◆ 普段に比べて、随分と長い箇所を読みました。しかし、主題は一つだけに、うんと絞って、お話ししたいと思います。 ◆ 12節。 『人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、 神の恵みの下に行動してきました』 『人間の知恵』と『神の恵み』が対をなして並べられています。ちょっと違和感を覚える表現です。『人間の知恵』と対極をなすものは、普通なら『神の御心』か『神の計画』ではないでしょうか。 15節には、『計画』という表現が出て来ますから、『人間の知恵』の反対側に置かれるものは、『神の計画』が適切でしょう。しかし、ここでは『神の恵み』と記されています。 『神から受けた純真と誠実』もまた、『人間の知恵』と対比されています。これもちょっと不自然な気がします。 何となく分からないでもないのですが、どうもすっきりと腑に落ちないように思います。 ◆ 実は、『人間の知恵』というギリシャ語を直訳しますと、『肉の知恵』になります。17節に、『人間的な考え』という表現が見えます。これも同じです。『肉の知恵』です。 肉とは何か、汚れているとか欲望のままにとか、いろんなことを連想しますが、『肉の知恵』という表現で強調しているのは、腐るということです。時間が経てば、腐ってなくなってしまうということです。 つまり、『神の恵み』『神から受けた純真と誠実』の反対側にあるものは、『肉の知恵』言い換えれば、滅びゆくもの、時と共に変化してしまうもの、限られた短い時間しか通用しないものなのです。 必要以上に諄く説明したかも知れません。しかし、使徒パウロ自身がかなり諄い言い方をしてまで、これを厳密にしたいようです。 『人間の知恵』は、『神の知恵』に比べたら知恵が足りないでしょう、浅いでしょう。しかし、一番問題なのは、『人間の知恵』は短い時間でしか通用しないということです。『人間の知恵』は、必然的に短期的計画なのです。真に長期的展望とはなり得ないのです。 ◆ 教会のことは万事そうではないでしょうか。教会の働きを『人間の知恵』つまり『肉の知恵』で計ろうとしても無理があります。『人間の知恵』つまり『肉の知恵』は、どんなに頑張っても、50年、それが限界です。実際にはそんなに長期的な展望を持つことは困難でしょう。 一方、教会は既に2000年の歴史を持っています。ユダヤ教の歴史、聖書そのものの歴史を考慮するなら、既に3000年以上です。 まあ、そんな大げさな話をしなくても、玉川平安教会の歴史が既に、一世代を超え二世代を超えています。今年は教会創立85周年を迎えます。 それでも日本基督教団の諸教会の中で、歴史が浅い方に数えられます。既に100年を超える教会が珍しくありません。150年の教会もあります。 150年でも、日本の教会は未だ未だ新しい教会、歴史の浅い教会に過ぎません。 ◆ 19年度の定期総会に提案した教会の幻、伝道計画案に下記のように記しました。 ▼17年9月の赴任以来、所謂土方仕事に時間を取られています。合わせても2〜3坪ほどに過ぎませんが、畑を開墾し、庭木の手入れ、踏み石やらの整備、随分時間が要りました。合間を見て、ニス、ペンキを塗ったり、大工仕事もしなくてはなりません。 それより事務仕事の方が多いでしょうか。半年かけてやっと、現住陪餐会員の名簿をパソコン入力し、住所録発行の目処を立てました。それでも、19年度一杯くらいは、まだまだ未整理、未整備の書類・記録の整備に追われることでしょう。 ▼過去の任地でも同様でした。目先のことで、いっぱいいっぱい、なかなか中長期的な伝道計画を立てる所までは行きません。そうしている内に時間が経ち、時を外してしまうようなことも起こりました。 今、玉川平安教会でも、多くの課題があります。これに向かい合い、20〜30年後の教会の幻を持ち、その実現のために、1年1年を位置づけ、課題を果たして行かなくてはならないのでしょう。しかし、現実は、時間的にも切迫した仕事をこなすことで毎日が過ぎて行きます。 ◆ 20年度の定期総会では、より具体的に集会・伝道事業の計画を挙げました。また、その下準備も出来ていました。 しかし、コロナ禍により、殆どの集会・伝道事業の計画は延期、見送りにせざるを得ませんでした。そもそも、教会総会が流会になってしまいました。 人間の計画、人間の知恵は実に儚いものです。それを思い知らされました。 ◆ 今現在、課題難題が多く、かつ、有効な対処方法を見出すことが出来ません。建物施設の老朽化に伴う、手当・工事には終わりが見えません。何十年後かの会堂新築を待たなければ、改修工事に終わりはないのかも知れません。 教会員の減少、特に若い人が少なく、教会の働きの担い手が、不足しています。 その他、心配ごとを並べたらキリがありません。実際心配性の私は、教会の将来を思うと、夜中に目が覚めて眠れなくなります。教会の未来を展望すると、悲観的な材料ばかりが思いついて、好材料はあまりないように思われるのです。 ◆ しかし、見る角度、発想を変えてみれば、玉川平安教会で働いた信徒の方々の思いを超えて、玉川平安教会は恵まれて来ました。 大きな危機を乗り越えて、礼拝を守り続けて来ました。人数的には、教勢拡大とはまいりませんが、教会を愛する思い、奉仕する気持ちは、以前よりむしろ養われ、育って来ているのではないでしょうか。 財政的には困難でも、教育館やトイレの工事を済ませ、礼拝・伝道の器が、少しずつ整っています。コロナで休会中とはいえ、愛餐会、コーヒータイム等の交わりも与えられました。 ベルの会のコーラスも帰って来ました。19〜20年度に計画したことが、時間がかかっても、何れは実現するだろうと思います。 人間的な思いで見ますと、悲観的なことしか見えません。しかし、その時々に教会は守られ、ただの一回も休むことなく、礼拝を守り続けて来たのです。これこそが神の恵みなのです。 ◆ 大分飛びまして、15節をご覧下さい。 『このような確信に支えられて、わたしは、あなたがたがもう一度恵みを受けるようにと、 まずあなたがたのところへ行く計画を立てました』 分かりにくい表現です。大胆に端折って申しますと、これは、伝道計画の変更です。伝道の再出発です。 パウロは何らかの事情で、コリント教会員の一部の人と激しく対立しました。その結果は、伝道旅行の計画を変更しなければなりませんでした。そうしましたら、今度は、そのことを批判されてしまいました。 17〜18節に述べられている、何だかややこしい記述は、そのようなコリント人からのパウロ批判と、パウロの弁明を指しています。このややこしい出来事については、次週の箇所で触れる方が適切と思いますので今日は省略致します。とにかく、パウロは伝道計画を変更しなくてはなりませんでした。伝道計画を変更したことが、また新しい批判、伝道事業の停滞を産むというジレンマに陥ってしまったのです。 ◆ 使徒パウロでさえ、その思いの通りには事が運びません。挫折し、計画を変更し、それでもなかなか上首尾を得ません。 そのような背景の下で、パウロは、1章9節、 『わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、 死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました』 このように考えるに至りました。 1章9節は、アジヤでと言っているくらいですから、直接にはコリントのことではないかも知れませんが、コリントで体験したことこそが、『自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました』という事柄でした。 伝道計画の変更、伝道旅行の日程変更は、それほどの事柄だったのです。 そして今、『この確信をもって、わたしたちはもう一度恵みを得させたいので』とパウロは言います。大きな挫折体験を味わったコリント教会で、パウロを苦しめたコリント教会員と、もう一度、新たに伝道計画を立てようとしているのです。 ◆ パウロでさえそうなのですから、私たちは何を恥じる必要がありますでしょうか。上手く運ばなかったことは、もう一度試みるしかありません。何を怖じ気づくことがありますでしょうか。 『この確信をもって』、コリントで挫折を繰り返し体験したパウロは、何を根拠に確信を持つことが出来るのでしょうか。パウロをこのような困難な道に向かわせる確信とは何であったのでしょうか。 13〜14節、直接には、14節の後半です。 『わたしたちにとってもあなたがたが誇りであるように、あなたがたにとっても わたしたちが誇りであることを、十分に理解してもらいたい。』 ここにパウロの確信があります。『わたしたちの主イエスの来られる日に』つまり、主イエス・キリストの再臨の日にです。 『あなたがたが誇りであるように、あなたがたにとってもわたしたちが誇りである』。教会の伝道が信徒を生み出し、信徒が教会を立てて行きます。一方が他を否定したならば、両者共に成りたちません。教会は信徒に、信徒は教会に仕える姿勢を持つことが何より肝要です。 ◆ パウロを裏切り傷つけたコリント教会を、しかしパウロは、コリント教会は神さまの教会だからと、それだけを根拠に信頼し、祈り続け、そして働き続けます。 これは単純に寛容というようなことではありません。神の裁きに信頼するということです。パウロは、相手の人間を信用・信頼するのではなく、或いは寛容に赦すのではなく、裁きの主に信頼しています。私たち、欠けの多い人間を用いて下さる神の業に信頼しています。 あの人は、神さまの用いる材料としては不足だ、欠陥品だ、あんな者を用いては神さまの業が汚れる、神さまの業は失敗するに違いない、そんなことは言ってはなりません。 ◆ 21〜22節では、パウロの方が弁明しています。パウロがコリント教会員を批判しているのではなく、コリント教会員がパウロを批判しているのです。一部の教会員でしょうが、パウロには使徒の資格がない、その器量がないと言い出しました。 『わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、 わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。 22:神はまた、わたしたちに証印を押して、 保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。』 これが、パウロの弁明です。誤解され批判されているけれども、自分はこのように考え行動したのだと言うような言い訳ではありません。誰かに対する責任追及でもありません。 「神がパウロとその同労者を選び出し、その同労者たちによって、コリント教会員に洗礼が授けられたのだ。御霊を賜わったのだ。」これが、パウロの弁明です。 ◆ 24節は、前後と切り離しても重要なことが述べられていますが、やはり、この文脈の中で読み取るべきでしょう。23〜24節。 『神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、 あなたがたへの思いやりからです。 24:わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、 あなたがたの喜びのために協力する者です。 あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです。』 『信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する』 こう言い切っています。勿論、『喜びのため』とは、牧師が礼拝後にコーヒーを入れたりギターを弾いたりするという意味ではありません。むしろ、神さまの御言葉を学び、神さまのご用をする真の喜びに向かわせる働きをしなくてはなりません。それにしても、教会員の『喜びのため』であって、教会員を『支配する』ためではありません。 ◆ 2章1〜4節については、矢張り、パウロとコリント教会との関係全体を踏まえなければ良く意味が分かりません。Uコリントを通じておいおい読んで行けばよろしいかと思います。 また、次週もこの箇所を踏まえて読みますので、今日は、4節だけ、ご覧下さい。 『わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。 あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対して あふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。』 『涙の書簡』と呼ばれることになる手紙が、既に投函されていました。Uコリントの10章以下が、この手紙ではないかと推測されています。確かに、激しい調子でコリント教会員の信仰の姿勢を糺しています。非道い中傷を受けていたことが想像出来るような弁明をしています。『涙の書簡』と呼ばれるのにふさわしい内容です。 しかし、その涙の書簡は、『悲しませるためではなく』『あふれるほど抱いている愛を知ってもらうため』に記されたものだと、パウロは言っています。 ◆ これが大前提です。『人間の知恵』は、所詮、『肉の知恵』です。今現在時点では妙案に見えても、明日にはどうか分かりません。それでは、人間は何も考えない方が良いのか、心に幻を持たない方が良いのか、勿論そうではありません。『神の恵み』『神の御旨』『神の計画』を知り、これに応えることが、『人間の知恵』です。 『人間の知恵』は絶対ではないからこそ、絶えず考え、絶えず探り、そして絶えず更新しなければなりません。その中で、『人間の知恵』と『人間の知恵』がぶつかり合うという不幸もあるかも知れません。その時こそ、『自分の知恵』を絶対視しないで『神の恵み』『神の御旨』『神の計画』が問われなければなりません。 『悲しませるためではなく』『あふれるほど抱いている愛を知ってもらうため』に、提案され、実行されなければなりません。 『主よ、もう一度、私たちに恵みを下さい。あなたのご用に用いて下さい。』 |