★先週も同じようなことを申し上げました。今日の箇所も、分かったと言えば分かったような、しかし分からないと言えば分からない、そんな気がするところです。全然チンプンカンプン何が何だか分からないという人もいない代わりに、完全に理解ができましたという人もいないだろうと思います。 このような箇所について、実はかくかくしかじかの意味です、と説明をしても、なるほどそうか合点がいった、とはならないでしょう。 こういう箇所は繰り返し読み、それこそ、少し分かったような気になったり、やっぱり分からないと言って、もう一度読むことを繰り返すしかないと思います。その代わりには、読む度に、何かしら考えさせられるものがある、心に残るものがあります。含蓄のある所だとも言えます。 聖書には、そのような箇所は多いかも知れません。聖書のどこの箇所についても同じことが言えますでしょう。明確に理解するということよりも、立ち止まったり、いろんなことを考えさせられたり、時には抵抗なしには読めなかったり、また、感謝したり、心が躍ったり、そういう繰り返しの方が大事なのではないでしょうか。理解することも必要かも知れませんが、味わうことがもっと大事です。 ★この個所について、注釈するというよりも、私なりに思いを巡らすことがあります。この箇所を読んで連想したと言ってもよろしいでしょう。それは福音書に描かれる所謂『富める青年の話』の箇所と『一番大切な戒め』の箇所です。マルコ福音書10章、12章と特定した方が良いかも知れません。 あまり長くならないように、要点だけを申します。 富める青年は、『永遠の生命を得るためには何をしたら良いでしょうか』と問いました。それに対するイエスさまの答えは、『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え』でした。これはモーセの十戒の後半部分です。 つまり、青年が、いかにも青年の問いらしく、これまで誰も聞いたことがないような新しい知識、神秘的な知恵を期待したのに対して、イエスさまの答えは、ごくごくありふれた、ユダヤ人ならば小さい子供の頃から言い聞かされてきた古い戒めでした。 当然、青年は、『先生、それらの事はみな、小さい時から守っております』と感想を言っています。当てが外れてがっかりしたのでしょう。 『聖書の中で一番大切な戒めは何か』と問うた青年の場合も同じです。イエスさまの答えは、こういうものでした。『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。30:心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』 これも申命記6章に起源を持つ、ユダヤ人にとって常識中の常識、基本中の基本です。これを知らないユダヤ人は一人もいません。 ★イエスさまが示された戒めが、結局、1000年以上も言い伝えられてきた古い戒めだった、古い戒めに過ぎなかったというのは、理解も出来ますし、納得も行きます。そうしたものだろうと思います。 それこそ、真理というものは新しく発明されたりするものではないでしょう。 それでは、イエスさまの戒め、新約聖書の戒めとは、全く古い戒めに過ぎないのか。そこのところで、もう一度考えなくてはなりません。 『富める青年の話』では、イエスさまは、この古い戒めを示した後、更にこのように言われるのです。 『イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」』 慈しんで言われました。つまり青年に対して、愛を持って言われました。戒めを知っているだけではなくて、行いなさいと。何より、『わたしに従ってきなさい』と言われたのです。しかし、青年は立ち去りました。決断がつかなかったのです。 更に、立ち去っていく青年の姿を見て、イエスさまが 『子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。 25:富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい』と、かなり謎めいたことを言われると、弟子たちが『それでは、だれが救われることができるのだろう』とつぶやきを言います。 するとイエスさまは、『人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである』こうおっしゃいます。 端折って申しますが、これは、イエスさまに従うことの出来ない人間のために、イエスさまが十字架に架けられるという意味です。イエスさまを愛してイエスさまに従うことの出来ない人間の罪のために、イエスさまが十字架に架けられるということです。 ★分かり易くするためにお話ししていて、ちょっと長くなりました。かえって分かり辛いかも知れません。結論を急ぎます。 神を愛し人を愛するという一番基本的な戒め、古い戒めは、イエスさまの十字架の出来事によって新しいものになりました。 このことを難しく言えば、終末論的状況ということになりましょうか。要するに、イエスさまの十字架によって、神の国が到来したのです。『神を愛し人を愛するという一番基本的な戒め』は、神の国の戒めとなったのです。全く新しい戒めとなったのです。 同じことが、教会についても当てはまります。 互いに愛し合いなさいという教えは、教会でなくても、同じように言われますでしょう。決して教会だけで通用する特別な戒めではないかも知れません。しかし、教会の戒めは、イエスさまの十字架の出来事に基づくものです。それ故に、全く新しい戒めです。 互いに愛し合いなさいと言った人は、他にもいたでしょう。しかし、そのために十字架に架けられた人は、イエスさまの他にはありません。 ★7節について、このことだけ申しましょう。イエスさまの十字架の出来事を前提にした時に、教会の中に憎しみが入り込む余地は本来存在しません。教会の中にありながら、憎しみによって支配されているというのは、そもそも矛盾なのです。 しかし、ヨハネの時代、そういう現実が存在したのでしょう。憎しみによって生きている人、憎しみを生き甲斐にしている人、そういう人が存在したようです。まあ、イエスさまイスラエルがローマ帝国に占領されていた時代ですし、ローマの国内では、キリスト教に対する組織的な迫害が行われていました。そういう人があって不思議はありません。しかし、そのような人は、イエスさまの十字架の出来事を前提にしていません。 そして、現代の教会にもそのような悲しい現実が存在するようです。この世の革新とか、反権力・革命とかと言うと聞こえは良いのですが、しかし、憎しみを行動契機とするようなことは、イエスさまの十字架の愛に矛盾します。 隣人に仕えるという点では、表面全く同じように見えながらも、愛をその行動の出発点とする場合と憎しみをその行動の出発点とする場合とでは、同じことではありません。 ★7節だけで長くなってしまいました。8節以下を読みます。 『しかし、わたしは新しい掟として書いています。 そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。 闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。』 前半部分は、既に触れたと考えます。 後半、『闇が去って、既にまことの光が輝いている』、これはどのような意味でしょうか。 この手紙が記された時代、ローマ帝国による迫害は終わり、教会は心配なく礼拝を守ることが出来たのでしょうか。迫害が止むのは、200年も先のことです。Tヨハネが記された頃は、弾圧が激しく、殉教に追い込まれた者が多かった時代です。 しかし、Tヨハネは、『闇が去って、既にまことの光が輝いている』と言います。これはイエスさまが誕生したことを指しています。イエスさまが誕生したのは、Tヨハネのおそらくは60年以上前の出来事です。しかし、その出来事は、『闇が去って、既にまことの光が輝いている』と言うべき出来事です。 イエスさまの誕生以前は闇の時代、誕生後は光の時代だと言うのです。 教会を取り囲む環境は何も変わらないようだけれども、依然として闇の中を歩いているようだけれども、しかし、イエスという光が与えられたからには、既に、闇の時代ではなく、光の時代だと言うのです。 ★9節。 『「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。』 8節から、話が飛躍したと聞こえます。まるっきり飛躍しているように見えます。しかし、Tヨハネは、飛躍だとは考えません。2章5節。先週の個所です。 『しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。 これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。』 端折って結論を言いますと、Tヨハネにとって『光の中にいる』ことと、『その人の内には神の愛が実現してい』ることとは、全く同じことです。完全に重なります。 ですから、キリストの十字架の愛を知り、その愛の内に生きている者は、光の中を歩む者であり、兄弟を愛する者です。『闇が去って、既にまことの光が輝いている』とは、教会の中でこそ現実となった愛の中に生きていることです。『兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。』つまり、愛の内にはいないし、ひいてはキリストと共に生きてはいないことになります。 ★10節。 『兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。』 躓き、蹉跌です。聖書の躓きと言う言葉から、スキャンダルという言葉になったことは良く知られています。聖書の躓きは、スキャンダルと同様に、単に挫折ではないように思います。悪意が伴うのがスキャンダルです。 その意味でも、『つまずき』の反対は、単に平坦な道を歩くことではなくて、光の中を歩むことであり、愛に包まれて生活することでしょう。 ★イエス・キリストの十字架の出来事を知った者は、光を知った者であり、光を目当てに生きる存在です。光に向かう存在であり、闇に向かう存在ではありません。 急に卑近な話になります。学生時代に郵便局の夜警のアルバイトをしていたことがあります。真夜中、電話が鳴ります。2階に郵便物を仕分けしたりする大きな部屋があります。ちょっとした体育館ほどの広さがあります。そこに10台以上の電話があり、どれが鳴っているのか分かりません。着信音は全部同じです。守衛室は1階にあります。階段を駆け上がって電話を取るまでに時間がかかります。非常灯も、今日のようにたくさんはありません。慌てて、脚や膝をぶつけるのはしょっちゅうでした。 受話器を取ると、明らかに酔っ払いの声で、「普通郵便の切手代はいくらだ」と聞かれたりします。夜中の2時ですよ。無視しても良いくらいですが、たまに、課長さんが電話して来ることがあります。発信音10回以内に出ないと、翌日小言を言われます。本当に何度痛い目に遭ったことか。 ★ところが、帰り道でぶつけることはありません。階段の非常灯が前方に見えます。そうしますと不思議に、手元足下が暗くとも、ぶつかることはありません。つまり、光が前方ならぶつからない、スキャンダルにはなりません。光が前方にないと、後ろにあっても、スキャンダルになってしまいます。 何だか教訓的に思われました。人間は前方、未来に光がなくてはなりません。後ろではあまり役に立ちません。手元足下が明るくとも、健やかに歩けません。手元足下が暗くとも、遠くに小さい光があれば健やかに歩くことが出来ます。 疑わしいと思う人は試してみて下さい。間違いありません。 ★11節。 『しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、 自分がどこへ行くかを知りません。』 Tヨハネ流では、人を憎むことは、つまり愛を知らないことは即ち、『闇の中におり、闇の中を歩』むことです。当然、前方は全く見えません。後ろも見えないかも知れません。そうしますと、いろんな障害物に躓きます。スキャンダルの多い人生になってしまいます。 『自分がどこへ行くかを知りません。』当然です。『自分がどこへ行くかを知』らないのは、手元足下に光がないためではありません。目的地に光がないからです。目的地が輝いていないからです。 ★11節後半。 『闇がこの人の目を見えなくしたからです。』 憎しみが、この人の目を塞いでしまいました。周囲には闇しかありません。 コロナ禍もやっと下火になり、街にはツリーの光が溢れています。光の洪水です。その光が、まるで誘蛾灯のようになって、人を誘い込みます。そして、この電飾の洪水から出られなくしてしまいます。周囲は闇だから、足下の光から出られません。 もしかしたら、光は、監獄の檻かも知れません。 何度も申しますが、必要なのは、手元足下の光ではありません。それは、時に檻になり、手枷足枷になってしまいます。大事なのは、目的地にある光です。小さくとも、か細くとも、何よりも大切なのです。 |