◆ 誰もが知っていると言って良い箇所です。聖書の名場面中の名場面です。誰もが知っているからこそ、順に少しずつ読みます。 『人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。 ペトロは遠く離れて従った。』 正直に申しまして、この場面の臨場感がつかめません。どの程度、緊迫した場面なのかという点です。直前の箇所でイエスさまが逮捕されました。この時には、捕り手の一人が耳を切り落とされるという事件も起こりました。しかし、騒乱という程のことにはならなかったようです。イエスさまが、『やめなさい。もうそれでよい』と言う言葉で、それを防いだと解釈することも出来ます。 ◆ ルカは特に何も記していませんが、マルコ福音書ですと、14章50節以下。 『50:弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。 51:一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。 人々が捕らえようとすると、52:亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。』 弟子たちがイエスさまを見捨てて逃げ出したと、はっきり記されています。 特に『一人の若者が、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった』、この箇所については、ほぼ定説となった解釈があります。つまり、この若者とはマルコ福音書の著者であるマルコ自身のことだと言うのです。 ペトロは、失礼な言い方かも知れませんが、聖書を専門的に勉強したことはありません。そもそも教養のある人ではありません。そこで、パウロのように神学を論じるのではなく、専ら自分を体験を語ることで、宣教したと考えられます。それは、おうおうペトロ自身の失敗談でした。マルコは福音書を著すに当たって、おそらくはペトロに命じられて、この失敗談をそのままに収録しました。 敬愛するペトロ先生の恥ともなることを記したマルコは、自分自身についても、その惨めな姿を記さずにはいられなかったというのです。 ◆ これらの周辺については、もっともっとお話ししたいことがあります。しかし、脱線になりますかすら、ルカそのものに戻ります。 54節の、『ペトロは遠く離れて従った』には、マルコのような緊迫感はあまり感じられません。命の危険を覚える程の切迫感はありません。他の弟子たちについても、彼らが逃げ出したとは記していません。少なくとも、ペトロの身の危険については、言及されていません。 ◆ 55節。 『人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、 ペトロも中に混じって腰を下ろした』 多分寒かったのでしょう。状況を考えますと、信じられないような呑気さだとも感じますが、それ程寒かったと解釈することも出来ますでしょう。次週読むことになりますが、ペトロは、 『誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい』と言われたのに、眠りこけてしまいました。 この場面では、寒いという誘惑に勝てません。他の弟子たちは逃げ出したのに、ペトロは、こっそりとではあっても、イエスさまの後を追いました。決して勇気が足りないのではありません。しかし、寒さには勝てず、火に当たりました。繰り返し、ペトロの弱さが描かれています。信仰の弱さ気力の足りなさと言うよりも、肉体の弱さです。 ◆ 56節。 『するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、 じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った』 写真のない時代です。ユダヤ教は似顔絵さえ禁じますから、この女がペトロを知っていたのは、イエスさまの伝道集会に出ていたからだと考えられます。『たき火に照らされて座っている』ような薄暗い中で判別がつくのですから、間近に顔を見た体験があるのだと思います。そこでペトロをも見ているのですから、遠くからチラリと見たと言うようなことではなく、イエスさまのお側近くにいたのではないでしょうか。 この箇所はペトロの裏切りを描いていますが、もしかすると、この女も裏切り者なのかも知れません。 ◆ 57節。 『しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った』 女に見抜かれるという、予期しないことに遭遇し、とっさに出た言葉でしょう。しかし、とっさに出る言葉こそが、本音なのかも知れません。 『わたしはあの人を知らない』と、嘘を言いました。この局面で、嘘も仕方がない、そも本当のことを言う必要もないと受け止めることも出来るでしょう。 しかし、『わたしはあの人を知らない』とは、実は大変に重い言葉です。創世記4章7節。 『主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」 カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」』 この出来事について詳細を述べる暇はありませんが、これは、単なる嘘ではありません。『知りません。わたしは弟の番人でしょうか』弟との関係を否定する言葉です。その結果は、神さまとの関係をも否定します。 ◆ 聖書で『知る』とは、単に知識として知ることではありません。そこにおいて全人格的な交わりが生まれるという意味です。大切な関係が出来るということです。 マタイ福音書7章21〜23節。 『21:「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。 わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。 22:かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、 御名によって悪霊を追い出し、 御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。 23:そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。 不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』 長い引用でした。ここでも、『知らない』とは関係性を否定する言葉です。 詩篇でも、神を知るという表現は、神に深く信頼するという意味で用いられます。 ◆ これはちょっと穿った解釈かも知れません。そんなことを言う学者はいませんが、私は考えてしまいます。もしかしたら、この女中さんは、ペトロを告発する、追い詰めるなどという気持ちはなかったのかも知れません。彼女の立場では、そも今何が起きているのかも知らない可能性があります。イエスさまを死刑にするために捕らえ、これから不法な裁判が始められ、結果は十字架刑が宣告される、そんなこととは知らなかったのかも知れません。 ただ、単純に、ペトロを知っている、イエスさまを知っていると言いたかったのかも知れません。ただ無邪気に、『ペトロを知っている。イエスさまも知ってる』と言ったのかも知れません。 これとペトロの『わたしはあの人を知らない』とは、対をなしているのだと考えます。 女は、ほんの僅かにつながりなのですが、『ペトロを知っている。イエスさまも知ってる』と言いました。対してペトロは、イエスさまと常に行動を共にし、他の誰よりもイエスさまを深く知っている筈のペトロが、『わたしはあの人を知らない』と言ったのです。 ◆ 58節は繰り返しですから省略しまして、59節。 『一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。 ガリラヤの者だから」と言い張った』 この箇所・表現には拘りがあります。 先ず『一時間ほどたつと』、58節には『少したってから』とありますから、合わせると、ペトロは、1時間以上、1時間半くらいは、この危険な中庭にいたことになります。 そうしますと、ペトロさんを、勇気が足りないと批判することは出来なくなります。そもそも、他の弟子たちは皆逃げ出したのに、ペトロだけが、大祭司の中庭に忍び込んだのです。 もう一つ拘りたいのはこの点です。つまり、『この人も一緒だった。ガリラヤの者だから』何故、『ガリラヤの者だ』と分かったのでしょうか。服装でしょうか。髪型でしょうか。当時のガリラヤ人は、一目でそれと分かる服装、髪型だったのでしょうか。そんなことはないと思います。分かったのは、『わたしはあの人を知らない』という言葉からではないでしょうか。 私は東北人、秋田の生まれ育ちですから、方言について、屈託した思いがあります。小学生の時、「悪い言葉、汚い言葉を使ってはならない」と教育されました。「悪い言葉、汚い言葉」とは、秋田弁のことです。 ◆ 一昔前までは、映画やテレビの画面で秋田弁を使う人は、三枚目ばかりです。主役が秋田弁を使うことはありません。伴淳もあき竹城も山形の人で、秋田ではありません。しかし、コメディアンは何故か秋田弁なのです。 最近、美人女優の代表格に秋田の人が多いので、大いに溜飲を下げますが、未だに、秋田人で、大河ドラマや朝ドラの主役を務める男性俳優はありません。 私は既にテレビが普及した世代ですから、酷く訛りを気にすることはなくて済みましたが、少し先輩の中には、これで苦しんで、せっかく入った東京の名門大学を辞めた人さえいます。 一方で、同じ方言でも、大阪の人や福岡の人は大いばりで方言を使うことが出来るので、私から見ると、羨ましいと思う一方で、狡いようにも思います。 長々、くどくど申しました。要するに、ペトロは訛っていたのではないでしょうか。それで、ガリラヤ人とばれたのでしょう。 惨めです。訛りが惨めとは言いません。しかし、3年以上もイエスさまといっしょにいて、弟子たちの中でも筆頭格で、それなりに偉い人となっていたペトロは、この場面で何とも、惨めな姿を曝してしまいます。眠いのに負け、恐怖に負け、寒さに負け、あげくは、『わたしはあの人を知らない』とイエスさまを否定し、つまりは、自分自身をも否定したのです。 ◆ 60節。 『だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。 まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた』 ペトロはまたも否定しました。三度目です。 ◆ 61節。 『主は振り向いてペトロを見つめられた』 そのままに読むと、ペトロは、イエスさまの直ぐ側にいたことになります。ちょっと理屈が合いません。この場面を絵に描いてみたら、おかしなことになります。ごく狭い庭に、大祭司たち、役人、引き立てられたイエスさま、その周囲には女中さん初め下働きの者までがいて、紛れ込んだペトロまでいます。あまりに密になってしまいます。 『主は振り向いてペトロを見つめられた』という表現は、他の三つの福音書にはありません。先週も先々週も申しましたように、極めて重要な場面だからこそ、各福音書記者は、その思いを込めて、この場面を描いています。そこに違いが生まれるのはむしろ当然です。 ルカだけが、他と違うことを書いています。ここにルカの拘りがあります。 『主は振り向いてペトロを見つめられた』。イエスさまを知らないと言い、関係を否定したペトロを『主は振り向いてペトロを見つめられた』のです。 ◆ 創世記3章8〜9節。 『その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。 アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、 9:主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」』 創世記4章6節。 『6:主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。 7:もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。』 既に引用しました創世記4章9節。 『主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」 カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」』 ペトロはイエスさまを正視することは出来ません。しかしイエスさまは『ペトロを見つめられた』のです。 ◆ ルカ福音書22章61〜62節。 『ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」 と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた』 『鶏が鳴く前に』、マルコでは『鶏が二度鳴く前に』つまり、1番鶏が泣いてから、2番鶏が鳴くまでの僅かな間にとされています。先ほど、ペトロの言葉でガリラヤ人とわかったと言いましたが、その間に1時間半あったとすれば、ちょっと間延びです。しかし、『鶏が二度鳴く前に』なら合致します。それぞれの強調点の違いでしょう。 ◆ ペトロは単に目の前の難を逃れるために、『その人を知らない』と嘘をついたのではありません。イエスさまとの関係を否定してしまったのです。しかも、1番肝心な時に。 『主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った』自分のこの言葉を、裏切ったのです。その時に『主は振り向いてペトロを見つめられた』のです。『知らない』と否定した者に、十字架の救いの目を向けられたのです。ペトロは12弟子の筆頭です。そのペトロは、裏切り者であり、かつ、十字架によって救われた人なのです。 |