今日拝読いたしました聖書箇所の時代背景として、南王国ユダがアッシリアに攻撃された時か、またはアッシリアが滅んだときが前提とされていると言われます。どちらにしても、新しい時代の到来が告げられている聖書箇所です。 イザヤ書の時代、イスラエルは南北に分かれており、そこにはロクな王様がいませんでした。北イスラエルの歴代の王は、主の目に悪とされることをことごとく行うような王様で、革命に次ぐ革命によって血を血で争う国でもありました。悪を積み上げ、それゆえに北イスラエルは滅ぼされることになります。今日の聖書箇所では既に北イスラエルが滅ぼされ、南王国ユダが残っている状態です。残された南王国ユダはというと、神に背く王様と、時折神に従う王様が出る、という状態でした。北イスラエルがアッシリアによって滅ぼされ、南王国ユダにも危機が迫っています。けれどそのユダの王様は神に従う王様ではありませんでした。そして、主なる神に寄り頼むどころか、敵国にすがり、挙句そのすがった相手に略奪されるという散々なものだったのです。 そのような窮地の中にある国を救ってくれる王様が必要でした。イザヤ書は、その王たるに相応しい方はどのような方か、ここに預言したのです。 2節には王として必要なものが列挙されています。王が適切な判断を下すことを可能にする資質である知恵。政策を確立するために必要な、出来事や人物に対するより深い知的洞察である識別。注意深く心を働かせて考える思慮。決断、決行する力である勇気。それぞれ言葉で言うのは簡単かもしれませんが、ダビデ、ソロモンを除く多くの歴代のイスラエルの王様はこれらを備えていなかったのでしょう。 そしてそれらを備え、かつ王様に必要なものが主を知り畏れ、敬う事です。箴言や詩編では、<主を畏れることは知恵の初め>とさえ言われます。他にも多くの聖書箇所で、主を畏れることがいかに必要なことかが記されています。「主を畏れる」ことがいかに重要なことか、旧約聖書のいたるところで伺い知ることができるのです。イスラエルの王が他の王と同じ力を持つだけでは不十分であり、「主を知り畏れる」ということがイスラエル人にとって大切なことなのです。 怖がることと、畏れることは違います。主なる神は怖い、ということもあるかもしれません。超越的な力を持つお方ですから、そのように捉えることもあるかもしれませんが、神の偉大さ、公平さ、愛、など神様のすべてを含めて正しい意味で畏れることが求められます。神と出会い、神様の偉大さに触れる中で人間は自らの無力さと矮小さを自覚し、神の聖性の前に畏れかしこむ、ということがあるでしょう。主なる神を畏れることは知恵の初めであり、これを行う人はすぐれた思慮を得ます(詩編111編10節、箴言1章7節)。また、神様は義なるお方ですから、<主を畏れることは、悪を憎むこと>(箴言8章13節)にもなります。そして、主なる神はご自身を畏れる人を、父がその子を憐れむように憐れんでくださる(詩編103編13節)。主なる神を畏れるからこそ、主なる神が与える道を歩むことができる。そうして主を畏れる人には何も欠けることがなくなるのだ(詩編34編10節)。そういったことが聖書には記されています。 この時代、南王国ユダを苦しめたアッシリアの王は、2節で言われているような資質をすべて自分のものだと主張しました。その背景には神の働きがあったにもかかわらずです。周辺諸国を圧倒的武力で征服していくアッシリアは驕り高ぶっていました。10章13,14節でアッシリアの王は言っています<「自分の手の力によってわたしは行った。聡明なわたしは自分の知恵によって行った。わたしは諸民族の境を取り払い 彼らの蓄えたものを略奪し 力ある者と共に住民たちを引きずり落とした。」>アッシリアの王は主を畏れてなどいませんでした。様々な王たる資質を持っているはずの王、アッシリアの王が行ったことは、<諸民族の境を取り払い 彼らの蓄えたものを略奪し 力ある者と共に住民たちを引きずり落とす>ことだったのです。 アッシリアに征服された国、民は、口にするのも憚られる残虐な目にあいました。アッシリアの残虐性は目に余るものがあります。アッシリアはその暴力・武力による支配でその時代の大国となったかもしれません。けれど同時に、「主を知ることなく、畏れ敬う事ない」アッシリアは世界の表舞台から姿を消すことになるのです。 主を知り畏れ、敬う者は、<目に見えるところによって裁きを行わず 耳にするところによって弁護することは>ありません。言うならば、目に見えて、耳にするところでは、救われることができないのでしょう。目に見えるところが全てではない、耳で聞くところが全てではありません。アッシリアの王は自身のことを聡明なものだと言っていました。まさに、耳が良く聞こえ、目が良く見えるものだと自負していた。情報収集力に長け、物事を合理的に把握し、人心を掌握し、持っている武力、暴力をいかんなく発揮していたことでしょう。しかし、主を知ることなく、畏れ敬う事ない道、すなわち悪の道には、未来はなかったのです。 このアッシリアの出来事だけではない、歴史を大きく見ても、多くの国がその武力・暴力・政治力に頼って平和を築こうとしましたが、その平和は真の平和ではなく、そして長くは続きませんでした。 現代の私たちの世界でも、悪魔のような力が猛威を奮っています。人が人を抑圧することを、殺すことをやめません。ロシアのウクライナ侵略がある。その他世界では多くの問題があり、また複雑に絡みあってもいます。詳しいわけでは全くありませんが、チュニジアの現状なども厳しいものです。革命後、民主化が進んだかのように見えたが、新しい王である大統領に正しく公平に裁くための力がなかったようです。民衆の生活が変わらず苦しいこともあり、民衆の支持が得られなくなって、大統領は自身の都合の良い議会をつくり上げて独裁政権に逆戻りしようとしているとも言われます。アメリカだって、勿論日本だって、指導者が必要な資質を全て持っているなんてことはありません。国や指導者を批判、非難する国民にも、そのような力を持っている者がなかなかいない。そして何よりそこには、「主を知り、畏れ敬う霊」がなければならないのでしょう。そうでなければ、どんなに指導者にその資質があったとしても、その国は現代のアッシリアになってしまいます。そしてそのような指導者の下で、いつでも割を食うのは、命の危険の真っただ中に落とされるのは、弱い者、貧しい者たちです。正当に、公平に、弱い者、貧しい者のために裁き、弁護して下さる方が必要なのです。 では、今日の聖書箇所に言われるような平和の王はどこにいるのか。暴力、軍事力、政治、そういったもの以外の方法で真の平和を達成できる、そのような方はどこにおられるのか。とても望めそうにもない平和の王。しかし1節で、<エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。>と語られる。つまり、新約聖書のマタイやルカ福音書の解釈と合わせるのならば、ダビデの血筋のヨセフのところへ、その平和の王が降ってきた、と聖書は証言します。 クリスマスには新しい王が与えられたというメッセージがあります。イエス様が、神の御一人子である方が人となって、この世に与えられた。イエス様が新しい王として君臨なさる。そのような国、神の国の希望があります。 イエス様がどういう方かまだほとんど知らない明治学院高等学校の生徒にこの神の国について触れたところ、怖いと言われました。授業中、使徒信条の内容についての説明の中で、神の国について触れないと説明にならないと考え、キリスト教徒はイエス様の支配を待ち望んでいるという話をしたのです。そうしたら怖いと。確かにイエス様のことをほとんど知らない人たちからすればそうでしょう。授業に関しては、やり方を、また伝え方、その順番を間違えたかもしれません。でも私たちは知っています。イエス様のことを、この毎週の礼拝で、聖書を読んで、また兄弟姉妹の証によって主イエス・キリストを知らされています。 私たちの「主」は神が人となってまで、私たちに近づいてくださった方です。いや、私たちそのものの姿をとられ、私たちの苦しみ、弱さ、罪を担って下さいました。貧しい人たちのところに行って、苦しみを分かち合う政治家などはいます。けれど、その数日後には、高級料理店で食事したり、会合を開いたりする、またせざるを得ない現状があるのが政治家です。本当にはその人たちの苦しみを実感するなんてこと、できるはずがありません。また、地位や立場がない者が、貧しい者たちを使って、それに寄り添うふりをして甘い汁を吸うということもあります。それらとは違い、主イエスは高い地位、神という絶対の地位にいながら、へりくだり、その身を人にまで落として下さった方です。何も人にならなくたって良いものを、そこまでして、人と共に歩んでくださった方です。ご自身に何の得もなく、むしろ自身が人となったそのことのゆえに非難され、蔑まれることがあるにも関わらず、主は、このクリスマスに記念される時に、この世にお生まれになりました。家畜小屋で。臭く、みすぼらしく、とてもこの世の栄華があるようなところではなく、下の下まで、へりくだって来てくださった方です。 世の権力者、いや権力者だけでなく、今の時代ネット上で発信する人々なども、自身には関係ないところで、関わりない所で、危害が及ばないぬくぬくとした場所から偉そうに講釈を垂れます。主だって、天の御座から、高みから、講釈するどころか圧倒的な力で裁けば良いはずです。けれどもそれをしないのが私たちの主であります。上から見下すような王とは違います。何の関りもない場所から、遠い所から、自身と関係なく民を見ているような王ではないのです。それどころか、私たちの只中に来てくださったのが主イエス・キリストという王様です。 勿論主イエスは2節の王としての力をお持ちでした。律法学者やファリサイ派などとの討論は勿論、至るところでその知恵をあらわしておられます。目に見えるところ、耳にするところで裁きや弁護を行うのではなく、弱い者、貧しい者にも正当な裁き、弁護をなさったのがイエス様です。そして高ぶらず、謙虚に、ご自身神の子でありながら、父なる神に従順に仕えた方です。 普通の王様や、指導者がたてあげる国、その旗印が掲げられるところには多くの犠牲があります。貧しい者、弱い者、自国の民、相手の国の民、その多くの犠牲の上に勝利の旗は立てられます。しかし、主イエスの十字架には、イエス様以外の犠牲はありません。イエス様が王として君臨し、その支配が始まった十字架の出来事、そこにはイエス様以外に犠牲はありませんでした。ご自身をお与え下さることによって、真の平和を与えてくださる、そのような王様です。 そのような仕方で王として君臨してくださるイエス様だからこそ、私たちは、私たちの王として仰ぎたいし、仰ぐのです。たとえ、今私たちがどのような境遇にあろうと、状況にあろうと、目に見えるところ、耳で聞くところで判断するのではなく、隠れたことも全てご存知の方が公平に、正当に裁き、弁護して下さる国がある。そこの王様は、私たちの人間としての弱さをもすべてご存知で、かつ、その人間としての生をも味わいその身をもってすべてをご存じの方、そのイエス様が王としてご支配なさる世界、神の国をこそ待ち望み、希望を置きたいと思います。そのような王様の下に集うべきでしょう。 10節、<その日が来れば エッサイの根は すべての民の旗印として立てられ 国々はそれを求めて集う。 そのとどまるところは栄光に輝く。>とあります。「すべての民の旗印」この言葉の解釈は、今日の10節の本来の意味とは少し違うのかもしれませんが、主イエスの十字架をそこに見たいと思うのです。 主イエスが十字架の業をなされたことで、6節以下の理想郷は来たかというと、現実に目の前に字義通り広がったのではありませんでした。しかし主は、私たちが思いつけなかったような世界、神の国を到来させて下さっています。様々な状況、立場にある人々が共にこの玉川平安教に集っています。一番上は神様、一番下は罪人の頭である牧師まで、あらゆる人々が同じ食卓に集い、神の霊に満たされる礼拝を共にしています。そして、私たちの王である主イエスに結ばれていると確信させて頂ける聖餐式にもこの後与ります。愛の業を成し遂げた主を畏れ、敬いつつ、その主から与えられる恵みを喜んで受けたいと思います。 主が真の平和の王として、民を導く方として、成し遂げられた業、救いである十字架の出来事、そこにこそ私たちは集い、見上げて、歩んで行きたいと思います。そして、理想的な世界、人間が思いもつかない世界である神の国の完成が与えられるという約束、その良い知らせを、このクリスマスに皆で味わいたいと思います。そしてそこに掲げられた十字架の旗印のもとに、すべての民が集う事を、また自ら隣人を、体が、心が、折れ欠けている者たちを連れて、集いたいと願い、祈ります。 |