日本基督教団 玉川平安教会

■2021年3月21日 説教映像

■説教題 「パラダイスの約束
■聖書   ルカによる福音書 23章32〜43節 



◆ 39節から読みます。

 『十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。

   「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」』

 この犯罪人が、具体的にどんな罪を犯したのかは、分かりません。マルコ福音書には、強盗と記されていますが、それ以上詳しい罪状はありません。強盗殺人とは記されていませんので、単なる強盗で、強盗殺人犯ではないのだろうと思います。強盗と強盗殺人では、罪の重さが随分違うように思います。

 もっとも、現代人の感覚から言ったならば、単なる強盗で死刑になることはないでしょう。これ以上詮索しても多分、意味がありません。何も見えて来ないでしょう。

 このことは、もう一人の男についても全く同様です。


◆ さて、この強盗は、何故こんな悪罵を吐いたのでしょうか。

 『ののしった〜自分自身と我々を救ってみろ』という言葉からは、イエスさまをメシアと考えていたとは到底思えません。『お前はメシアではないか』と言っていますが、意味合いは、むしろ「お前がメシアなら」でしょう。もしかしたら欠片ぐらいは、本当にメシアだったらという期待があったのでしょうか。とてもそのようには思えません。


◆ それならば、改めて、何故こんな悪罵を吐いたのでしょうか。

 想像の域を超えませんが、十字架の死への恐怖、ここに至った後悔、自分自身への呪い、それが、誰かしら、誰でも良い、罵倒する相手を求めたのではないでしょうか。このような罵倒は、根拠なしに憎しみに変わります。

 23章8節以下を引用します。直前の頁です。

 『彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、

   ずっと以前から会いたいと思っていたし、

  イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。

  9:それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。

 10:祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。

 11:ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、

   派手な衣を着せてピラトに送り返した。

 12:この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである』

 初めは単なる好奇心でした。それが、自分の意のままにならなかったら、たちまち憎しみに変わり、それが憎悪にまで育ってしまいます。

 特に最後の行を見ますと、この憎しみによって、ヘロデは宿年の敵と和解します。平和が人を結びつける力よりも、憎しみが人を連帯させる力のほうが遙かに強いのです。これは、恐ろしい現実です。


◆ 23章22節以下も見ます。

 『22:ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。

   この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。

  だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」

 23:ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。

   その声はますます強くなった。』

 この箇所の説教で詳しくお話ししましたので割愛しますが、人々は憎いローマ兵を殺した強盗のバラバを助命したい一心で、『イエスを十字架につけるように』叫びます。

 ナザレのイエスには、本当は何の関心もありません。


◆ 36節以下に記されるローマの兵士たちも同様です。断定的に言えます。彼らはローマ人ではありません。ローマによって占領されている地から、無理やり徴兵されて来ました。危険な地で汚い仕事をさせられて、普段から不満でいっぱいです。これから、処刑を行い、助けが来ないように、寝ないで見張りをしなくてはなりません。寒さに震えながら。

 この不満が、憎しみとなって、イエスさまに向けられます。

 37〜38は、その憎しみが表れる行為です。

 『「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」

 38:イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった』

 これは罵りです。35節の民衆や議員の憎しみが、ローマの兵士にも乗り移りました。そして、この強盗にも染まったのです。

 これらは本来互いに敵同士なのに、イエスさまへの憎しみで結び付いてしまったのです。


◆ 40節。

 『すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、

   同じ刑罰を受けているのに。』

 『もう一人の方』についても犯罪人と記されているだけで詳しいことは分かりません。しかし、この人だけ政治犯の筈がありません。矢張り強盗なのでしょう。

 この人は自分の罪の現実を認めています。また、『お前は神をも恐れないのか』と言うくらいですから、彼は、神を恐れています。


◆ 41節。

 『我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。

   しかし、この方は何も悪いことをしていない。』

 この人は、自分のしたことを悔やんでいるのでしょう。もし、罪を犯すだけの事情、言い分があったとしても、罪の現実を受け入れ、刑罰を受け入れています。

 人はなかなか、自分の現実、それも罪の現実を受け入れることは出来ません。自分の行為を正当化したり、誤魔化して目をそらしてしまいます。

 20年も前に大曲教会の教会学校の生徒だったという女性が教会に連絡して来ました。それだけなんですが、彼女の兄が、その兄、長兄をガソリンで焼き殺す事件が起こりました。私は牧師に命じられて、それまで一度も会ったことがないのに、裁判を傍聴し、後には面会に行きました。

 当然、彼から反省の言葉、後悔の言葉を聞くことになると思いました。そんな言葉は、ついに一度も出て来ません。殺した兄に対する憎しみを語っただけでした。


◆ もっと古い話です。父の同僚だった人の長男が殺人事件を起こしました。この人は、当時の表現で分裂症と診断され、精神病院に入院させられました。この人に呼び出されて、何回か面会しました。この人からも、反省の言葉、後悔の言葉を聞くことはありませんでした。

 彼の関心はただ一つ、視力が弱ったので眼鏡が欲しいが、許して貰えない、そこで視力が向上する本があるらしいので、差し入れして貰いたい、それだけでした。 

 この人は、後に、同じ病室の他の二人をカッターナイフで斬り殺してしまいました。何故カッターナイフを持っていたのかなど、細かい話は覚えていません。

 その後は、面会に行くこともありませんでしたが、10年も経ち、私は遠くに転居していたのに、手紙が届きました。そこには、視力が上がる本を差し入れて貰いたいとだけ記してありました。


◆ 42〜43節。

 『そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、

   わたしを思い出してください」と言った。』

 『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』

 『楽園』、口語訳聖書では『パラダイス』です。勿論、ギリシャ語がそうなっています。

 しかし、『楽園』、『パラダイス』を残して欲しかったと思います。残念です。


◆ この箇所を読んで、誰もが目を止めるのは、『御国』、『パラダイス』という言葉だろうと思います。パラダイス、それが天国を意味することは、誰でも知っています。しかし、それ以上具体的には分かりません。パラダイスとは天国である、それでは天国とは何か、どんな所か、結局分かりません。

 聖書全巻を通じて、この字がパラダイスと翻訳されているのは、この箇所のみです。他に天と訳される例が上げられます。また、聖書辞典を引きますと、この言葉が、元々エデンの園という時の、園を意味しているという解説を読むことが出来ます。

 せいぜい想像力を逞しくして、こんなことが言えます。バビロンには、砂漠に川から水を引いて花園が作られていたそうです。雨が殆ど降らない乾いた土地に豊かな花園が広がる、その不思議な光景を見たユダヤ人のご先祖様は、死後の世界に、失われたエデンの園が再び開けるという考えました。死後、その花園に、エデンの園に入れて貰いたいという期待が生まれ、それがパラダイスと呼ばれました。


◆ こういうことだけでも、大変興味深いことです。より詳しく調べればもっと楽しい話題が見つかりそうです。しかし、それ以上に興味深いことには、43節をもう一度読みます。

 『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』このように言われました。

 イエスさまが、パラダイスを約束しておられます。

 これこそ、極めて極めて、例外的なことです。

 何故、イエスさまは、ペトロや他の弟子にも約束されなかった天国を、よりによって、犯罪人に約束されたのか、何とも不思議です。

 このあたりのことも、突き詰めて考える値打ちのある事柄だろうと思います。


◆ しかし、何より大事なことは、注目すべきは、 この犯罪人の言葉の内容です。

 『我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ』

 単に、死刑になる程悪いことをしたという懺悔ではありません。彼は、罪を自覚したのです。罪を告白したのです。そして更に言いました。

 『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』

 イエスさまの記憶の一部となることを願っています。イエスさまの命の中に生かされることを願っています。

 逆に言えば、そこにだけ唯一の希望があります。それ以外の希望はありません。有ったとしても、口に出来るような願いではありません。


◆ この男は、強盗です。強盗に過ぎません。しかし、実は、人間全体を象徴する存在です。

 礼拝に出席されるような人は、この男と自分とをかさねることなど出来ないでしょう。当然です。しかし、人は死すべき存在です。十字架の死を目前にして息をついている点では全く同じ存在なのです。人は、聖書的に見れば、死に定められた罪人でしかありません。例え、法律に触れるような悪いことをしていなくとも、人様から道徳的に咎められるような悪いことをしていなくとも、人は死に定められた罪人でしかありません。


◆ テレビでドラマを見ていると、頻繁にこんな台詞が言われます。

 「天国でまた会いましょう」とか、「天国には知り合いが多いから」。年齢が高い人ほど、こんなことを言います。私もそんな台詞を口にするようになりました。

 ところで、この人はクリスチャンなのでしょうか。教会に通っているのでしょうか。クリスチャンでもないし、教会に通ってもいないのに、そんなことを口にする人が多いこと。何を根拠に「天国でまた会いましょう」とか、「天国には知り合いが多いから」とかと言えるのでしょうか。根拠などありません。しかし、「極楽でまた会いましょう」、「極楽には知り合いが多いから」とは言いません。「向こうでまた会いましょう」、「向こうには知り合いが多いから」とかとは言います。この向こうとは、極楽ではないようです。やっぱり天国です。パラダイスです。


◆ 同様にイエスさまを罵った強盗も、人間全体を象徴する存在です。このような人は、自分に下された刑罰を直視できません。そして、イエスさまを呪っています。

 『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ』、「メシアではない」だから「自分自身」をも俺をも救いことは出来ないと罵ります。彼は絶望しています。助けはないと諦めています。しかし諦めきれずに、他人を罵ることで、恐怖を紛らしています。

 これが、人間全体の象徴です。クリスチャンにはそんな人はいないのかも知れませんが、いるかも知れません。絶望に囚われているクリスチャンとは、言葉の矛盾だと思いますが、そんな人がいるかも知れません。


◆ 人は、死すべき定めにある存在ですが、同時に、死後の世界に何かしらを望む存在でもあります。

 自分一個の死は受け入れても、残された家族の幸福な人生を願います。自分が手がけた研究や仕事が続くことを願う人もいます。

 少なくとも、自分の人生がそして死が、無駄には終わらないことを願います。

 『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』

 この強盗は、強く懺悔しているのでしょう。ですから、私を天国に連れて行って下さいとは願いません。そんな資格はないと分かっています。しかし、だからこそ、『わたしを思い出してください』と言います。

 もう一人の強盗は、全く絶望しています。天国など信じない強盗は、多分地獄も信じないでしょう。それでも、絶望し恐れています。絶望、虚無が、既に彼を地獄に呼んでいます。


◆ 私たちは、一人一人が、犯罪人のどちらなのかと問われています。AとなるのかBとなるのか問われています。そのどちらでもない、私はそもそも強盗ではないし、罪人ではない、と言うのでしょうか。私は善人だから、当然天国に入れる、その資格がある、イエスさまに赦して貰う必要も、天国に連れて行ってもらう必要もない、と言うのでしょうか。