◆ 新共同訳聖書には段落毎に、小見出しが付いています。検索したい時には便利ですが、聖書の本文ではありません。礼拝や聖書研究祈祷会で、この小見出しを読むのは適当ではありません。あくまでも便利のための工夫に過ぎません。 しかし、新共同訳聖書の普及と共に、この小見出しも本文のように扱われている嫌いがあります。便利は便利ですが、解釈を強制しているようにも感じられます。 また小見出しの下に、並行記事が挙げられています。これはとても便利です。例えば、今日の頁の真下には、「ペトロの離反を予告する」という小見出しがあり、その下には、マタイ、マルコ、ヨハネ各福音書の並行記事が挙げられています。これはとても役に立ちます。 ◆ ところで、今日の箇所には、小見出しはありますが、並行記事は挙げられていません。そうしますと、ここはルカ福音書だけのオリジナルな記事ということになります。しかし、マルコ福音書の42節以下とは、酷似しています。殆ど一緒です。何故か並行記事とは認められていません。理由は、マルコ福音書では、35節以下がひとまとまりで、35〜41節は、ルカにはないからだと考えられます。 ◆ しかしながら、マルコ福音書に記された、ルカ福音書にはない部分も踏まえて読んだ方が、理解の手助けになろうかと考えます。むしろ、マルコ福音書も一緒に読まなくては、理解が困難なのではないでしょうか。 そこで変則的ですが、先ず、マルコ福音書の、導入部分を読みます。 … 35:ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。 「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」 36:イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、 37:二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、 もう一人を左に座らせてください。」 38:イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。 このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」 39:彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。 「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、 わたしが受ける洗礼を受けることになる。 40:しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。 それは、定められた人々に許されるのだ。」 41:ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。 ◆ ゼベダイの子らは、『栄光』の意味を、根本的に誤解しています。イエスさまは確かに父なる神さまからの栄光を受けようとしておられます。しかし、その『栄光』とは十字架に架けられて死ぬことです。ゼベダイの子らは、イエスさまがイスラエルの王となって玉座に座るものと考えています。確かにその通り、間もなくイエスさまはイスラエルの王となって玉座に座られます。しかし、その玉座が十字架です。 ですから、『栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください』とお願いしていることは、イエスさまの十字架の『ひとりを右に、ひとりを左に』架けて下さいと願っていることになります。彼等には、そんな自覚・覚悟はありません。左大臣・右大臣になれるものと勘違いしているのです。 ◆『イエスは言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。 あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、 わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」』 イエスさまは十字架のことを仰っています。ゼベダイの子らの欲望とはずれています。彼等は、『自分が何を求めているのか、わかっていない。』のです。 私たちはそうした存在です。『自分が何を求めているのか』『何を求めたら良いのか』さえ分からないのです。 ◆『ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。』 『自分が何を求めているのか』『何を求めたら良いのか』さえ分からないのは、他の10人の弟子たちも、全く同じことです。彼らにも十字架が見えません。まるでイエスさまに従うことが立身出世の道であるかのようです。 ◆ 以上で、マルコ福音書を読むのは止めまして、ここからは、ルカ福音書を読みたいと思います。 24節。 『また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか。』 『という議論も起こった』とあります。つまり、他にも議論がありました。 それは直前の23節に記されています。所謂『最後の晩餐』の席上、イエスさまは、弟子の裏切りを預言されました。直截には、イスカリオテのユダのことでした。しかし、彼一人ではありません。厳密に言えば、他の11人も同じことです。銀貨30枚でイエスさまを売り渡したのはユダですが、他の11人も、その場から逃げ出しました。結果、イエスさまと一緒に十字架に架けられた者は、一人もいません。 それなのに、11人は、23節。 『そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、 そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。』 自分だとは思っていません。裏切り者は誰だ、駄目な奴は誰だと、犯人捜しをしています。 ◆ これは、ゼベダイの子ら、ヨハネとヤコブが言った『栄光をお受けになるとき、わたしども の一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。』の裏返しです。 『だれが一番えらいのか』、「だれが一番駄目なのか」。 人は、この競争が大好きです。クイズ番組は、だいたい、これで成り立っています。 順位付け、ランク付け、大好きです。人のことは言えません。私も例外ではないでしょう。テレビ番組で、何かのランク付けがありますと、つい、最後の結果を知りたくなります。その事柄に大きな関心があるわけでもないのに、10位から7位までのランキングを見ますと、どうしても1〜3位を知りたくなります。 ◆ 要するに、人を点数に置き換えることが大好きです。人を点数に置き換える、即ち、人の値打ちを数字で量る、これが大好きですし、数字が分かると、その人の全てを知ったような気持ちがします。逆に点数が低いと、自分の全人格が否定されたような気がします。全存在が否定されたと思います。 ◆ マタイ福音書7章1〜2節。 『1:「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。 2:あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。』 何度も申し上げたと思います。『裁く』というギリシャ語の字は、重さを量るということが語源です。ですから、『人を裁くな』とは、人を数字に置き換えるな、数字では何も分からないということです。人間は、人を数字に置き換え、ランク付けし、そして裁いています。ややもすれば、自分自身をも、数字に置き換え、ランク付けし、そして裁いています。そうして人を苦しめ、自分が苦しんでいます。 ◆ 今日のこの場面は、イエスさまの十字架へと向かう場面です。十字架、人間が神さまを裁き、有罪とし、そして処刑するのが、十字架です。ユダは銀貨30枚でイエスさまを売り渡しました。イエスさまの命の値段は、銀貨30枚とされました。これこそが、イエスさまを裁いたことです。その象徴です。 イエスさまが十字架へと向かう場面で、弟子たちは、互いにランク付けし、互いに裁き合い、互いに争っています。 先週の礼拝でも読みましたように、本来、神さまが人間を裁く筈です。しかし、現実には、人間がイエスさまを、神さまを裁きました。神さまをも裁く人間たちが、互いに裁き合うのは、理の当然かも知れません。 ◆ 25〜26節。 『25:そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、 民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。 26:しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、 いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。』 世の価値観、世の倫理を、そのまま教会に持ち込んではならないという意味かも知れません。その通りでしょう。 これを点数を付ける、裁くという観点で読みますと、以下のようになりますでしょうか。 『王』、『権力を振るう者』は、一般に、点数の高いと考えられている者です。財産、部下の数、確かに数値が高いでしょう。 『いちばん偉い人』ランキングのトップです。多分年齢も高いでしょう。それに対して、『いちばん若い者』、勿論年齢が下です。多分、地位も、財産も低いでしょう。 ◆『王』、『権力を振るう者』、『いちばん偉い人』、『上に立つ人』は、この世では同時に『守護者と呼ばれてい』ます。逆に言えば、これらの人の庇護を受けていれば、安全だと考えられています。これらの人から嫌われると、大変、不安になります。 しかし、実際には、それは事実と全く異なります。『王』、『権力を振るう者』は、若者を戦場へと駆り立てる者です。『いちばん偉い人』、『上に立つ人』は、お国のために、家族のために死んで来いと命令します。お国のために、家族のために、人を殺せと命令します。 これらの人の元では、本当には安全・安心はありません。 ◆ イエスさまだけが、人を戦場に追いやるのではなく、人に裁かれ、自らが死地に赴いた王です。ですから、25〜26節は、単に謙遜で人に優しくありなさいとか、人に仕えなさい、とかという意味である筈がありません。 27節も同様です。 『食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。 しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。』 教会では、この世の価値観やこの世の地位を持ち込んで、誰かが誰かに威張る、まして支配するようなことがあってはなりません。それは、神の国の姿から遠いし、イエスさまの姿勢とは全く違うからです。 ◆ 白河時代、教会員の中に、福島県の知事の首さえすげ替えることが出来ると言われる人がいました。この人はお医者さんで、日曜日にも、夜中にも、診療を断ることがありません。自然、礼拝出席は芳しくありません。赴任したばかりの私が、もっと礼拝に出席して下さいと言いましたら、「神さまは待ってくれるが、患者は待ったなしだ」と反発されてしまいました。しかし、その後、月に1〜2度は教会に顔を出すようになり、「今度来た若い牧師が言うんだから、仕方あんめえ」と言っていました。 そして、教会に出ると、必ず、玄関で皆さんのスリッパを揃えます。 この人は、貧しい田舎旅館の息子で、16人きょうだいの長男でした。生活のために、郵便局の給仕さんとして働き、節約のために、牧師のいない教会に、番人として住み込んでいました。そこで信仰が与えられ、また、教会員の銀行家に見込まれ、中学から旧制高校そして医学部の学資を出して貰い、白河に帰って開業したのでした。 町で一番偉くなって、そして、昔と同じように、教会のスリッパを揃えるのです。 それが教会です。 ◆ 諄いかも知れませんが、似たような実話を申します。松江北堀教会に、教会員夫妻の長男であり、教会員の兄である人が、帰って来ました。本人は教会員ではありません。長く北大の教授を務め、定年になって、地元島根の公立大学の学長に就任しました。この人が、詳しいことは忘れましたが、勲何等だかに叙勲されることになりました。 この人が言います。「叙勲なんて嫌だ」。「どうしてですか」と聞きますと、「1回しか着ない、モーニングなんか作りたくない」と言うのです。誤解されないように言いますと、ケチではありません。教会を建て直す際には、とても多額の献金をして下さいました。 奥さんも東京に行きたくないと言います。理由は、「偉い人が集まる晩餐会で、ご馳走を食べても、美味しくなんかない」。結局、後に続く人のことがあるという大学の圧力で、叙勲を受けたと思います。 … これが教会という所です。 ◆ 29〜30節。 『29:だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、 わたしもあなたがたにそれをゆだねる。 30:あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、 王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」』 ここには、あたかも教会が教会の権威が、この世を治めるかのように記されています。 しかし、その前の言葉からして、そのような意味である筈がありません。 教会の権威とは、仕える権威です。世に使わされ、仕えるのが教会の権威です。 |