日本基督教団 玉川平安教会

■2021年1月24日 説教映像

■説教題 「見てくれよりも中身で勝負」
■聖書  ルカによる福音書 21章1〜6節 



◆ 1節から4節までと、5節から6〜9節まで、ここには、二つの話が語られています。ちょっと読んだだけでは、二つの話は全然関係ないように見えるかも知れませんが、実は、この二つの話には、共通点があります。先ず、その辺りを読んでみます。

 先ず比較的分かり易いと思われる1節以下から読みます。

 『イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた』

 イエスさまは時々妙なことをなさいます。他の人間とは全然違う角度から人間を観察なさっておられるのかなと、思うことがあります。

 ヨハネ福音書の5章で、姦淫の女が人々の前に引き出されて来た時、イエスさまだけは女の方を見ないで、地面に何か書いておられました。ガリラヤ湖で船が難破しそうになった時、イエスさまだけは艫で枕しておられました。他にもザアカイのこととか、普通の人間とは違う角度からご覧になる話が、一杯あります。

 この箇所では、よほどの物好きか暇人のように、大勢の人間が賽銭箱に献金する様子を観察しておられました。


◆ この賽銭箱は、ヘロデの神殿で、婦人の庭の廊下に備え付けられていました。雄羊の角で作られており、ラッパの形をしていたそうです。全部で13の賽銭箱があり、内7個には、献金の用途が記されていました。貧民救済にも用いられたと言います。

 ヨハネ8章20節『神殿の庭で』とあるのは、直訳では『賽銭箱で』で、婦人の庭そのものが『賽銭箱、ガゾピュラキィオン』と呼ばれていました。

 ちょっと詳しく申しましたのは、この点にご留意頂きたいからです。つまり、『金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを』この表現から、私たちは直ちに金持ちの見栄のようなことに結びつけて考えてしまいますが、賽銭であり、自由意志に基づき捧げる性質のものです。勿論無記名ですから、他人の目がどうのという次元の話ではありません。もし、見栄や義務感があったとしても、それは人々の目に対するものではなくて、神さまの目に対する見栄です。この行為自体は、所謂偽善で片付けられるようなものではありません。


◆ 2節。

 『そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て』

 皆さん良くご存知の所で、解説は無用かとも思いますが、一応最低のことだけ申します。レプトンは、ギリシャの最小単位の青銅貨幣で、アサリオンの八分の一、コドラントの二分の一に相当します。日本の賽銭の感覚からすれば、10円玉2枚でしょうか。1円玉2枚でしょうか。いずれにしろ、最小金額です。


◆ 3〜4節。

 『「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。

  4:あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、

  この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」』

 勿論これは、金額は少ないけれども、パーセンテージが高いということが、話の本筋ではありません。むしろ、人の行いの裏側が見えなくては本当のことは分からないという話でしょう。表面的なことで裁いてはならないと言うことでしょう。


◆ ここでちょっと触れておきたいことがあります。

 マルコ福音書の並行記事にはこのようにあります。

 『イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。』

 『呼び寄せて』とあります。マルコでは、イエスさまはわざわざ弟子たちを呼び寄せて言われました。『呼び寄せて』、マルコでは他に、3章13節、3章23節、8章1節、8章34節、10章32節、10章42節で用いられています。弟子の召命、譬えの意味、十字架の予告と、何れも、教会の本質に関わるような重大な局面で弟子たちは『呼び寄せ』られているのです。

 つまり、この場面はほんのちょっとしたエピソード、物語の彩りではありません。この小さい事柄に見える出来事の背景には、教会の本質に関わるような重大な意味が隠されているのです。

 しかしマルコ福音書を読んでいるのではありませんから、これ以上は申しません。

 

◆ この箇所だけで結論めいたことを言う必要はありません。続けて、21章5〜6節を読みます。

 『ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、

  イエスは言われた。

  6:「あなたがたはこれらの物に見とれているが、

  一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」』

 パレスチナは石材が豊富で、様々な用途に用いられます。巨岩は祭壇にも用いられました。ヤコブの石の柱、十戒の石板、石打の刑、石をパンに変えるなど、石にまつわる話が、聖書の随所に見え、力と安定の象徴として描かれることが多いと言えます。


◆ ヘロデ大王は、神殿の南東の斜面、及び、テュロペオンの谷と神殿の丘との間を埋め、東西に高い壁を築いて、ソロモン時代の2倍に拡張しました。南北500b、東西300b、面積14fになります。「ヘロデの神殿を見た者でなければ、真にすばらしい建物を見たとは言えない」とまで言われたそうです。


◆ この5〜6節を、7節以下と関連づけて読めば、イエスさまがこの世の終わりを預言したという話になるかも知れません。しかし、その前に、1〜4節と関連させて読めばどうなりますか。7節以下を忘れて読めば、容易に二つの出来事の共通点が見えてまいります。

 それは、一番簡単に言えば、外見と中味、器と内容ということです。

 表面的には、やもめはごく僅かな供え物をしたように見えます。しかし、それはやもめの全財産でした。彼女は信仰薄いのでもないし、ケチなのでもありません。一方の金持ちは、有り余る財産を持っているのだから、その献金額で、信仰を量ることは出来ません。こうなります。

 そして、神殿について言えば、建物の大きさ壮麗さが、平和・安定の保障になるのではないと、こういう話になります。

 どちらも、外見と中味、器と内容ということです。


◆ ここで、20章45節以下に戻ります。

 『民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。

 46:「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、

   また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。

 47:そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。

  このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」』

 こうして改めて読みますと、この箇所も同じことを取り上げていると分かります。

 そして大事なことは、私たちにも同じ傾きがあるということです。

 私たちは何に救いの確かさを求めているのか、それは建物だったり、お金のことだったり、地位・身分のことだったり、或いは教養や学歴、家柄だったりしてはいないのか、そう言うことを振り返って見なければなりません。


◆ 既に申しましたように、私たち人間は、本当に、形に弱いのです。新興宗教が目指すものは大伽藍の建立です。大伽藍、その建物の大きさが宗教を、その教えを格付けするかのようです。宗教ばかりではない、会社だって、学校だって同じことです。

 また、煌びやかな装飾に弱い、要するにお金がかかっているものに弱い。そして、儀式に弱い。兎に角に、形に弱いのです。


◆ さて、この出来事・物語を、外見と中味という観点で説明致しました。しかし、それは、この箇所を読む上での前提でしかありません。以上のことだけでは、精々半分しか読んだことにはなりません。福音書は、見てくれよりも中味が大事という教訓を伝えるために、この出来事を語っているのではありません。

 そうではなくて、真の救いは何処にあるのかという話です。

 私たちは、私たちに真の救いをもたらしてはくれない偶像、そして、偽キリストに目を奪われてしまっている。真のキリストが見えていない。誰が真のキリストなのか、誰が、本当に私たちを救い導き出して下さる方なのかと、そう問いかけているのです。

 だからこそ、8節以下には世の終わり、偽キリストの登場が描かれています。

 形に心奪われるとは、即ち、偶像に仕えるということであり、偽キリストを拝むということなのです。


◆ 最初のお話。貧しいやもめが、レプトン二つを献金しました。表面だけを見ると、この女はケチをして、僅かな捧げ物をしてように見えますが、実際には、大きな犠牲を捧げていたのです。出来る限りの精一杯のことをしていたのです。

 一方、金持ちたちは、大金を献金しました。大きな犠牲を捧げたように見えながら、それは、彼等にとって、ほんの昼飯代に過ぎなかったのです。

 二つ目のお話。人々は、エルサレム神殿の建物の立派さに感嘆しました。見事な大きな石が使われた美しい建物がエルサレム神殿でした。しかし、イエスさまは、建物は建物に過ぎない、どんな立派に見える建物も、何時かは古くなって朽ち果ててしまうと指摘されました。雨で腐ることのない石であっても、長い時間には、風化して、ついには砂になってしまうのです。

 ここでも、イエスさまの言わんとされることは、物事の表面だけを見ていては分からないことがある、外側だけではなくて、中味を見なさいと言うことでしょう。一人の人間の姿形ではなくて、心の中を見なさいと言うことでしょう。一つの出来事の、現象をではなくて、その中心を、その裏側を見なさいと言うことです。


◆ 表面的なことではなくて、中味を見なくてはならないと言うお話は、イエスさまの教えの随所に現れます。マタイ福音書6章5節、

 『祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、

  会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。

  よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。』

 カッコ良く祈っても、何もなりません。問題は本当に神さまに聞いて貰いたいと願って祈ることだけです。

 表面的なことではなくて、中味を見なくてはならないと言うお話は、他にも、いろいろありますが、きりがありません。


◆ 教会学校で、しばしは子供たちに、こんなことを質問します。

 この中に、あなたの目には見えない人がいます。横を向いても後ろを振り返っても、それでも見えません。さあ、それは誰でしょう。

 幽霊と答えた子がいましたが、残念違います。少なくとも教会には幽霊は出ません。吸血鬼だって、教会は怖がります。

 神さまと答えた子がいます。素晴らしい、その通りと言いたいのですが、残念、質問は、あなたの目には見えない人はです。神さまは勘定に入りません。

 答えは、あなた自身です。前にいる人も、左右にいる人も、後ろにいる人だって見ることは出来ますが、自分自身を見ることは出来ません。

 鏡に映してみたら、左右が逆に入れ替わっています。裏返しです。私たちは、自分自身を正しく見ることは出来ないのです。


◆ そこで私たちは、仕方なく、他の人の瞳に映った自分の姿を見ることになります。自分の周囲にいる人が、その目が、私自身を映す鏡です。しかし、自分の周囲にいる人は、正しく私を見てくれるのでしょうか。自分の周囲にいる人が、正しく見てくれないならば、私自身の姿が歪んでしまいます。

 同じように見ると言っても、愛情をもって見るのと、憎しみを抱いて見るのとでは、同じものが全然違った姿に映ります。自分の周囲にいる人は、正しく愛情をもって、私を見てくれるのでしょうか。自分の周囲にいる人が、愛情をもって、正しく見てくれないならば、私自身の姿が、醜く、歪んでしまうのです。

 私たちは、神さま、私を見て下さい。愛情をもって、私を見て下さいと祈らなければならないのです。


◆ 自分はなんて惨めな存在だと感じることがあります。劣等感そして被害意識を持ちます。そこで、惨めな自分を懺悔し、神さまの助けを乞うとはならないで、人を嫉み、呪い、そして、神さまを嫉み、呪う。自己嫌悪に陥る時の私たちも、自分を表面的にしか見てくれない人々の視線に傷ついています。

 しかし、神さまは、私たちの一番深い所を見ていて下さるのです。本人が気が付かないような良い所も、そして本人が気が付かないような悪い所も。

 祈ると言うことは、神さまの前に、裸の自分をさらけ出す行為です。神さまによって、裁かれます。そして、神さまによって救われます。神さまから裁かれることを拒否する者は、救いをも拒否しているのです。