日本基督教団 玉川平安教会

■2021年5月16日 説教映像

■説教題 「キリストの香り
■聖書   コリントの信徒への手紙二 2章12〜17節 

★ 14節、

 『神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ』

 特に『キリストの勝利の行進』、口語訳聖書では『キリストの凱旋』という表現について、先ず、その歴史的な背景などをお話しなくてはなりません。なるべく簡単に致します。

 『キリストの勝利の行進に連ならせ』とは、こういうことです。口語訳聖書の、『凱旋』という言葉から連想して頂ければ間違いありません。凱旋、凱旋門、パリ・シャンゼリゼ通りのエトワール凱旋門、あれです。私のように実物を見たこことがない人でも、誰もが知っています。例えばエジプトやドイツの戦場で大勝利を上げたナポレオンの軍がパリの都に凱旋帰国して来ます。パリの市民は、歓呼の声でこれを迎えます。この軍隊を讃えるためにわざわざ新しく門が建造されます。今まで誰も潜ったことのない神聖な門、それこそ、かつてない大手柄を立てた英雄にふさわしいということでしょうか。

 日本ですと乃木大将を迎えた提灯行列です。

 勿論、これは、ローマ帝国での慣習でした。ユダヤ人であり、かつ、ローマの市民権を持っていたパウロは、このような光景を自分の目で見たものと思われます。

 ローマ帝国の凱旋将軍の姿に準えて、信仰が勝利する様子を描いたのが今日の場面です。


★ このように申しますと、如何にも華々しい行列と映ります。しかし、ローマの凱旋軍には、実はもう一つの習わしがありました。凱旋の際に敗戦国の捕虜を奴隷にし行列に加えて、その数を誇るというものです。

 傷つき、血を流した将軍・兵士たちが、惨めな様子で引き立てられて来ます。沿道に十字架が立てられ、兵士たちの屍がさらされたとも言われます。

 パウロは、自分をこの捕虜として、奴隷として、描いているのです。決して、自分を凱旋将軍になぞらえているのではありません。キリストの下僕と自称したパウロならではです。

 『神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ』、使徒言行録を読みますと、パウロは囚人として、エルサレムからローマに護送されました。その他にも、幾度か囚人として捕らえられ、獄に入れられました。

 パウロは自分を、この捕虜として、奴隷として、描いています。決して、自分を凱旋将軍に譬えているのではありません。キリストの下僕として、キリストの名前故の囚人・捕虜として、自分を描いているのです。

 これが大前提です。パウロたち信仰者が、奴隷として捕虜として引き立てられるこの行列は、しかし、『キリストの勝利の行進』なのだという大胆な発想・主張です。

 

★ またローマでは、この行進の際に、沿道の群衆に向かって、お金やお菓子と一緒に、様々な香水が振り撒かれました。花びらに香水を染み込ませていたとも言われます。『キリストの香り』というパウロの表現は、このことがヒントになっています。

 『わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。』

 この場面描写自体が、使徒パウロならではの、実に大胆な発想力によるものです。大いなる発想の転換です。そして、先週の説教でも触れましたように、これも大いにパウロらしい皮肉、乃至ジョーク、むしろブラック・ユーモアなのです。皮肉とか、ジョークという表現がお気に召さないなら、逆説です。

 

★ ローマの凱旋軍は、例え馨しい香水を染み込ませた花びらを沿道に撒こうとも、その本質は、既に申し上げたように、死の行列であり、彼らは人間の屍が放つ臭い、死臭を強烈に放っています。

 一方で、パウロを初めキリスト者は、奴隷、汚らしい乞食同然の姿で引き立てられるかも知れません。長い獄屋の暮らしで、腐臭がするかも知れません。洗濯をしていないどろどろの服装かも知れません。しかし、彼らからは、信仰の香りが、キリストの香りが漂います。

 そも、十字架に架けられた方は、そして、復活された方は、死の香りをしていたのではなくて、マリアによって塗られたナルドの香油の香りがしたことでしょう。死の臭いではなくて、命の香りがしていたことでしょう。


★ 15節。

 『救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、

   わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。』

 全くこの通りです。キリスト者は、ある人々にとっては 、死の臭い漂う人々です。そして、他の者にとっては、命の花の香りがします。そして、どちらの場合にも、キリストの香りがします。キリストの香りがしているのです。

 正しくキリストの香りがしているならば、人々は、そこに命の花の香りを嗅ぎ取ることが出来ます。正しくキリストの香りがしているからこそ、そこに、死の香り、十字架の香りを嗅ぎ取る人もあろうかと思います。それは、仕方がありません。それは、復活の香りの一歩手前なのかも知れません。

 しかし、キリストの香りではない、他の香りがしてはなりません。

 この点については、17節で今一度申し上げます。


★ 16節。

 『びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。  このような務めにだれがふさわしいでしょうか。』

 全くこの通りです。パウロの論法では、結局両者共に、同じ香りを嗅いでいます。しかし、そこから、嗅ぎ取るものが違います。同じ福音を聞いていても、聞くものによって、聞き取るものが違います。イエスさまの十字架から、この場合、敢えて復活のことは言いません、イエスさまの十字架から、ただ死の臭いを嗅ぎ取る人もいれば、しかし、ここにこそ、永遠の生命を嗅ぎ取る人もいるのです。

 福音書が描く、イエスさまの十字架の場面、そこに登場する人々は、基本的に同じ光景を見ている筈です。しかし、別のものを見ています。

 私は、かつて、マルコ福音書の説教で言いましたように、百人隊長の証言、というより、つぶやきに注目します。

 『百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。

  そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、

  「本当に、この人は神の子だった」と言った。』

 百人隊長は何を見たのか、「まことに、この人は神の子であった」と感嘆するような出来事があったのか、何もありません。あったならば、他の人々だって気が付くし、同じ反応をする筈です。百人隊長は何を見たのか、十字架に架けられたイエスさまを見たのです。そこから、命の香りを、その死から、命の香りを嗅ぎ取ったのです。


▼ キリスト者の死、葬儀に際して、死の臭いしかしない筈の葬儀から、死者から、生命の香りを嗅ぎ取ることは、しばしば、現実です。私は何度もそんな体験を与えられています。いちいち、例は上げません。真に信仰を持ち、信仰に生き、信仰のもとに死を迎える人の葬儀では、死の臭いしかしない筈の葬儀から、死者から、生命の香りを嗅ぎ取ることは、しばしば、現実です


★ ところで、今のような話し方をしてしまったからには、16節の後半の部分に拘らない訳にはまいりません。

 『救われる者には命から命に至らせる香りです』

 死からいのちに至らせる香りではありません。『いのちからいのちに至らせる香りです』。真に信仰者として、この地上で信仰のいのちを与えられていればこそ、死の後も、永遠の命が与えられるのです。

 

★ 16節の末尾。

 『このような務めにだれがふさわしいでしょうか』

 実際大変なことです。特にこの時代は、伝道者であることは、文字通りキリストの奴隷となることであり、表面的に見れば、死の香りしかしなかったのです。彼の内に、命の香りがあるなどとは思えなかったのです。

 一言だけ注釈を言います。伝道者であること、牧師であることは、特権では勿論、権利でも、資格でもありません。今、いろんな人がいろんな立場から、自分たちにも伝道者、牧師として認められる権利があるというようなことを言っています。確かに、牧師の制度に歴然とした差別があります。撤廃しなくてはならないこともあります。しかし、伝道者、牧師として認められる権利など、実は、誰も持っていません。

 例えばパウロ、例えばアッシジのフランシス、近くはマザー・テレサ、この中に、私はかような正しい行い正しい伝道をしたいから、ついては、資格・権利を保障して貰いたいなどと言って、それが認められ、保護された人などありません。

 応援・援助もあったかも知れませんが、むしろ無理解・迫害の中で、実績を残して行きました。そして、後になってやっと、例えば法王庁から、異端ではないと認められました。

 私たちには初めっから法王庁的権威などありはしません。

 正しいと信じるならば、人の手を当てにしないでやってみるしかありません。


★ 17節。

 『わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、

  誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。』

 いかにも、唐突に聞こえます。しかし、パウロの時代の現実であり、今日の箇所全体も、この問題が根底に存在するのです。『神の言を売物に』する人、自分をキリストの奴隷としてではなく、何か偉い者のように喧伝する人々の存在が、コリント教会を分裂に追い込み、パウロを『死を覚悟する程に』苦しめました。

 

★ 『神なき街の聖歌』という小説があります。あまり質の良い本ではありませんからお勧めはしません。この原題は、『Sea of green』と言います。初め何のことだろうと思いました。海のことなど1行も出てきません。実は、緑色のお札・高額紙幣のことなのだそうです。ラジオ伝道の実態、金儲けのための伝道の内幕暴露が小説の骨子になっています。

 貧しい黒人層が主要なターゲットなのに、牧師は高級品を身にまとい、ダイヤの指輪を10本の指に付けています。そして聖書の話は、ほんのおざなり程度、後は人生如何に生きるべきか、明るく元気に生きよう、ハレルヤで生きよう、そうすれば、私みたいに健康で幸福にリッチになれる、これが福音の内容なのです。

 チャリンという献金の音がするようではいけない、教会を高額紙幣の緑色に変えよう。…実際にこのような牧師が、その説教が人気を博するのだから不思議です。

 私はアメリカで暮らしたことはないし、テレビ伝道師の説教を聞く機会も滅多にありませんが、少なくとも小説に登場するテレビ伝道師は、こんなもののようです。コリント教会を惑わした偽善的牧師がどんなだったのか、詳細は分かりませんが、どうも、十字架よりも、復活よりも、自分を宣伝することに熱心だったようです。


★序でに挙げますと、アメリカには牧師を主人公とした小説が少なくありません。その著者が牧師という例さえあります。

 メソジスト教会の牧師であるチャールズ・メリル・スミスの推理小説『ランドルフ師と堕ちる天使』には、こんな台詞があります。

 「福音派の牧師が聖霊という言葉を口にしたら、それは必ず献金のことだ」

 この本は三部作のシリーズですが、なかなか面白い、お勧め出来ます。

 その他、私の図書の中にさえ数十人の牧師・神父が描かれていて、大半はろくな牧師ではありません。多くは、金儲けと立身出世にしか関心がない、生臭として描かれています。

 多分、パウロの時代には、命を賭して働く伝道者と、その一方に、自分の利益しか考えない伝道者がいたのでしょう。イエスさまも、預言者エレミヤも、そのような人物を、言葉鋭く批判しています。


★ 伝道の業を担う者は、第一義的に、キリストの奴隷です。それなのに自分を将軍のように思い、まして王のように自己理解している者は、将軍のように、金銀や宝石をちりばめた衣装を纏う者は、王のような贅沢をしている者は、イエスさまや使徒パウロや預言者エレミヤが … 徹底して批判した偽預言者・偽善者に過ぎません。 

 自分を拝ませる人は、牧師でも神父でもありません。信仰者ではありません。


★大脱線かも知れませんが、特に日本人は、何でもかんでも、神さまに祭り上げます。ちょっと大きな樹木や石、しめ縄を張ればもう神さまです。小さくともちょっと形の変わった石や、景色、もう神さまです。歴史に残るような偉業ならまだしも、悪行をなした者も、神さまです。石川五右衛門も鼠小僧次郎吉も、神さまです。私の生家では便所の神さまがあり、大晦日には灯明を灯したものです。

 しかし、不思議なことに、『香り』だけは神さまになりません。『香り』を重んじる宗教は無数にあります。ローマカトリックもそうです。義式に欠かせません。

 しかし、『香り』を拝む宗教を私は知りません。例外は、半村良の『石の血脈』に登場する女教祖、この教祖の名前が香りです。

 教会が宣べ伝えるべきは、イエス・キリストであり、その十字架と復活です。死の臭いがするような福音は、現代人には受け入れられないかも知れません。しかし、ここにこそ、命の香りが存在するのです。キリスト者は『キリストの香り』です。自分を神としてはなりません。