★ 最初にお断りしておきます。 今日の聖書個所は、教会設立式や牧師就任式等で、好んで読まれる個所です。私も何度か経験しました。一番最近では、と言っても10年前ですが、中村町教会の会堂・幼稚園の献堂式に招かれまして、この個所で説教しました。その際の説教も、過去に聞いた他の牧師の説教も、大差はありません。似たり寄ったりとさえ言えましょう。 このような個所、信仰の中心的メッセージが語られている個所での説教が、牧師によって、てんでバラバラだったら、逆に、おかしいでしょう。 今日は全く躊躇わずに、過去に私自身が聞いた説教、自分でも語ったことがある説教と、寸分ではないにしろ、〜あまり違わないようなことをお話ししたいと思います。 と言いましても、牧師の個性はどうしても出てきてしまいます。隠したいと思っても出てくるものです。 ★ 13節。 『イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、 「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。』 『人々は、人の子のことを何と言っているか』ではなくて、『何者だと言っているか』と問われています。 人々の評判を気にしているのではありません。既に解答が用意されていて、弟子たちに正解を促しています。試験、口頭試問に似ています。 14節。 『弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。 ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます』 弟子たちは、試験に答える時のように、間違えないように答えています。漏れがないように答える、一般論を網羅するというのは、試験の解答としては正しいかも知れませんが、イエスさまの求めていたのは、そのような答えではありませんでした。 『イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか』 他の人がどのように見るかではなく、『あなたがたは』どう思うかと問われました。一般論ではなく、弟子たちの主体的な決断を伴った答えを求められたのです。 最早、これは正解を要求する問答ではありません。弟子たちの決断が促されています。信仰告白が求められています。 ★『シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた』 弟子たちを代表してペトロが答えました。これは単なる解答ではありません。イエスさまに対する信仰の告白です。 『あなたはメシア、生ける神の子です』 「イエスはキリストである」最も簡潔な信仰告白です。 簡潔、短いということは、粗末だということではありません。長い信仰告白は、それだけ厳密詳細ならば、それも大切かも知れません。しかし、ややもすると、いろいろな状況を考慮して、条件を挙げ、その前提の元で、信仰告白するということになりかねません。 簡潔、短いということは、条件などは一切存在しないし、状況も関係ない、どんな時、どんな場合でも、私はキリストを信じるということです。簡潔、短い信仰告白は、力強いのです。 お祈りも同様です。長いお祈りよりも、簡潔な祈りに力があります。 ★ 私たちにも、弟子たちの場合と同様に、『「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」』というイエスさまの問いが突きつけられています。 そして、現代にもいろんな立場、いろんな思想から、いろんな答えを言う人がいます。「イエスは人類の教師である」「イエスは革命家である」「イエスは体制と闘った殉教者である」その中には、「イエスは敗北した預言者である」と言う者さえあります。 しかし、イエスさまが私たちに求めている答えは一つです。「ああ言う者もあります。こう言う者もあります」では、答えになりません。正しい答えとは、ペトロの答えです。 『あなたこそキリストです』。この簡潔な答えが、正しい答えです。 ★ 『あなたこそキリストです』この信仰告白に立つ者がキリスト者であり、この信仰告白の上に、教会が立ちます。 17〜19節。 『すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。 あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。 18:そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。 そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。 黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。 19:わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、 天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう』 この部分はマルコ福音書にはありません。 マタイによる福音書16章17節以下は、「この信仰告白の上に、教会が立つ」ということを分かり易く解説したものだと考えます。ペトロという人物、ペトロの人格の上に教会が建てられるということではありません。ペトロが代表する教会のことです。信仰告白のことです。 信仰告白の上に教会は立てられます。 ★ 最初に申しました。ここまでは、殆どの牧師が似たり寄ったりのことを話すと思います。当然です。これと全く違う解釈は、少なくともプロテスタントの教会には似つかわしくないと考えます。ローマカトリック教会は、ペトロという偉大な人物、ペトロ即ち岩という名前の一個人の上に教会が建てられたと解釈し、ペトロを初代の教皇とするのですが、この個所くらいしか根拠はありません。また、この個所の解釈も、プロテスタントの教会とは違います。 ★ 20節以下では、私の解釈も交えてお話しします。 何だか、理解困難なことが言われます。 『20:それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、 と弟子たちに命じられた』。 信仰告白を導き出したイエスさまが、何故か、そのことを誰にも話さないように、と弟子たちに命じられました。不思議なことです。奇妙なことです。 ★ そして、21節。 『このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、 律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、 と弟子たちに打ち明け始められた。』 これこそが、イエスをキリストと告白する者の群れ、即ち教会に与えられた秘儀です。余計な知識かも知れませんが、秘儀とはカトリックのミサであり、サクラメントです。その元の言葉はミステリー小説のミステリーと同じです。隠されている大事なものが秘儀です。 十字架とは、当時の世界では敗北と汚辱との印、勿論死の印です。弟子たちがメシア・キリスト、救い主として頼む方が、十字架の上に死すこと自体が、全くの蹉きですが、それが、そのことだけが、苦しみ悩む人々を救うことにつながると、イエスさまは預言します。 ★ この蹟きに充ちた言葉は、イエスを単なる教師、或は預言者だと考える者には、受け止めきれない言葉です。何故なら、それは、人間の知識・理解を超えた言葉だからです。唯、イエスをキリストと告白する者だけが、これを受け止めることが出来ます。何故なら、彼らはもはや単にイエスの思想に共感し同調しているのではないからです。彼の人格を・存在そのものを信じているから、信仰の対象にしているからです。 まあ、簡単に言えば、もう理屈ではない。イエスそのものを信じているからです。 ★ 私たちは福音書を読んで、しばしば同様の表現に出会います。イエスさまは、その奇跡的な業を、或いは神秘的な教えを、誰にでも明らかにされようとはなさいません。大事な事柄になると、弟子たちだけにそれを示されます。時には、弟子たちの中でも限られた者だけに、秘密を授けられます。 それはイエスさまが教えを出し惜しみしているというようなことではありません。福音書記者を初めとする弟子たちが、自分たちだけに特権が与えられていると威張っているというような話でもありません。 そうではなくて、イエスさまの十字架と復活は、信仰をもってイエスさまに向かい合う者だけしか理解することが出来ない、受け止めることが出来ない神秘なのです。 信仰告白を持たない者には通じない神の言葉なのです。 ★ 逆に言いますと、イエスさまの十字架と復活の神秘を、誰にでも理解出来る事柄に置き換えてはならないと私は考えます。 「復活とは、文字通りに受け止めてはならない、人が抑圧を逃れて自分を取り戻すことだ」とか、「生き生きとした人生を取り戻すことだ」とかと言う人がありますが、それは間違いです。 イエスさまの十字架と復活の神秘を、誰にでも理解出来る言葉に置き換えてはなりません。 信仰をもって受け止めるべき、神秘的事柄なのです。 ★ 勿論、聖餐式がそうです。今まで申し上げたことは、全く聖餐式に当てはまります。 聖餐式という儀式、神の国の秘密に結び付いた儀式を、分かり易い人間の言葉で説明することは出来ないし、してはなりません。それが可能ならば、聖餐式を持つ必要がありません。 もっと開かれた、誰もがそれに与ることのできるような楽しい会に作り替えてはならないし、そんなことは出来ません。それが可能なようなら、 … これは、大いなる逆説です、聖餐式を持つ必要がありません。 ★ ペトロと他の弟子たちはイエスを信じていても、それでも、未だ、彼の預言を真っ正面から受け止めることは出来ません。22〜23節がその箇所です。 『すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 23:イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。 あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。』 ★『神のことを思わず、人間のことを思っている。』 イエスさまの身の上を案じたペトロに対して、『サタン、引き下がれ』とは、随分きつい表現です。何故イエスさまはこのようにおっしゃったのでしょうか。 ヨブ記を読めば分かりますが、サタンとはそもそもが、人の罪を数え上げ、裁く者との意味です。ですから、ここでも、神であるイエスに裁かれるのではなく、イエスさまの言動を裁く側に回ったペトロが、サタンよと言われるは、当然です。 イエスさまの身の上を案じていると言えばその通りですが、ペトロは自分の物差しでイエスさまを裁き、その行動を判断しています。つまり、裁いています。 私たちは、神を裁く者になってはなりません。むしろ、神によって、裁かれる者であることを自覚していなくてはなりません。それが、信仰の出発点です。 まして、「復活は常識人には理解出来ないのが当たり前で、復活信仰に固守する限りは、教会はひとりよがり・独善を免れ得ない」などと言うのは、人間が聖書を裁くことであり、『サタン、引き下がれ』と言われるべきことです。 ★ 24節以下は、そのことを言っているのだと思います。 『それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、 自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 25:自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、 わたしのために命を失う者は、それを得る』 自分の十字架を背負うとは、正に人生の課題を背負うことだとか、いろんな意味に解釈されるでしょうし、一人ひとりが、自分の十字架とは何かと問うことは、意味があるでしょう。しかし、第一義的には、己の力を第一とし、ついには、神をも裁く者となった、この世界に対して、むしろ、裁かれる側、つまり、十字架の側に着く、このことが、言われていると考えます。 そもそも、14節の『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。…これこそが、イエスさまを裁いています。 一人一人が、その十字架を背負って、裁く者ではなく、裁かれる者となり、ゴルゴダへの丘を黙々として上って行く、イエスさまは、そのことを言っています。そして、この十字架を背負って歩く者の群れが、即ち教会です。 ★ 25〜26節。 『自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、 わたしのために命を失う者は、それを得る。 26:人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、 何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか』 教会はこの逆説の上に立っています。もし、復活信仰を初め、イエスさまの教えを、現代の科学的合理的思惟に矛盾しないように造り替えたならば、もうそこには教会存在しません。 教会は生命を失います。 私たちは何を与えられ、何を信じ、何を守って来たのか、何を伝えなくてはならないのか、教会創立85周年に当り、思いを確認し、声を揃えて『あなたこそキリストです』と、告白したいと思います。 |