日本基督教団 玉川平安教会

■2021年9月19日 説教映像(音量不調のためお休み)

■説教題 「鷲の翼を張って

■聖書   イザヤ書 40章27〜31節 


★ 歌えないので、歌詞だけ引用します。

 「今 私の願い事がかなうならば 翼がほしい

  この背中に 鳥のように白い翼 つけてください

  この大空に 翼をひろげ飛んで行きたいよ」

 誰もが知っている歌です。今でもいろんな歌手が好んで歌っているようですので、若い人も知っているかと思います。

 説明は不要でしょう。誰もがこのような思いを持つことがあります。単に空を飛びたいという欲求ではなく、何かしら自分を縛っているものから自由になりたいと願う歌です。誰もが、何かしらに縛られて、不自由を覚えているから、この歌は歌い継がれているのだろうと思います。


★ この鳥は、『白い翼』ですから、白鳥でしょうか。特定しなくとも、多分渡り鳥でしょう。電柱の辺りを飛ぶ、雀やツバメ、カラスでは勿論ありません。大空高く舞う、大きな鳥でしょう。

 『白い翼』ですから、残念ながら鷲ではないでしょう。

 しかし、内容的には、今日の箇所の31節にぴったり当て嵌まると思います。

 『主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。

   走っても弱ることなく、歩いても疲れない。』

 

★ この31節の意味を考えるために、所謂第2イザヤ書冒頭部分を読みます。40章2節です。

 『苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。

  罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と』

 罪に対する赦し、苦しむ者への慰め、これが、第2イザヤの預言の基調です。

 赦しと慰め、それは、正に福音です。マルコによる福音書1章1節に、今日のイザヤ書40章が引用されていることは、全く、このことに対応致します。

 『神の子イエス・キリストの福音のはじめ』とタイトルのように記され、その直後に、『荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』とあります。イザヤ書の40章1〜2節は、まさに、マルコが言う福音の始めです。

 このことは、9節で、良い知らせという言葉が繰り返されていることからも、納得いただけるかと思います。


★ 人間の苦しみを認めて下さる神、預言者に慰めの言葉を命じられる神、いたわって下さる神、それがイザヤの神です。イザヤは神の厳しい裁きを語ります。しかし、同時に、罪の赦し、救いと慰めを語るのです。

 むしろ、イザヤの語る厳しい裁きこそが、罪の赦し、救いと慰めです。

 イエスさまは、マルコによる福音書の中でしばしば、『あなたの信仰があなたを救った』という言葉をもって、罪の中にある者を、その罪から解放して下さいます。『あなたの信仰があなたを救った』という言葉をもって、苦しみの中にある者を、その苦しみから、解放して下さいます。

 これは、イザヤと同様に、あなたの苦しみはもう充分だという意味ではないでしょうか。少なくとも、そのような意味を込めておっしゃって下さるのではないでしょうか。


★ 現代は、多くの新しく発明された神で、溢れていますが、その神はあなたの苦しみは未だ足りないと言う神です。更なる償いの行為を要求する神です。もっと金を出せというのは論外としても、もっと働け、もっと勉強しろ、もっと人の役に立て、もっと祈れ、そうしなければ救ってやらないぞ。それが、新しく作られた神さまです。

 その事実と比較する時に、イザヤの神・聖書の神の姿が見えて来るように思います。


★ 3〜4節は、情景を思い浮かべていただければ、理解の助けになろうかと思います。

 『呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/

  わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。

 4:谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。

  険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ』

 ユダヤの民が捕らえられているバビロンから、故郷イスラエルまでの道筋には、砂漠が横たわり、多くの山と谷とが道を塞いでいます。

 その谷は、自らが背伸びをして高くなり、主が歩む妨げになるまいとするという意味合いです。また、山は、自らが身を屈めて背を低くし、主の歩むのに妨げになるまいとするという意味合いです。

 新共同訳聖書は、そのような意味を踏まえて訳しています。勿論、この箇所の全体が、所謂、終末論的、黙示的に表現されたものです。


★ 理屈から言えば、バビロンにいるユダヤの民が、神のおられるイスラエル目指して進むのですが、ここでは、敢えて、神が平らにされた道を進まれるというふうに描いています。ここでも、解放された民と共に歩む神、インマヌエルの神が強調されています。

 5節では、神と同行することで、罪の中にいる、肉の中に住む人間が、本来目にする筈のない神の栄光を、体験することが出来ると、言われています。これは、大変重要なことです。

 罪、苦しみ、を共に居て味わって下さった神が、その苦しみを知っておられるが故に、赦し、慰め、罪と苦しみから、私たちを解放して下さる。神と、共に、解放の喜びを体験する、これがクリスマスの原体験です。


★ バビロンに於ける奴隷的な状態から解放されたユダヤの民、中でも、バビロンでは生活を立てることが出来なかった貧しい人々が、エルサレムへ帰還する旅の主要なメンバーかも知れません。以前にイザヤ55章の説教で、そのことは申し上げております。

 彼らには、十分な旅の備えもありません。特に、間に横たわる砂漠のことを考えますと、食料備蓄が、最も深刻な問題だと思います。その意味では、彼らは今日の難民にも等しい様でありました。

 しかし、決定的に異なるのは、彼らには、目的地があり、かつ、食料に乏しくとも、神の言葉という糧によって養われているのです。この故に彼らは、難民ではなく、旅人です。

 つまり、難民であるか、旅人であるかは、十分な食料備蓄があるかで決まるのではなく、目的地を持っているか、旅の支えとなる心の糧を持っているかどうかで決まるのです。


★ そしてこの民を神の言葉が養い導きます。40章8節。

 『草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ』

 詩篇23篇には、羊飼いと羊との絶対の信頼関係が描かれています。羊飼いは、オアシスの草を食べ尽くす前に、羊を次のオアシスへと追い立てます。ところが次のオアシスに向かうためには、目の前に拡がる砂漠へと踏み出さなければなりません。羊にはその決断が出来ません。ために、羊飼いは、時には、杖と鞭とをもって、羊を追い立てるのです。それが、『汝のしもと汝の杖われを慰む』という異様とも見える表現になるのです。

 5〜8節に述べられていることは、今、滅びを待つばかりのバビロンというオアシスを離れて砂漠に踏み出し、神さまが約束下さった地へと向かわなければならないという勧めです。詩編23編と重なって聞こえます。


★ やっと、今日週報に上げた箇所を読みます。27節。

 『ヤコブよ、なぜ言うのか イスラエルよ、なぜ断言するのか

  わたしの道は主に隠されている、と わたしの裁きは神に忘れられた、と。』

 何だか難しい表現ですが、単純に受け止めて良いのではないかと思います。

 既に申しましたように、50年の時をバビロンで過ごし、体力も気力も衰えてしまった人には、もはや新しい道は開けないかのようです。道は隠されてしまって見えません。

 言い換えれば、『わたしの裁きは神に忘れられた』、必ずしも冤罪を晴らすという意味ではないと考えます。とにかく、ユダヤの人々は『神に忘れられた』としか思えなくなってしまいました。このバビロンの地で、忘れられて存在するのが私たちだと嘆いています。


★ 28節。

 『あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神

   地の果てに及ぶすべてのものの造り主。

  倦むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。』

 預言者は、あなた方の嘆きは間違っていると言います。

 神さまが、年老いて弱ってしまう方ならば、あなた方のことも遠い昔の出来事となり、忘れられてしまうかも知れない。現にアッシリアの神は、バビロンの神に討ち滅ぼされ、金で造られた体は溶かされ、造り替えられてしまいました。そのバビロンの神も、ペルシャに敗れました。しかし、ヤコブ・イスラエルの神は『とこしえにいます神』です。過去をも現在をも、そして未来をも、存在し支配されます。


★ また、本当の神は『地の果てに及ぶすべてのものの造り主』です。アッシリアも、バビロンも、ペルシャも、神さまの支配される場所です。アッシリアにも、バビロンにも、ペルシャにも、神はおられます。1人の神が同時にこれらの場所におられます。

 だから、誰もどこにいても神の裁きを免れ得ないし、またどこででも、神の御言葉に触れ、悔い改め、赦されることが出来ます。あなた方が、遠くバビロンの地に連れ去られ、刑罰を受けたことこそ、バビロンの地にも神さまの目があり、救いに預かる証拠となると、預言者は言います。


★ この神は、『倦むことなく、疲れることなく』、あなた方を見守ってきたのだと、預言者は説きます。アッシリアや、バビロンの神は、人間の背中に負われ、人間を疲れさせ弱らせる神です。そして自分自身が疲れ、弱り、消えて行く神に過ぎません。

 しかし、本当の神さまは、人間を背負われる神です。その弱さを、心の痛みをご存じて、自ら歩けなくなった者を背負って歩かれる神です。

 この論拠としては、Uイザヤ書の全部を上げることが出来ます。

 2箇所だけ読みます。40章11節。

 『主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め

  小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。』

 46章1〜4節。

 『1:ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に負わされ

   お前たちの担いでいたものは重荷となって 疲れた動物に負わされる。

  2:彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。その重荷を救い出すことはできず

   彼ら自身も捕らわれて行く。

  3:わたしに聞け、ヤコブの家よ イスラエルの家の残りの者よ、共に。

   あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。

  4:同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。

   わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。』


★ 40章に戻ります。29節。

 『疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。』

 バビロンでの奴隷的な状態から解放されたユダヤの民、中でも、バビロンの都では生活を立てることが出来なかった貧しい人々が、エルサレムへ帰還する旅の主要なメンバーかも知れません。以前にイザヤ55章の説教で、そのことはお話ししています。

 彼らには、十分な旅の備えもありません。特に、バビロンとエルサレムとの間に横たわる砂漠のことを考えますと、食料備蓄が、最も深刻な問題だと思います。その意味では、彼らは今日の難民にも等しい様でした。

 しかし、難民と決定的に異なるのは、彼らには、目的地があり、かつ、食料に乏しくとも、神の言葉という糧によって養われています。この故に彼らは、難民ではなく、旅人です。

 つまり、難民であるか、旅人であるかは、十分な食料備蓄があるかで決まるのではなく、目的地を持っているか、旅の支えとなる心の糧を持っているかどうかで決まります。

 預言者が与えるのは、食料でも武器でもありません。しかし、神の言葉が、神の言葉だけが、真に『疲れた者に』『勢いを失っている者に』力を与えることが出来ます。玉川平安教会は創立85周年を迎えます。もしかしたら教会の年齢が85歳かも知れません。『疲れ』『勢いを失っている』かも知れません。しかし、私たちには、聖書が与えられています。

 大空に飛び立つ翼が与えられています。


★ 30節。

 『若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが』

 しかし、私たちには、聖書が与えられています。大空に飛び立つ翼が与えられています。旅をし続けるのに是非必要な、確かな目的地と心の糧が与えられています。


★ 31節。

 『主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。

  走っても弱ることなく、歩いても疲れない。』

 老人たちは、険しい道を歩くことは出来ません。40章3〜4節では、既に述べましたように、主の慰めの言葉は、この険しい旅に出ることと重ねられて語られています。

 この31節では、より強調されます。『鷲のように翼を張って上る』ならば、険しい道も砂漠も谷も、妨げるものは何もありません。

 『大聖堂』のケン・フォレットに『鷲の翼に乗って』という小説、むしろノン・フィクションがあります。アメリカ大使館がイスラム過激派・暴徒に占拠されたホメイニ革命の時に、アメリカの一民間企業の社長が、ジェット旅客機を仕立て、あらゆる困難を乗り越えて、社員を救出する話です。『鷲の翼に乗って』は、間違いなく、このイザヤ書から採られた題名です。

 『鷲の翼を張って』は、不可能と思われることを可能にすることです。ケン・フォレットの小説では、社長の断固たる意思が、飛行機の乗組員たちが、不可能を可能にしました。飛行機の燃料は、皮肉なことに、イランで採掘された石油かも知れません。

 イザヤでは、神の言葉が、推進エンジンであり、燃料です。