ教の律法主義を残し、割礼に拘る人々に苦しめられます。

 彼らは、コリント教会員に対して、強い影響力を持っていました。


★ 大分回り道になりますが、この機会にお話ししたいと思います。

 パウロたちの伝道は、何故、奇跡的とも思われるスピードで、ローマ世界に拡がっていったのでしょうか。車も、電話も印刷もない時代です。

 それは下地、余地があったからです。なるべく端折って申しますが、ローマはその軍事力で急速に版図を広げました。貴族や大商人は、富と平和を享受します。世の中が落ち着くと、当然、高い文化芸術への欲求が起こります。戦闘も人間の本能かも知れませんが、芸術も人間の本能的欲求です。宗教についても、これまでのローマ神話や神殿祭儀に満足できる筈がありません。

 市民の間では、より神秘性が高い宗教、女性にはより倫理性が深い宗教が歓迎されます。それに応える、高い神秘性、倫理性がある宗教は、東方の宗教でした。ゾロアスター教とかの神秘的要素が強い宗教でした。中でも、その哲学性、倫理性で人々を魅了したのが、ユダヤ教でした。ローマ世界に浸透して行きます。ところが、ユダヤ教にはローマ人にしたら致命的とも言える欠陥がありました。厳格な律法、そして割礼、これはユダヤ教への改宗を妨げるものでした。そもそも、征服者が被征服民の宗教に帰依し、奴隷の印とも見える割礼を受けることは大きな障害です。ユダヤ教シンパは増えても、改宗者は多くはありません。

 

★ そこにキリスト教が伝えられました。ユダヤ教に比べても、より神秘性、哲学性を持ち、倫理的な教えに多くの人が惹かれ、律法主義や割礼といった障害もありません。受洗者が続々と現れました。

 いったん、この垣根を越えてしまった人に、巡回説教者が説きます。「あなた方が聞いた教えは、不完全だ。律法を知らず、割礼がないのは、まだ未熟な信仰だ」。

 ひとたびジャンプして、キリスト教に入信した人には、この説は、とても説得力を持ちました。

 正に、一度味を知った人に、老舗の味はそんな程度ではないよ、段違いに美味しいよと言うようなものです。

 こういったことは、現代の教会にだって起こります。いろいろと事例を挙げることが出来ます。ローマ法王が来日すると、何故か日本のプロテスタント教会員まで色めき立ちます。新しい宗教に、新しい教えに魅了された筈の人が、案外に権威、時に伝統という名前の権威に弱いのです。宗教改革で否定されたはずの、形骸化した儀式やヒエラルキーに弱いのです。


★ 3〜6節も読むべきでしょうが、話が煩瑣にならないように、7節に飛びます。

 『あなたがたは、うわべのことだけ見ています。

  自分がキリストのものだと信じきっている人がいれば、

  その人は、自分と同じくわたしたちもキリストのものであることを、

  もう一度考えてみるがよい。』

 『うわべのことだけ見ています』は、説明が重なりますので省略します。後半です。使徒パウロは、パウロを否定する人々のことを、原則否定してはいません。考え方に違いがあっても、同じ神さまを信仰しているのだと認めています。

 否定しているのは、向こうの方です。パウロにはパウロの信仰、理解があるとは言わずに、パウロは駄目だと言っています。同じ神さまを信仰していることを否定しています。

 

★ 8節。

 『あなたがたを打ち倒すためではなく、

  造り上げるために主がわたしたちに授けてくださった権威について、

  わたしがいささか誇りすぎたとしても、恥にはならないでしょう。』

 分かり難い表現です。このタイミングでも、パウロには遠慮があるのかも知れません。

露骨に言えばこういうことでしょう。

  … パウロには神さまから与えられ使命があり、それを達成するために与えられた権威がある。その使命とは、あなた方の信仰を否定するものではなく、より確かな姿に作り上げるためのものだ。 …

 こう言うと、結局パウロの教えが上だと言っていますが、これは、パウロの教えは未熟だ、間違っていると否定されていることへの反論です。


★ 9節。

 『わたしは手紙であなたがたを脅していると思われたくない。』

 大声による恫喝や鞭で、従えるようなことはしたくないとパウロは言います。コリントの信徒を犬やラクダのようには見ていないし、そのように扱ってはいません。

 真心で接し、愛のこもった言葉で、理解して貰いたいのです。

 むしろ、ユダヤ人と同じ律法を守らなければ義とされない、割礼を受けなければ救われないと説く人は、大声による恫喝や鞭で従える人です。コリントの信徒を犬、ラクダ扱いしている人です。

 

★ 10節。

 『わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、

   話もつまらない」と言う者たちがいるからです。』

 パウロ書簡中に何度も、パウロは見栄え良く雄弁家であったアポロを意識している、強い表現を取るなら、嫉妬しているのではないかと思われる箇所があります。ペトロに対しても、その存在・権威に複雑な感情を持っていると読むことが出来るような箇所があります。しかし、使徒言行録には、パウロがギリシャ人から神と見紛うばかりだと、その容姿や弁舌を称えられる箇所もあります。

 10節も、批判を受けて、これに反論しているとは間違いありませんが、むしろ、ここにこそ、鞭を振るうことをしたくないパウロの基本姿勢が現れていると読みます。


★ パウロはこと福音宣教の内容に関する限り、一歩も譲ることは出来ません。時に激しい論争も展開します。相手がギリシャ哲学家なら容赦なく論駁します。しかし、コリントの信徒を相手に、パウロの最も得意とする争論術を用いて、叩き潰すことをしません。少なくとも叩き潰すことが目的ではありません。悔い改めを願っています。

 それがために、どうしても『手紙は重々しく力強い』、つまり、理屈に比重を置いたものになりますが、『実際に会ってみると』、優しくなります。それを『弱々しい人』と見るのは、その人がイヌイットの犬であり、アラビア遊牧民のラクダだからに過ぎません。


★ そんな人は、十字架に架けられた神さまさえも、『弱々しい』と思うでしょう。そして、『「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」』と叫ぶことでしょう。