日本基督教団 玉川平安教会

■2021年6月20日 説教映像

■説教題 「天にある永遠の住み家
■聖書   コリントの信徒への手紙二 5章1〜10節 

▼何とも難解な表現です。翻訳の問題ではなくて、内容自体が難解だから、平易な言葉で表現するのが困難なのだと考えます。2000年前のローマ世界でのことです。2000年の時が経ち、人間の生活も、国も、政治も諸宗教の様子も、まるで変わっています。ますます、読み取ることが困難になっています。大胆に削ったり、補ったりして、なるべく分かり易い話にしたいと思います。

 今は写真の加工ソフトというものがあります。多少のピンぼけは自動で修正してくれますし、コントラストを変えたり、必要に応じて背景画面を入れ替えられますから、便利です。しかし、聖書には自動変換ソフトはありません。また、変換して別物になってしまっては困ります。大胆に削り、補い、なるべく分かり易い話にしたいと思いますが、自ずと限度があります。


▼1節。『わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても』

 『幕屋』、テントです。しかし、『幕屋が滅びても』と言いましても、地震や洪水でテントや建物が流されても、という話ではありません。『幕屋』=テントとは、私たち人間の肉体のことです。つまり、肉体が滅びても、死んでしまってもということです。


▼『わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、

  神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています』

 この『建物』も普通の家のことではありません。当然、『地上の住みかである幕屋』つまりは肉体に相当するものです。しかし、新しい肉体でもありません。


▼漫画や小説の世界で、転生ものが流行っています。これは、死の後に、新しい命が与えられる、もっとはっきり言えば、今の肉体が滅んだ後に、生まれ変わって新しい肉体に入ることができるということです。

 以前には、リプレイものが大流行しました。これは人生のやり直しです。ある時点まで戻って、そこからやり直すという話です。

 現在の人生には満足出来ない、挫折感が強いから、このような願望を持ちます。気持ちはよくよく分かります。人生やり直せるものならばというのは、人間の歴史が始まって以来の願望でしょう。

 日本や他の仏教国で、輪廻転生が描かれるのは当然と言えば当然です。しかし、欧米の小説や映画にも、これが登場するのは不思議です。宗教によらず、文化によらず、人間の根源的な願望なのでしょうか。


▼『神によって建物が備えられている』とは、このようなこととは違います。

 『人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです』

 あくまでも建物の比喩で語っていますが、むしろ、肉体のことです。転生やリプレイに魅力を覚えるのは仕方がありませんが、非聖書的です。どんなに魅力的でも、聖書の教えとは違います。輪廻転生やリブレイが信じられる世界では、イエスさまの十字架と復活は無用でしょう。輪廻転生やリブレイに心惹かれるのは仕方がないかも知れませんが、聖書的ではありませんし、それはイエスさまの十字架と復活を否定することです。それを忘れてはなりません。


▼2節。

 『わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、

   この地上の幕屋にあって苦しみもだえています』。

 この表現が何とも難解です。ギリシャ語の単語の意味とか、文法的にどうのとか考えても、少しも分かり易くはならないでしょう。幾つかの翻訳を参照してみます。

 口語訳 『そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の  中で苦しみもだえている』。

 岩波文庫・塚本訳 『どうしてであろうか。わたし達はこのテントにいて、天の住いを上に着    たくてたまらずに呻いているからである。

 前田護カ訳 『われらはこの身で天からの住まいを着るよう、あこがれてうめいているのです』。

 微妙に違いがありますが、肝心な所は一緒です。この共通する部分を読み取ればよろしいかと思います。

 

▼要するに、天にあるものを切実に求めているからこそ、この地上にあっては苦悩が多いと、こういうことです。単純化が過ぎるかも知れませんが、このくらい単純にしないと、とても理解出来ません。このように言い切ってしまえば、一見、2節以上にチンプンカンプンな3・4節も、納得が行きます。

 3〜4節。

 『それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません』

 天にあるものを切実に求めているからこそ、この地上にあっては苦悩が多い、これを肯定的に言うこともできますし、否定的に言うこともできます。苦悩が多いのは当たり前、それこそが天にあるものを求めている証拠なのだから、大いに苦しみなさいと取れば、肯定的です。このように解釈している有力な注解書があります。前田護カ訳もその一つです。

 苦悩するのは、『地上の住みかを脱ぎ捨て』られないからで、これでは天につながることは出来ないだろう、先ず『脱ぎ捨て』なさい、と取れば否定的になります。このような解釈をする人もいます。しかし、正しい解釈でしょうか。一寸無理があるように思います。


▼4節。

 『死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、

  天から与えられる住みかを上に着たいからです』

 何だか難しい、何を言いたいのか分からない表現です。

 家・住まいを比喩に用いていたものが、今度は急に着物の譬えになりました。唐突にも聞こえますが、しかし、両方共に入れ物、中味ではなく入れ物のことですし、飛躍した譬えではないかも知れません。そもそも、4章には土の器の譬えがありますし、パウロはずっと同じ主題を追いかけている、深めていると言って宜しいでしょう。

 他の翻訳を見ます。

 口語訳 『この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱  ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきもの  がいのちにのまれてしまうためである』。

 塚本訳 『それで、わたし達のこのテントにいる者は、重荷に呻いている。これを脱ぎたい  (つまり死にたい)のではなく、(天の住いを)上に着たいからである。これは死ぬべき  ものが命に飲み込まれるためである』。

 口語訳も塚本訳も肝心な所は同じです。正直一番分かり難いのが、新共同訳聖書でしょう。

 ここもなるべく単純に解釈すればよろしいかと思います。そして、解説を加えるならば、3〜4節と同じことです。

 そして3〜4節と同じように、これを肯定的なこととして受けとめるか、否定的に見るかが良く分かりませんが、口語訳も塚本訳も肯定的に解釈しているように聞こえます。

 一番簡単に言えば、この苦悩は、新しい命に生きるためには是非とも必要な苦悩であり、決して避けられないが、決して、無意味ではない、そういう解釈です。


▼5節。

 『わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、

   神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです』

 『このようになる』とは、まるでさなぎから孵るように、新しい体、新しい命に生きるという意味です。神がそのように『してくださった』ということは、この苦悩に大きな意味があるということになります。無駄ではないということになります。

 保障という言葉は、直訳ですと、保証金です。むしろ、手付け金です。

 ことは既に動き始めている。肉体を持っているが故の苦悩も、肉体の滅びも、そして永遠の住まいを与えられてそこに住むことも、一連の出来事であって、一度神の意志で始められたからには、中途で終わるようなことはありません。

 

▼私たちは、人間である限り避けることの出来ない苦悩に直面します。順風満帆、悩みや躓きのない人生などというものはあり得ません。万人に一人そのような人がいたとしたら、この人は、それでも避けられない老いや病に耐えられるでしょうか。順風満帆に見える人ほど、苦難に遭遇したら一発アウトになるのではないでしょうか。

 誰にも苦難はあります。しかし、その時にも、必ず神の御心があると信じる人には、この苦悩は試練であり、何物かを産み出す苦悩です。しかし、信じられない人にとっては、単に無意味な、無駄な苦悩であり、これに出遭ったことを呪うしかありません。


▼個々人についてもそうですし、教会にも当て嵌まります。教会にも苦悩があります。しかし、イエスさまがこの教会を立てておられると信じるならば、それは試練であり、何物かを産み出す試練です。しかし信じないならば、この苦悩は闇となって、教会を破壊するでしょう。

 以前にも申しましたが、ベルゼブルという言葉の定義は、人の心の内に入り込んで一切を空しいと思わせるもの、心の内側から人を腐らせるもの、この定義が一番適切だと考えます。これは、ウイリアム・ゴールディングのノーベル文学賞作品『蠅の王』の中に出て来ます。


▼私たちの心に植え付けられるものは、そこから新しい命を育む神の言葉なのでしょうか、それとも、一切を空しいと思わせ、心の内側から人を腐らせる蠅の卵なのでしょうか。

 教会にも、新しい命を育む神の言葉が存在するのか、それとも、内側から腐らせる蠅の卵が産み付けられているのか、そこが肝心な所です。苦悩があるかないか、その苦悩が深いか浅いか、それが肝心なことではありません。


▼6節。

 『それで、わたしたちはいつも心強いのですが、

  体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています』

 ここも難解です。

 『体を住みかとしているかぎり』つまりは、生きている限りは『主から離れている』ということでしょうか。ここでも、塚本訳が興味深い訳です。

 『だから、わたし達はいつも心強くあり、また、この体に同居しているあいだは

  主から離れて別居していることを知っている』

 生きている限りは『主から離れている』というと言いますと、早く死んだ方が良いように聞こえます。『主から離れて別居している』のも、結局同じことでしょうが、響きが違います。

 パウロも同じことを言っているように思います。

 ヒィリピ1章。

 『21:わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。

   22:けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、

  どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。

  23:この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、

  キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。

 24:だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。』

 厳密にはパウロではありませんが、ヘブライ人への手紙11章13節。

  『この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、

  はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者  であることを公に言い表したのです。14:このように言う人たちは、

  自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです』

 この2箇所の言葉は、今日の二コリント5章と内容的に近似していると思います。

 『目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです』

 ここなどは、ヘブライ人への手紙と見分けがつきません。

 『わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます』

 ここはヒィリピ1章と見分けがつきません。


▼9〜10節が、今日の箇所の結論部分と言えます。

 この結論を押さえてから、1〜8節を読んだ方が分かり易いかも知れません。

 要するに、1〜8節で述べたことをパウロ自身が単純化して言っているのです。

 9節。『だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、

  ひたすら主に喜ばれる者でありたい』

 

▼10節。

 『なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、

   善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに

   応じて、報いを受けねばならないからです』。

 私たち現代人は地上の生活を絶対視し、肉体の健康、長寿を絶対のことのように考えています。そういう点では、パウロの時代の人々より、私たち現代人は大きく後退してしまったのだと思います。パウロの時代の人々の方が、外面よりも内面に目を向けようとしています。それでもパウロは、未だ十分ではない、肉体の思いに捕らわれていると批判します。

 来世的な考え方に嫌悪感を持つ人もあります。確かに、来世を強調する新興宗教は、インチキ宗教ばかりです。しかし、教会が全く現世のことに留まっていたら、罪の贖い、魂の救い、永遠の生命、こういう事柄について、語ることを止めてしまったら、教会の存在理由そのものがありません。罪の贖い、魂の救い、永遠の生命、これが聖書のメッセージなのですから。


▼世の若者は、他の宗教にそれを求めています。ホラー小説、SF小説、…そこには若者の心を惹く、何かしらがあるのではないでしょうか。

 外見ではない、入れ物ではない、少々長いか短いかそういうことではない、本当に永遠に結びつくような人生、そのゴールがどこにあるのか、パウロの時代の人々も現代の若者も、結局『人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです』を求めているのです。