★ 16節。 『それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。 肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。』 『肉によって』という表現をどう解釈するか、これが鍵でしょう。ここで用いられている字は、聖書の中で、頻繁に用いられている字と同じです。聖書中の肉という字の大半は、この字、です。 また、この語が持つ響きと申しますか、意味合いと申しますか、それは、日本語で肉乃至は肉体と言う時と、あまり変わらないと思います。 『肉によって』とは、文脈からも明らかなように、人間的な観点でということでしょう。もっと具体的に言えば、血筋、家柄、さらには民族、そういった事柄です。まとめていえば、出自です。 肉という時、他にも、肉欲という表現にあるように、いろんな意味合いが出てまいります。しかし、ここでは、出自、その意味合いで、『肉によって』と表現されています。 ★ 使徒パウロはその出自故に、苦しみました。出自と言いましたが、家系のことではありません。その点ならば、パウロは文句なし合格です。 問題は逆で、ユダヤ教のエリート教育を受けたからでしょうか、若き日のパウロはユダヤ教の教えにとても熱心で、ために、キリスト教を異端視し、積極的に迫害しました。最初の殉教者ステファノが殺される場面にいたほどです。 その後、ダマスコ途上の回心と言われる劇的な体験によって、イエスをキリストと信じる信仰を持つに至りましたが、十字架の前のイエス・キリストを知りません。 ために、パウロはユダヤ教ではエリートですが、キリスト教では、ノンキャリアどころか、真逆の存在です。 そのことで、容易に受け入れて貰えないし、誤解されたり、拒否されたりしました。 ★ 逆にキリスト教のエリートは、12弟子かそれに近い人、要するにイエスさまを直接に知り、その教えを受けた人々です。また、主の兄弟ヤコブは、早くからエルサレム教会の指導者となっていました。 何時の時代にも、どこの国の宗教にも見られる現象です。最初のご教祖を知っている者、血縁者などが、その教団の指導的地位に就きます。 ★ 16節後半をもう一度読みます。 『肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。』 知ろうとしても、無理でしょう。 『知る』という字は、常に申しますように、単に知識として修めるという意味合いに留まるものではなく、関わりを持つ、つながる、くらいの意味です。『かつてはキリストを肉によって知っていた』これは文脈から切り離しても、意味は明瞭だと思います。つまり、地上のイエスを知っていた。何らか関係があった。そして、そのことを決定的に重要だと考えている人が存在したのです。 また、そのような観点から、パウロは直接イエスを知らない、だから大したことはない、12弟子は勿論、エルサレムからやって来た他の弟子に比べたら取るに足りない、こう考えたのです。 コリント書の最初の方を見ますと、このことがなかなか深刻な問題でした。 ★ 17節。 『だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。 古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。』 時代が下るに連れて、地上におられたイエスさまを、歴史上のイエスさまを直接、知っていたという人は少なくなってきます。 コリント書が記された頃には、まだまだ現実の問題でしたが、世紀が新しくなる頃には、該当する人は殆どいなくなった筈です。それから10年20年後には、誰もいません。そうして、コリント書に記された問題は自然消滅したのでしょうか。そうは行きません。 ★ 現在でも、今日の教会でも、同じような問題が依然として残っています。16節の前半、『それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい』。コリントでも、現実に問題だったのは、前半の方だったかも知れません。 このことは、キリスト者の交わりという観点で考えた方が分かり易いかも知れません。出自、つまり、家柄や民族や社会的階級、こういうことで分け隔てがあるとすれば、それは、教会の本質に拘わる大問題です。何らかの手当がなされて、教会内の差別的な意識が解消されなければならないでしょう。少なくとも、その努力が必要でしょう。 しかし、それ以前に、教会を、そのような人間的な観点で見ていること自体が問題です。教会を、人間的な交わり、いろんな人がいろんな所から集まってきて、仲良く交わりを持っている、そういう所だと考えるから、逆に差別が起こります。 人間的な組織や交わりを重大視するから、躓きが起こるのです。 ★ もう一度17節を読みます。 『だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。 古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。』 『キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者』、直接には洗礼を受けたことです。洗礼とは、過去の自分を十字架に架けて殺し、新しい命に生まれ変わることです。 パウロは正しくそのように生まれ変わりました。 フィリピの信徒への手紙3章8節。 『そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、 今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、 それらを塵あくたと見なしています。』 ★ 洗礼を受けることは、それまでの自分から自由になることです。過去に拘泥しないことです。 教会によっては、洗礼を受けることを即ち、新生と呼びます。バプテスト系には何とか新生教会と名前を持つ教会があります。 教会によっては、洗礼の時に新しい名前、洗礼名が付けられます。洗礼式に立会、新しい名前・命の親となり、その後の人生に責任を持つのが、ゴット・ファーザーです。昔は洗礼親と標記されましたが、最近は、ゴット・ファーザー、ゴット・マザーと呼ぶようです。そのためでしょうか、映画の『ゴット・ファーザー』のような人と誤解されているようです。 ★ 16、17節を重ねて読みますと、イエス・キリストの十字架に触れ、新しく生まれ変わった筈の人々が、そのことを含めた過去の体験知識に拘泥しており、ややもすればイエスさまを十字架に架けた古い教えに戻ろうとしていると批判されています。 ★ 18節。 『これらはすべて神から出ることであって、 神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、 また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。』 少しこの箇所を理解出来たかなと思った瞬間に、全然分からなくなってしまいます。 『和解』深い意味を持った言葉ですが、なるべく簡単に申します。大胆に約めて申します。和解と言うと、互いに争っているものが、お互いに歩み寄って、妥協点を見い出したという意味合いです。しかし、神さまと人間の関係はそのようなことでは説明できません。人間も悪かったが、神さまにも責任がある、お互いに非を認め合って、…そんなことではありません。 それでは、しばしば親が子供に対してするように、全てを不問にし、親の方から歩み寄って、一切を水に流した、そういうこととも違います。 コリント書では常にそうですが、背後にあるのは、イエスさまの十字架です。 つまり、罪の赦し、罪の贖いです。和解とは、本来、対等な関係に置かれた両者が、相互の責任でなすべきもの、それぞれが歩み寄って行われるべきことです。それが、全く、神の一方的な行為、神の恵みとして行われた、これが、ここで言う和解です。日本語の和解からの類推では限界があります。これが、パウロの信仰の根本なのです。 ★ この箇所からは大分脱線しますが、私なりの説明を加えたいと思います。和解、また信仰義認論について、端折って端折って申します。 人は生まれながらに死に定められた存在です。死をもって贖わなければならない、罪を背負って生きています。原罪です。発想が逆なのです。人は死に定められている、死刑になる。何故ならば、それだけの罪を犯したからだ。しかし、罪亡くして死ぬ者もいる。それは、人間が生まれた瞬間に罪に定められているからだ。これが原罪です。 また、死に定められていること即ち、死の奴隷です。誰もこれから逃れられません。人は人生そのものが、死に縛り付けられています。これが原罪です。 ★ 奴隷はどうやったら自由になれるでしょうか。100万円で買われた奴隷が懸命に働いて、1000万円稼いだとしても、自由にはなれません。稼ぎが良い故に、奴隷として、より縛られるでしょう。つまり、人はどんなに善い行いを重ねても、死の奴隷から解放されません。 奴隷が自由になれるのは、第3者が身請け金を払ってくれた場合だけです。死の奴隷の代価ですから、代価は命です。つまり、イエス・キリストの十字架だけが、人に自由を与えます。 死刑囚が、処刑を停止される場合があります。処刑され、死んだ場合です。首の縄が外されます。この後、生き返っても、再び死刑が執行されることはありません。これは日本の法律にも定められています。つまり、洗礼を受けて一度死んだ者は、再び殺されることはありません。神さまによって与えられた新しい命は、死のサタンをこれを奪うことは出来ません。 これが『和解』です。日本語の響きでは絶対に理解出来ません。『和解』は、神さまと一人一人の人間に新しい関係が生まれることです。新しい関係を神さまが与えて下さることです。 ★ 18節をもう一度読みます。 『しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、 わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった』 18節でも、19節でも、『和解の務をわたしたちに授けて下さった』、『わたしたちに和解の福音をゆだねられた』と、ありますように、これが、教会の福音宣教の根拠であり、福音宣教の内容です。 先ほど、奴隷が自由になれるのは、第3者が身請け金を払ってくれた場合だけと申しました。人間の世界ですと、身請け金を払ってくれた者が新しい主人になります。同様に、命の代価である十字架に架けられた方が、新しい命に生きる者の主人です。 ★ またちょっと脱線します。かつ竹澤牧師流の脱線ですが、おゆるし下さい。 人はおうおう会社の奴隷になって生きています。この会社が倒産すれば人は自由になるでしょうか。なりません。失業者になるだけです。自由にはなれません。 本当に自由になるためには、新しい会社に就職するかして、新しい仕事を見つけなければなりません。 同様に、人が本当に自由になるためには、新しい使命が必要です。役割が必要です。神さまとの新しい関係に入ること、これが『和解』です。 ★ 17節をまた読みます。 『だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。 古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである』 『新しく造られた』、『すべてが新しくなった』とは、この人が、新品に作り替えられたという意味ではありません。性格或いは性根を入れ替えたという意味でもありません。道徳的・倫理仰的になったという意味でさえありません。そうではなくて、『和解の務をわたしたちに授けて下さった』、『わたしたちに和解の福音をゆだねられた』、つまり、福音宣教に仕え、福音宣教に生きるものになったと言うことです。 ★ 20節。 『神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、 わたしたちはキリストの使者なのである。 そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい』 今、パウロは、自分たちの依って立つ所を明らかにしました。人間的なことに捕らわれて、つまらない分派闘争を繰り返し、果ては、パウロ批判に陥った人々に向かって、『神の和解を受けなさい』と言うのです。これは、勿論、神の和解案を受諾して、パウロたちとの関係を正常化しましょうと言っているのではありません。 あくまで、『神との和解を受けなさい』です。つまり、十字架の出来事を受け入れなさいです。十字架の出来事の意味を受け入れなさいです。 彼らも、初めは、他のことではなくイエス様の十字架と復活という教えに惹かれて、キリスト者になった筈です。しかし、彼らはそこから離れていたのです。そのことが、パウロの言葉で分かります。 同様に、教会が福音宣教のために、それだけのために存在することを否定する人々も、矢張り、イエスさまの十字架と復活という教えから離れているのです。 |