◆『いつものようにオリブ山に行かれると』とあります。 イエスさまはハイキングがお好きだったという意味ではありません。 『いつものようにオリブ山に行かれると』とは、いつものようにお祈りに行かれたということです。 ルカによる福音書には、イエスさまのお祈りのことが数多く記されています。それは弟子たちを選ぶ時とか、とても大事な局面です。このような時に、イエスさまはお祈りし、父なる神さまの御心を尋ねておられました。 しかし、何か特別な時にだけ祈ったということではありません。今日の箇所にありますように、『いつものように』祈っておられました。 そして、そのお祈りは他人の前でするような儀式的なお祈りではなく、静かな所で一人祈るものだったようです。 ◆ 41節を先に見ますと、『石を投げて届くほどの所に離れ』とあります。30メートルくらいでしょうか。50メートルでしょうか。もっとでしょうか。とにかく、弟子たちには、お祈りの声が聞こえないくらいに離れたのです。 このことからも分かります。イエスさまの『いつもの』祈り、普段の祈りは、儀式の言葉ではなかったのです。 ではどんな祈りか、それは、44節に述べられています。後で読みます。 ◆ この頃では、案外に忘れられていることかも知れません。軽んじられていることかも知れません。イエスさまは祈りの人だったのです。 主の御足の跡に続くという表現がなされますが、どんなことをしておられるイエスさまに従うというのでしょうか。祈っているイエスさまに従うことが、もっとも大事なことではないでしょうか。 ◆ 同じ39節。『弟子たちも従った』とあります。 『いつものようにオリブ山に行かれる』のに従ったのですが、その意味は、既に申しましたように、お祈りに従ったのです。 私たちはまず、このことを確認しておきましょう。キリスト者とは、祈る者の群れです。だからこそ、教会には祈祷会があります。祈ること、即ち、イエスさまに従って歩いて行くことなのです。どこの宗派か、お坊さんは行列を作って、念仏を唱えながら歩くことがあります。私たちはそのような真似はしませんが、同じことかも知れません。私たちも祈りながら、みんなで祈りながら、人生の道を行進します。ただ、他人に見せるための義式とはしないだけです。 ◆ 40節。 『いつもの場所に来ると』 ここでも『いつもの』です。いつも、いつもの場所、決まっています。 いつもということを、私たちは、どうも軽んじてしまいます。 いつも、つまり、習慣的に、もっと言うと、惰性的に、となります。習慣的、惰性的なことは、値打ちが低いというように私たちは考えがちです。確かにそういう面もあるでしょう。 しかし、世の中のこと全て、本当に大切なことは、毎日毎日繰り返されることです。ご飯をいただく、眠る、より習慣的には、普通これを習慣的などとは言いませんが、呼吸すること、当たり前のことはとても大事なことです。全く意識しないで行うことこそ、最も大事なことです。 ◆ 祈ることが、習慣的、惰性的なことになってしまってはならないような気がします。確かにそうです。念仏のようになってはいけないかも知れません。 しかし、それは習慣的、惰性的なことになってしまってから、それ程、祈りを重ねてから、初めて言うべきことではないでしょうか。習慣にもなっていないのに、惰性だと言うのは、ただ、怠けているのに過ぎません。 ◆ それでは何を祈ったら良いのでしょうか。イエスさまが、はっきりと教えておられます。 40節。 『誘惑に陥らないように祈りなさい』。 『誘惑』とは何でしょうか。 ここで国語の辞書を引いても、何の意味もありません。聖書辞典なら、意味が分かるかも知れません。そこには、『誘惑とは、異教的なものに惹かれて行くこと』と述べられています。 つまり、神さまではない別の人の言葉を聞いて、それに従って行くことです。 ◆ ここでは、まず、イエスさまから『誘惑に陥らないように祈りなさい』と命令の言葉が与えられました。しかし、彼らは祈ることが出来ませんでした。それが、正に、『誘惑に陥る』ということです。神さまに祈りなさい、いつも祈りなさいと言われているのに、祈らない、これこそが誘惑に陥ることです。 では、弟子たちは何故祈らなかったのでしょうか。『眠っていた』、45節にそう記されています。私たちは、睡魔に弱い存在です。マルコ福音書とマタイ福音書には、今日の同じ出来事を記した文章が残されています。そこには、弟子たちが3度にわたって眠りこけたことが記されています。そして、イエスさまの『眠らないで祈っていなさい』という言葉も3度与えられています。『心は燃えていても、肉体が弱いのである』という説明も記されています。 ◆ しかし、ルカ福音書には、それがありません。マルコ福音書とマタイ福音書が言っていることは、事実ですし、私たちも、そのことは良く分かります。眠いというのは、私たちの欲望の中でも、最も強烈なものの一つです。 しかし、ルカ福音書にはそれがありません。ルカは、もっと別のことに関心を持ち、そこから、同じ出来事を、説明しているのです。 ◆ それでは、ルカにはなんと書いてあるでしょうか。 『悲しみの果てに眠り込んでいた』、そう書いてあります。 『悲しみの果てに眠り込んでいた』これも私たちが実際に体験することです。辛い思いをした時、悔しい思いをした時、長い眠れない時間を過ごした後で、私たちは耐えられなくなって、眠ります。 それに対して、46節、イエスさまはおっしゃいます。 『誘惑に陥らないように起きて祈っていなさい』、最初の言葉と同じですが、『起きて』という表現が付け加えられています。 では、イエスさまは徹夜で祈ることを求めておられるのでしょうか。そうではありません。 ◆ 42節に戻って読みます。 『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。 しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください』 イエスさまにとっても、耐えられない程に辛いことが待っています。しかし、『わたしの願いではなく、御心のままに行ってください』 イエスさまは、父の御心に従います。父の御心を大事にします。 『悲しみの果てに眠り込んでいた』とは、これと全く逆のことです。 自分の悲しみに、自分の体の痛みに、自分の心の痛みに、熱心なのです。そこに沈殿してしまいます。その結果、救いがなく、心も体も疲れ果てて、眠ってしまいます。 泥のように眠るという表現があります。良く用いられますが、具体的にはどういうことを意味するのでしょうか。もしかすると、自分の感情の中で煮詰まって、仕舞いに沈殿してしまうことなのではないでしょうか。 これこそが『誘惑に陥』いるということでしょう。 ◆ 眠っていて祈ることが出来なかった弟子たちは、では、何にも出来なかったのか。祈るのには、体力も要らなければ、お金も要らない、時間だってたいして要らないと思います。そんな簡単なことさえ出来ないなら、何も出来ないのではないでしょうか。祈ることさえ出来ないようなら、何も出来ないのではないでしょうか。 ◆ 47節から後を見ると、剣を抜いて大祭司の手下と戦い耳を切り落としています。 それ程の、勇気も力もありました。 そして、むしろ、それが問題だったのです。 何よりも、自分の力を頼みとすることこそが、一番の誘惑なのです。 ◆ 祈ることよりも、もっと大事なことがある、祈っていても、何も解決しないという人がいます。 その言葉が、何よりの証拠です。祈る、つまり、神さまに問い、神さまに委ねるのではなくて、自分の力を頼みとしているのです。 誘惑とは、神さまよりも力ある方が存在すると思うことです。 祈りは聞かれないと思うこと、祈っても仕方がないと思うこと、それが最大の誘惑なのです。悪魔が誘う声なのです。 ◆ ルカ福音書の流れを確かめてみれば、納得いただけるものと思います。 22章の24節以下、小見出しに依れば、「一番偉い者」、弟子たちは弟子たちの中で誰が一番偉いかで争っていました。 自分の力、自分の手柄、そして自分への評価、こういうことが、一番です。徹底的に自分に拘っています。 ◆ 31節からは、「ペトロの離反を予告する」です。 ペトロは、『主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております』 このように、立派なことを言います。自分の覚悟を述べています。 しかし、『ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう』。 イエスさまは、ペトロのことをよくよくご存じです。ペトロ自身よりも、ご存じです。 ◆ 35節以下は、「財布と袋と剣」。 『それから、イエスは使徒たちに言われた。 「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。』 自分の力を頼みとしてはなりません。神さまが備えて下さるもので足ります。 ◆ このように見てまいりますと、全く同じ主題が追いかけられていることが、お分かりいただけると思います。 全ては、主に委ねるということ、主に信頼するということです。 それが、祈りです。 祈りは、願望だったり、誓約だったりする場合があります。 多くの人は、祈る時に、神さまに現状報告をします。「今日は朝からお天気で〜」 神さまはそんなことは聞かなくとも分かっている筈なのに、神さまに現状報告をします。同じ現状報告なら、自分の心の中を報告した方がよろしいでしょう。神さまに覗き見て貰った方がよろしいでしょう。正しく診察して貰って、正しい処方箋を頂いたらよろしいでしょう。 しかし、それも神さまはご存じです。 祈りは、主に委ねるということ、主に信頼するということです。 ◆ 44節。 『イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。』 これは、十字架を前にした祈りです。 十字架を前にした祈りを、いつものように、いつものところで、祈られました。 これは、非常の祈り、十字架を前にした祈りです。それを、いつものように、いつものところで、祈られました。 私たちだって同様です。 私たちは、いつものところで、いつものように、祈ります。マンネリと聞こえるかも知れません。習慣的、惰性的かも知れません。しかし、祈りとは、常に、十字架を前にした祈りです。 普段から何時も、十字架の前で、つまり教会で祈っているならば、非常の祈りも、十字架の前で、つまり教会で祈ることが出来るでしょう。そして聞き上げて貰えるでしょう。 ◆ 42節も、もう一度御覧下さい。 『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。 しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください』。 非常の祈り、十字架を前にした祈りこそ、主に委ねること、主に信頼することです。 この非常時にこそ、私たちは、いつものところで、いつものように、『苦しみもだえ、いよいよ切に』祈りたいと思います。 それこそが、コロナ禍の中で、礼拝を、祈祷会を守り続けている理由です。 |